佐賀郡
佐賀郡(さがぐん)
肥前国(佐賀県)東部の郡。明治の郡区編制では、東部から東北部にかけては神埼郡に接し、東南部は筑後川を距てて福岡県の三潴郡に対し、南部は有明海に臨み、西北部から西部にかけては小城郡に接していた。しかし現在はその郡のほぼ中央に佐賀市が分離し、のちまた西北部の小城郡南山村と北山村が佐賀郡内に編入されて、郡の北部は直接福岡県と界している。こうして現在の郡域をほぼ南北に二分し、北半分は筑紫山脈の南方に続く山地帯であり、南半分は有明海に至る沖積平野が開けている。『肥前国風土記』に「佐嘉郡 郷陸所(里一十九) 駅壱所 寺壱所」とあり、『和名類聚抄』には佐嘉郡として城埼・巨勢・深溝・小津・山田・防所の郡内六所の郷をあげている。郡名の初見は『肥前国風土記』であるが、『和名類聚抄』『延喜式』とともにいずれも佐嘉と嘉の字をあてていて、『日本霊異記』には佐賀と記して賀の字をあてている。中世近世を通じて佐嘉の用例が多かったが、明治初年に佐賀とすることとした。サカの地名の起源については、『肥前国風土記』に述べる楠の巨木伝説と賢女(さかしめ)伝説とがある。郡北部の山地帯や山麓地域には先土器文化の存在も確認されているが、縄文・弥生文化の時代に入ると遺跡も所々に発見され、遺物も数多く出土している。今の佐賀市に属する久保泉町櫟木の遺跡からは銅戈の鎔范が出ている。郡内における荘園は、太宰府安楽寺領の佐嘉荘・蠣久荘・牛島荘、宇佐八幡弥勒寺領の成道寺荘をはじめ、長講堂領巨勢荘、同じく安富荘、最勝寺領河副荘、以下三重屋荘・三重屋新荘・与賀荘・与賀新荘・鹿瀬荘などがあった。平安時代末から鎌倉時代初期にかけて、この地方における有力な武家として史料にみえるのは、平野部北部の高木・国分の二氏、南部の竜造寺氏などである。室町時代初期から戦国時代にかけては、大内・大友二氏の進出や、少弐氏盛衰のからみ合う中に、北部山地に神代氏が勃興し、南部平野の竜造寺氏は、次第に強盛に向かう。ことに元亀元年(一五七〇)大友氏の軍を今山に破って、竜造寺氏の覇権は確立し、やがて神代氏もこれに降る。天正十二年(一五八四)竜造寺隆信が島原に戦って敗死すると、佐嘉の支配権は次第に鍋島氏の手に移り、近世幕藩体制への移行とともに、鍋島氏による佐嘉藩が成立し、郡の大部分はその蔵入地であった。明治四年(一八七一)七月廃藩置県により佐賀県となり、同九月厳原県と合併して伊万里県、同五年佐賀県と改称したが、同九年佐賀県は三潴県に合併、のち西部の一部は長崎県に入り、ほどなく、残部も長崎県に入れられたが、同十六年長崎県を離れて現在の佐賀県となった。