佐土原藩
佐土原藩(さどわらはん)は、江戸時代に日向国那珂郡および児湯郡を領有した藩。藩庁は佐土原城(宮崎県宮崎市佐土原町)。島津氏支族佐土原島津家が藩主であり、薩摩藩の支藩とされるが、その関係の正確性は薩摩藩との関係を参照。
歴史
1603年(慶長8年)、島津貴久の弟・忠将の子である以久が、日向国那珂郡・児湯郡内で3万石を与えられて独立し、居館を佐土原城に構えた。この地は元々島津一族の一人であった島津家久・豊久親子の領地であったのが、関ヶ原の戦いで豊久が死去し無嗣断絶扱いになり、改めて江戸幕府より以久に与えられたものである。この時、家久・豊久来の譜代の家臣に加え、以久が松木氏など新参の家臣を垂水より引き連れ、家臣団の門閥対立の基となる。
第6代・惟久は出生後まもなく、父忠高を失い、あまりに幼いが故、成長まで、番代として忠高の従兄弟である久寿が養子となって家督を継ぐ。藩内では、久寿の父久富や重臣松木左門の専横によりお家騒動となり、1686年(貞享3年)薩摩藩の介入を招いた(松木騒動)。1690年(元禄3年)、久寿は16歳に成長した惟久に家督を譲ったが、その際、幕府の意向により3000石を島之内に分与されて旗本寄合となり、その結果、佐土原藩の石高は27000石となった。
佐土原は元々城地であったため、1699年(元禄12年)に城主の格式が与えられている。
幕末は、薩摩藩と行動をともにし、忠寛は、1869年(明治2年)に戊辰戦争の激戦の功により、賞禄3万石を与えられた。
広瀬転城
佐土原藩は版籍奉還後の1869年(明治2年)10月1日、明治政府からの許可を得た上で佐土原城から新しく築城する広瀬城へ移るよう転城令を出していた。弓場組(後述)の横行の一掃と、守り口による城下士の序列や外城士の区別をなくし、新しい組織替えを意図していたが、1871年(明治4年)7月に廃藩置県により広瀬築城は中止された。
兼ねてから藩庁を佐土原城から移転するべきだという考えは有志の間から出ていた。
藩校学習館の塾頭三浦十郎[1]、町田景慶をはじめとする有志が城と藩士の住居を都於郡に移し、人心を一新させることを能勢直陳ら家老に発案した。
1867年(慶応3年)、酒匂景命(後の曽小川久株)、富田通信、能勢直陳ら家老は京都で相談のうえ、入京した藩主忠寛の同意を得て、移転先を選定にかかった。
1869年(明治2年)、曽小川、樺山舎人、富田、能勢たちで候補地を定めようとしたが、都於郡、年居原、新田山之坊、広瀬等が出て定まらず、まずは明治政府に転城の許可を得ることを優先した。7月24日に伺書を提出し、25日に知政所、知事をはじめ士族の住所を移転するが、城は当分従来の物を使い、番兵も置くことを申し出て了承された。
許可を得たのち、最終的に移転地は広瀬に決定された。四つの候補先で広瀬が選ばれたのは、次のような理由があったと言われている。
- 広瀬は地の利が良く、福島、石崎などの港を控え、便利である。
- 広瀬は砂地で潮の干満で増減する沼が続いており、塩害を受けやすく、干害時は特に被害を受ける事が多く、米麦が主生産であった当時の農業には不適だった。佐土原は土地が肥沃で農耕に適しているので、士族と農民を入れ替え住まわせ、貧困な藩財政の立て直しを見込んでいた。
忠寛が知藩事として帰国した10月1日、知政所を広瀬に移転する命令が出された。政庁やその他の屋舎が完成するまでの間は知事の住居を天神の御茶屋に定め、広瀬村庄屋役所を仮知所とした。その他の役所も民家を借用した。また、一ツ瀬川河口付近から石崎川まで金丸惣八に運河を引かせて資材の運搬を行った。藩庁移転の臨時費の総額は明らかではないが、戊辰戦争の莫大な戦費を負担した後の藩財政では賄いきれるものではなく、士族の禄高の10分の6を借り上げて充当した。
1870年(明治3年)2月16日にまず新政庁が、8月に知事邸宅をはじめ各庁舎も完成したため、9月17日に佐土原城を廃城する旨を明治政府に報告した。多大な費用を払った転城だったが、1871年(明治4年)7月14日に廃藩置県が打ち出され、佐土原藩は佐土原県となり、広瀬城は建設中止になった。翌15日に忠寛は知藩事を免ぜられ10月には東京へ移住した。11月14日には佐土原県は廃止され、美々津県に編入された。
明治時代になって版籍奉還の後に城郭を新築し、移転しようとしたのは極めて異例のことであったが、版籍奉還を将軍の代替わりによる所領安堵を明治政府が行ったものだと捉えた藩もおり、版籍奉還後の1870年(明治3年)9月に「藩制」の公布など明治政府も藩制度を前提とする布告を出しており、廃藩置県が行われるのを予想することは困難だったと推測される。
後に美々津県は宮崎県に編入され、鹿児島県との合併を経て、分県にともない再度宮崎県に編入された。
昭和天皇の内親王・貴子が嫁いだ島津久永は、旧佐土原藩の島津伯爵家出身である。
薩摩藩との関係
薩摩藩との関係は仙台藩と宇和島藩あるいは盛岡藩と八戸藩との関係に近いものであり、薩摩藩支藩ではないとの見解もある[2]。しかし、本家に当たる薩摩藩からたび重なる介入を受けたことにより、支藩と見なされることが多くなった。
佐土原藩は以久の跡を長男彰久の系統の当時の当主久信が辞退し、三男忠興が相続したが、結果的に佐土原藩主家が彰久の系統である陪臣垂水島津家の分家ということになった。薩摩藩(島津宗家)からは従属の立場にあると見なされ、藩内では垂水島津家の下に位置づけるが、藩外では大名分の佐土原藩の方が上という二重基準が『鹿児島県史料』でも見られる。代々の佐土原藩主正室には島津宗家当主の姫ばかりでなく薩摩藩家老の娘を含む薩摩藩出身者が多いこと、薩摩藩から佐土原藩への介入はあっても佐土原藩から薩摩藩への介入はなかったことなどに、大名ながら陪臣の分家という弱い立場が如実に現れている。一方で、薩摩藩主の子を佐土原藩主に養子入りさせることは幕末までなかった。
もっともこれは、仙台藩が宇和島藩に対してとった態度に類似しており、特に伊達宗贇が陪臣石川家の養子から宇和島藩を相続して以降からの関係は薩摩藩と佐土原藩の関係に類似したものとなっている[3]。
歴代藩主
- 島津家
- 外様 3万石→2万7千石
- 以久(ゆきひさ)〔従五位下・右馬頭〕
- 忠興(ただおき)〔従五位下・右馬頭〕
- 久雄(ひさたか)〔従五位下・右馬頭〕
- 忠高(ただたか)〔従五位下・飛騨守〕
- 久寿(ひさとし)〔従五位下・式部少輔〕
- 惟久(これひさ)〔従五位下・淡路守〕 分与により2万7千石
- 忠雅(ただまさ)〔従五位下・加賀守〕
- 久柄(ひさもと)〔従五位下・淡路守〕
- 忠持(ただもち)〔従五位下・淡路守〕
- 忠徹(ただゆき)〔従五位下・筑後守〕
- 忠寛(ただひろ)〔従五位下・淡路守〕
- ※久寿を藩主として数えない史料もある。
江戸屋敷
弓場組
弓場組は、2代藩主島津忠興が武道奨励のために組織した。飫肥藩や、家督争いになった垂水島津家を警戒してのことだったという。
15歳から30歳までの若い男子を正員とし、30歳から59歳までを准組員とし、佐土原城下の4つの守り口(追手、鴫之口、野久尾、十文字)と5つある外城(都於郡、三納、富田、新田、三財)に弓場、馬場そして衆溜と呼ばれる会所が設けられていた。
最初は各衆溜に集まり、武道上の協議をしていたが、やがて政治問題を話し合う場に発展し、衆議で決定されたことは絶対となり、藩庁の命令も及ばないほどになり、8代久柄の時代の天明騒動、10代忠徹の時代の御牧騒動、また鴫之口騒動など藩を揺るがす事件を起こした。
また、弓場組は城下士の中でも序列を作り、追手口は歴々、鴫之口は半重半軽、野久尾口、十文字口は全軽といわれ、藩内は不自由な空気になっており、このことが明治になってからの城の移転という極めて異例の政策を佐土原藩に採らせる原因となる。
幕末の領地
脚注
- ↑ 三浦十郎 みうら じゅうろうコトバンク
- ↑ 国立公文書館内閣文庫の『嘉永二年十月二日決・本家末家唱方』での老中見解では『本家末家唱方之儀、領知内分遣し一家を立て候末家与唱、公儀から別段領知被下置被召出候家は、本家末家之筋者有之間敷』とある。但しこの史料自体が1849年のもので、佐土原藩や宇和島藩などが成立してから200年ほど経っており、佐土原藩などの成立当時の内分分知や新田分知という分家手法がなかった時代にもこの見解であったかは追加研究を必要とする。
- ↑ 「仙台市史・通史5・近世3」。ちなみにこの宇和島藩の仙台藩への従属関係への不満は本末争いに発展したが、結局仙台藩から引き出せたのは仙台藩外において「家本・家分かれ」という関係であること公称することを認めるだけであった。また仙台藩内部では従前どおりの「本家・末家」関係と認識は変えられず、結果として薩摩藩・佐土原藩間のような二重基準が成立しただけであった。