佐伯祐三
佐伯祐三 | |
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生誕 |
1898年4月28日 日本 大阪府西成郡中津村 (後の大阪市大淀区、現・北区) |
死没 |
1928年8月16日 (30歳) フランス |
墓地 |
光徳寺(大阪市) 心法寺(東京都千代田区) |
国籍 | 日本 |
出身校 | 東京美術学校 |
著名な実績 | 洋画家 |
代表作 | 「郵便配達夫」など |
配偶者 | 佐伯米子 |
活動期間 | 1917年 - 1928年 |
この人に影響を 与えた芸術家 |
藤島武二 モーリス・ド・ヴラマンク |
佐伯 祐三(さえき ゆうぞう、1898年4月28日 - 1928年8月16日)は、大正~昭和初期の洋画家である。大阪府大阪市出身。
人物
佐伯は画家としての短い活動期間の大部分をパリで過ごし、フランスで客死した。佐伯の作品はパリの街角、店先などを独特の荒々しいタッチで描いたものが多い。佐伯の風景画にはモチーフとして文字の登場するものが多く、街角のポスター、看板等の文字を造形要素の一部として取り入れている点が特色である。作品の大半は都市風景だが、人物画、静物画等もある。
佐伯は1898年(明治31年)、大阪府西成郡中津村(現大阪市北区中津二丁目)にある光徳寺の男4人女3人の兄弟の次男として生まれた。1917年(大正6年)東京の小石川(現・文京区)にあった川端画学校に入り、藤島武二に師事する。旧制北野中学(現・大阪府立北野高等学校)を卒業した後、1918年(大正7年)には、東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学し、引き続き藤島武二に師事、1923年(大正12年)に同校を卒業した[1]。東京美術学校では、卒業に際し自画像を描いて母校に寄付することがならわしになっており、佐伯の自画像も現存している。鋭い眼光が印象的なこの自画像は、作風の面では印象派風の穏やかなもので、後のパリ滞在中の佐伯の作風とはかなり異なっている。なお、在学中に結婚した佐伯の妻・佐伯米子(旧姓・池田)も絵を描き、二科展などにも入選していた。
佐伯はその後満30歳で死去するまでの6年足らずの画家生活の間、2回パリに滞在し[2]、代表作の多くはパリで描かれている。第1回のパリ渡航は1924年(大正13年)1月から1926年1月までで、約2年の滞在であった。1924年のある時(初夏とされる)、佐伯はパリ郊外のオーヴェル=シュル=オワーズ(ゴッホの終焉の地として知られる)に、フォーヴィスムの画家モーリス・ド・ヴラマンクを訪ねた。佐伯は持参した自作『裸婦』を見せたところ、ヴラマンクに「このアカデミックめ!」と一蹴され、強いショックを受けたとされる(その後、何度かヴラマンクの下に足を運んでいる)。事実、この頃から佐伯の画風は変化し始める。この第一次滞仏時の作品の多くはパリの街頭風景を描いたもので、ヴラマンクとともにユトリロの影響が明らかである。佐伯はパリに長く滞在することを望んでいたが、佐伯の健康を案じた家族らの説得に応じ、1926年にいったん日本へ帰国した。パリでの友人である前田寛治、里見勝蔵、小島善太郎らと「1930年協会」を結成する[3]。
2度目の滞仏はそれから間もない1927年(昭和2年)8月からであり、佐伯はその後ふたたび日本の土を踏むことはなかった。佐伯は旺盛に制作を続けていたが、1928年3月頃より持病の結核が悪化したほか、精神面でも不安定となった。「黄色いレストラン」が屋外で描いた最後の作品で「描ききった」と家族に説明していたという。屋内ではその後も偶然訪れた郵便配達夫をモデルに油絵2点、グワッシュ1点を描く(この郵便配達夫は後にも先にもこの時にしか姿を見せなかったことから、佐伯の妻はあの人は神様だったのではないか、と語っている)[4]。自殺未遂を経て、ヌイイ=シュル=マルヌのセーヌ県立ヴィル・エヴラール精神病院に入院。一切の食事を拒み、同年8月16日、妻が娘の看病をしていたので妻に看取られることなく衰弱死した。墓所は生家である大阪市の光徳寺と東京都千代田区の心法寺。
現在、佐伯の作品は大阪市立近代美術館建設準備室50点、和歌山県立近代美術館14点など、日本各地の34か所に所蔵されている[5]。
主な作品
- 「オーヴェールの教会」(1924)(鳥取県立博物館)
- 「セーヌ河の見える風景」(1924)(東京藝術大学大学美術館)
- 「パリの寺院」(1924年)(大阪市立美術館)
- 「パリの裏街」(1924年)(大阪市立美術館)
- 「パリの街角」(1925年)(山王美術館)
- 「レ・ジュ・ド・ノエル」(1925)(和歌山県立近代美術館)
- 「広告のある門」(1925)(和歌山県立近代美術館)
- 「リュ・デュ・シャトーの歩道」(1925)(和歌山県立近代美術館)
- 「コルドヌリ」(1925)(ブリヂストン美術館)
- 「肥後橋風景」(1926-27年)(朝日新聞社(香雪美術館寄託))
- 「ガス灯と広告」(1927)(東京国立近代美術館)
- 「雪景色」(1927)(東京国立近代美術館)
- 「オプセルヴァトワール附近」(1927)(和歌山県立近代美術館)
- 「テラスの広告」(1927)(ブリヂストン美術館)
- 「裏街の広告」(1927)(京都国立近代美術館)
- 「リュクサンブール公園」(1927)(田辺市立美術館)
- 「広告“ヴェルダン”」(1927)(大原美術館)
- 「郵便配達夫」(1928年)(大阪市立近代美術館建設準備室)
- 「サンタンヌ教会」(1928)(三重県立美術館)
参考文献
脚注
- ↑ 『東京美術学校一覧 従大正12年至大正14年』東京美術学校、1925年11月、p.184
- ↑ 1回目は船で、2回目は早いのでシベリア鉄道で渡仏(「ぶらぶら美術館」佐伯祐三特別展 宇都宮美術館BS日テレ2014年10月17日放送)。
- ↑ 一九三〇年協会編 『一九三〇年協会美術年鑑 第1』 一九三〇年協会、1929年、66頁。
- ↑ 「ぶらぶら美術・博物館」佐伯祐三特別展 宇都宮美術館(BS日テレ2014年10月17日放送)。
- ↑ 週刊朝日百科 『日本の美術館を楽しむNo.24 三重県立美術館』 朝日新聞社、2005年、13頁
ギャラリー
- SaekiYūzō-1923-Self-Portrait.png
自画像(1923年、東京藝術大学大学美術館蔵)
- SaekiYūzō-1924-Self-Portrait a Standing Posture.png
立てる自画像(1924年、大阪新美術館建設準備室蔵)
- Cordonnerie, Shoe-Making by Saeki Yuzo (Ishibashi Museum of Art).jpg
コルドヌリ(靴屋)(1925年、ブリヂストン美術館蔵)
- SaekiYūzō-1925-Doll.png
人形(1925年)
- SaekiYūzō-1926-Ship at Anchor.png
滞船(1926年、神奈川県立近代美術館蔵)
- SaekiYūzō-1927-Entrance of a Bar.png
バーの入り口(1927年、国立国際美術館蔵)
- SaekiYūzō-1927-Poster Verdun.png
広告"ヴェルダン"(1927年、大原美術館蔵)
- SaekiYūzō-1927-Gas Lamp and Advertisements.png
ガス灯と広告(1927年、東京国立近代美術館蔵)
- SaekiYūzō-1927-Restaurant(Hotel du Marché).png
レストラン(オテル・デュ・マルシェ)(1927年、大阪新美術館建設準備室蔵)
- SaekiYūzō-1927-News Stand.png
新聞屋(1927年、朝日新聞社蔵)
- SaekiYūzō-1928-Brickkiln.png
煉瓦焼場(1928年、大阪新美術館建設準備室蔵)
- SaekiYūzō-1928-Door.png
扉(1928年、 田辺市立美術館蔵)
- SaekiYūzō-1928-Yellow Restaurant.png
黄色いレストラン(1928年、大阪新美術館建設準備室蔵)
- SaekiYūzō-1928-Russian Girl.png
ロシヤの少女(1928年、大阪市新美術館建設準備室蔵)
関連項目
- 佐伯祐三アトリエ記念館
- 目白文化村
- eastern youth(アルバム「旅路ニ季節ガ燃エ落チル」のジャケットに「立てる自画像」(1924)を使用している。)