佐世保重工業

提供: miniwiki
移動先:案内検索

佐世保重工業株式会社(させぼじゅうこうぎょう)は、長崎県佐世保市に主要拠点を置く重工業を生業とする企業。名村造船所の完全子会社。

通称はSSK。設立当初の社名である佐世保船舶工業の頭文字である。

概要

主力工場は立神町一帯に広がる造船工場で、鉄構部門は郊外の白岳地区に置いていた。しかし、2010年(平成22年)に鉄構事業から撤退したことにより、白岳工場は閉鎖・解体され、2012年(平成24年)に跡地をイオン九州へ売却した[1]。現在、跡地は「イオン佐世保白岳ショッピングセンター」と「株式会社サニクリーン九州 佐世保営業所」となっている[2]

1946年(昭和21年)に旧日本海軍佐世保海軍工廠の土地や設備を受け継ぐ形で設立された。主な業種は船舶、艦艇の建造および改造、修理。佐世保市に基地を持つ海上自衛隊アメリカ海軍の艦艇の保守、修理なども手がける。その他には船舶用機械製造、化学工業機械製造、鍛造品製造などを行っている。

敷地内の設備のうち、第4岸壁(通称:立神岸壁)にある250トンクレーンは1913年(大正2年)にイギリスから導入されたもので現在も使用されている。このクレーンはかつては戦艦武蔵」の艤装工事にも使用された。第4ドックは「大和」「武蔵」の整備のために極秘裏に開削した海軍工廠第7ドックのことだが、竣工前の「武蔵」が一度使用しただけに終わった。このドックが活かされたのは終戦直後が最初で、航空母艦隼鷹」「伊吹」「笠置」の3隻をすべて収納した上で解体した。さらに下って1962年(昭和37年)、出光興産から受注した13万トンタンカー「日章丸3世」の建造に用いられた[3]。なお、第2ドックは米海軍および海上自衛隊の共同使用施設として提供されており、SSKが独自に商業的に使用する事はできない。 また、海軍工廠時代のレンガ造りの建造物が数多く現存しており、現在も工場の施設として使用されている。

ベンチャー企業の西日本流体技研は同社よりスピンアウトした技術者集団であり、城下町「佐世保」よりたった7名で独立した彼等の冒険は小説にもなった。

2008年(平成20年)現在、韓国が世界最大の造船国で日本は2位、3位が中国で受注残では日本は中国に追い抜かれている。中国では造船所ができる前から受注して、頭金を造船所建設の資金に充てるほどの拡大路線を取っているが、「週刊エコノミスト」(2008年12月2日号)の取材に対し、当時の社長の森島英一は、拡大路線は取らないと言明した。

佐世保市との関わり

佐世保市は基幹産業として佐世保重工業に大きく依存してきた。佐世保重工業の収益は佐世保市の歳入に大きく関わることから、後述する来島どっくによる再建策や原子力船むつ」受け入れなどを行政主導で推進している。

1959年(昭和34年)、佐世保市は初めて名誉市民表彰を行ったが、香港の海運会社「東方海外貨櫃航運公司」の董浩雲社長であった。長らく市制を執行した中田正輔や、佐世保市に縁がある代議士の北村徳太郎山口喜久一郎を差し置いての授与である。昭和30年代序盤、倒産の危機にあった佐世保重工業に、董は大型貨物船「オリエンタル・ジャイアント」を発注した。オリエンタル・ジャイアントの受注によって、佐世保重工業は約束手形の発行を回避し、会社存続に成功した。この貢献により、佐世保市は董を最優先して名誉市民を授与したのである。

佐世保市初の共学私立高校である西海学園高等学校は、1925年(大正14年)の創立以来、「造船科」を設置していた。創立者の菅沼周次郎海軍退役少将は、佐世保海軍工廠の工員を養成することも建学の目的としていた。西海学園造船科が歴史を終えるのは、来島どっく傘下となった1980年(昭和55年)である。

佐世保重工業の雇用力は大きく、最盛期には通勤ルートのSSKバイパスが通勤者の車列で渋滞することもあった。近郊の人口も佐世保重工業の経営状態に大きく左右される。1958年(昭和33年)には市立琴平小学校の収容力が限界に達したため、市立御船小学校の新設が行われた。しかし、佐世保重工業の経営は悪化し、近郊の人口も減少に転じた。1994年(平成6年)、琴平小学校は閉校となり、御船小学校に統合されたうえ金比良小学校へと改名した。

来島どっくグループによる再建

オイルショックになると、大型船の受注が途絶えてしまいSSKの経営は破綻寸前まで追い詰められた。このため当時の辻一三・佐世保市長は国に救済策を要求、福田赳夫首相永野重雄日商会頭やメーンバンクの日本興業銀行[4]池浦喜三郎頭取の要請で坪内寿夫が率いる来島どっくグループに経営再建を委ねた。

徹底したコスト管理や課制の廃止・ボーナス凍結など坪内の経営再建策は労働現場の波紋を呼び、労使協調路線を取っていた労働組合ですら不当労働行為を訴えるまで反発した。更に来島どっくグループ入りの経緯や1978年(昭和53年) - 1982年(昭和57年)に実施した原子力船むつの原子炉の遮へい改修工事[5]など時として政治的な工作を弄するなど、政業癒着として批判されることも多く、桜田武は「一企業を政治的な工作で再建するなど発展途上国政商のすること」とまで言い切った。

一方でSSKの来島グループ入り前後の模様を描いた「太陽を、つかむ男」(角川書店、後に「小説 会社再建」と改題され集英社文庫に収録)を著した高杉良が指摘する様に、

  • 来島グループによる救済が行われなかった場合、佐世保重工業は手形の決済資金を調達できず、間違いなく倒産していた
  • 来島グループ入り以前は労働組合が管理職の人事にまで介入するなど、会社側と労働組合の関係は労使協調というレベルを大きく超えて癒着といえる域に達しており、坪内は関係を正常なものに戻そうとしていたに過ぎない
    • さらに高杉は、労働組合の上部団体である造船重機労連側では「労連に加盟する他の造船会社の組合にとっては、労組と会社側の対立が続いた結果SSKがつぶれてくれた方が、SSKが請けていた仕事が回ってくる分自分達のプラスになる」との思惑から労組側支援に回ったとも指摘している。
  • リストラや給与カット・ボーナス凍結の一方で、坪内は個人で従業員向けの低利融資を行うなど(当初は無利子融資も検討していたが、税務処理上贈与とみなされる可能性があることから、最終的に低利融資となった)、それなりの生活支援策も用意していた

という一面もあり、坪内を一方的に批判することはできないという意見も多い。何はともあれ、一企業に支えられた地域経済の脆弱性が露となった事件であった。

その後1984年(昭和59年)には復配を果たすなど、来島グループ傘下で経営再建を果たしたSSKだったが、1986年(昭和61年)からの円高不況で来島どっくグループ本体も経営不振に陥り、SSKは同グループを離脱した。

助成金不正受給事件

2002年(平成14年)3月、下請業者から起こされた民事訴訟の過程で、SSKが下請業者から出向者を受け入れたように見せかけて国の「中高年労働移動支援特別助成金」を不正に受給していたとの疑惑が浮上。当時の姫野有文社長はすぐに疑惑を全面否定したが、新たな疑惑が次々と報道されたため、否定会見から10日後の3月12日に一転して「会社ぐるみの不正だった」と認めた。4月には経営陣が一新された。

その後もSSKが様々な補助金を不正受給していた疑惑が浮上し、長崎県警も強制捜査に着手。6月、訓練給付金をだまし取ったとして姫野前社長ら7人が詐欺容疑で逮捕された。一審では、姫野前社長らが99~00年度に512人分、計約3億7700万円を不正に受給したと認定され、有罪判決を受けた。

一方、疑惑の発端となった中高年労働移動支援特別助成金の不正受給問題では、手続き上、給付申請したのが下請け業者であったため、被害者にあたる独立行政法人雇用・能力開発機構2005年(平成17年)2月、下請け11社に総額約6億7000円の返還を求めて提訴した。下請け業者側は「姫野前社長の指示にやむなく従っただけ」としてSSKに補償を求めているが、2006年(平成18年)末段階で問題は解決していない。

名村造船所による完全子会社化

2014年(平成26年)5月23日、名村造船所は佐世保重工業を株式交換方式で完全子会社化すると発表した。竣工量ベースでは今治造船ジャパン マリンユナイテッドに次いで国内造船業界3位となる。10月1日に株式交換が行われ、佐世保重工業は名村製造所の完全子会社となり、9月26日付で上場は廃止された。

脚注

  1. SSK鉄構部跡地~イオン建設へ” (2012年2月17日). . 2017閲覧.
  2. 第一次オイルショック直前までは、米軍と自衛隊が管理する崎辺地区を返還のうえ大ドックを増設する計画があったが頓挫した。
  3. 東京タンカーが石川島播磨重工業(現在のIHI)に発注した「東京丸」が就役するまで、日章丸3世は世界最大のタンカーとして勇名を馳せた。
  4. SSKの取引銀行は長らくの間、旧興銀(現・みずほ銀)を主力、旧長銀(現・新生銀)・旧日債銀(現・あおぞら銀)・親和銀(旧)を準主力としていたが、現在は三菱UFJ銀(←旧UFJ銀行←旧三和銀行)を主力行とし、現在に至っている。
  5. この工事では坪内と辻市長が議会の同意を得ないままむつのドック入りを強行したことで、大規模な反対運動を引き起こした。ただし「小説 会社再建」によれば、むつの改修工事受け入れは坪内の社長就任以前から事実上決まっていたという。

外部リンク