伊藤整
伊藤 整(いとう せい、1905年(明治38年)1月16日 - 1969年(昭和44年)11月15日)は、日本の小説家、詩人、文芸評論家、翻訳家。本名は伊藤 整(いとう ひとし)。抒情派詩人として出発したが、その後詩作を離れて小説・評論に重心を移し、昭和初期にジェイムズ・ジョイスらの影響を受けて「新心理主義」を提言。戦後は旺盛な著作活動に加え、ベストセラーや裁判の影響もあり、もっとも著名な評論家の一人となった。私小説的文学の理論化をめざすとともに自身も創作を行った。自伝的小説として『鳴海仙吉』『若い詩人の肖像』などがある。評論では『日本文壇史』『小説の方法』「近代日本人の発想の諸形式」「近代日本における『愛』の虚偽」などがある。『氾濫』『変容』『発掘』は、夏目漱石の衣鉢を継ぐ近代小説三部作である。
社団法人日本文藝家協会理事、東京工業大学教授、社団法人日本ペンクラブ副会長、財団法人日本近代文学館理事長などを歴任した。日本芸術院会員。位階は正五位。勲等は勲三等。
Contents
生涯と作品
詩人としての出発
北海道松前郡炭焼沢村(現松前町)で小学校教員の父の下に12兄弟の長男として生まれた。父は広島県三次市出身の下級軍人で、日清戦争出征後、海軍の水路部測量員(灯台看守兵)に志願して北海道に渡った[1]。まもなく辞職して白神尋常高等小学校の教員となり、整が生まれた年に父は日露戦争出征で203高地で重傷を受けて帰国し、旭川の官舎に移る。1909年に父は塩谷村(現小樽市)村役場書記となり、塩谷村へ移る。
旧制小樽中学(北海道小樽潮陵高等学校の前身)を経て小樽高等商業学校(小樽商科大学の前身)に学ぶ。中学に通う15、6歳頃から詩を書き始め、級友と同人誌『踏絵』を発行。小樽高商在学中の上級生に小林多喜二や高濱年尾がおり、一緒にフランス語劇に出演したこともある。卒業後、旧制小樽市立中学の英語教師に就任。1923年に川崎昇と同人誌『青空』発行。1926年に百田宗治主宰の『椎の木』同人となり、自費出版した抒情詩詩集『雪明りの路』で百田宗治、三好達治に高く評価された。小樽で教員を続けながら、1928年に河原直一郎、川崎昇と同人誌『信天翁』刊行。宿直室に泊まり込んで下宿代を浮かせたり、夜間学校の教師の副職をするなどして、1300円の貯金を蓄え、2年後に教師を退職し上京する。北川冬彦、仲町貞子らと同居、
小説と評論
1927年旧制東京商科大学(一橋大学の前身)本科入学。内藤濯教授のゼミナールに所属し、フランス文学を学ぶ。また北川冬彦の紹介で入った下宿屋にいた梶井基次郎、三好達治、瀬沼茂樹らと知り合い親交を結ぶ。また河原、川崎と批評誌『文芸レビュー』刊行、処女小説「飛躍の型」を同誌に発表、続いて「鸚鵡」「パルナス座」「繭」などを発表。1930年には小説「送還」「感情細胞の断面」を川端康成に推奨された他、評論「文学領域の移動」「ジェイムス・ジョイスのメトオド『意識の流れ』に就いてて」などを『文芸レビュー』『詩・現実』『新科学的』各誌に発表。また小川貞子と結婚、『科学画報』に掲載した小説「潜在意識の注意」で初めて原稿料を手にし、ジョイス『ユリシーズ』の翻訳を永松定、辻野久憲と『詩・現実』に連載。
1931年に20世紀文学の翻訳に力点を置いた『新文学研究』を編集し金星堂から発行、東京商科大を退学し、『文芸レビュー』『風車』の同人と『新作家』を創刊。1932年に処女評論集『新心理主義文学』で、ジェイムズ・ジョイスやヴァージニア・ウルフらの影響による「新心理主義」を提言し、川端康成や横光利一など当時の文壇にも影響を与え、自身も実験作『生物祭』『イカルス失墜』などを執筆。これらの作品は批判にも晒されたが、吉本隆明は現代文学体のの代表作として横光利一「機械」と並ぶものと評している[2]。
1935年から1944年まで日本大学芸術科講師。1935年にD・H・ローレンスの『チャタレイ夫人の恋人』を翻訳して刊行。また書下し長編小説『青春』(1938)、『霧氷』『典子の生き方』(1939)、『得能五郎の生活と意見』(1940)などを発表。1944年から1945年新潮社文化企画部長、1944年旧制光星中学校(現札幌光星高等学校)英語科教師。1945年に北海道の妻の実家に疎開、帝国産金株式会社落部ベニヤ工場勤務。戦後1946年に北海道帝国大学予科講師となるが、7月に上京、南多摩郡日野町に土地を買って山小屋風の家を建てて住み、「鳴海仙吉の朝」などを発表。1948年に鳴海仙吉ものを集めて長編『鳴海仙吉』として八雲書店に原稿を渡したが、印刷屋により差し押さえられて出版不能となり、1950年に細川書店より刊行、その自虐と風刺により新戯作派の作家ともみなされた[3]。
ブーム
1948年日本文芸家協会理事、1949年から1950年早稲田大学第一文学部講師、1949年東京工業大学専任講師(英語)。1950年には『チャタレイ夫人の恋人』の完訳版を小山書店から刊行し、上下巻で20万部の売れ行きとなったが、わいせつ文書として押収され、小山久二郎とともに起訴された。この裁判の一審と平行して発表されたエッセイ『伊藤整氏の生活と意見』や、チャタレイ裁判のノンフィクション『裁判』も話題となり、1953年に『婦人公論』に連載したローレンスの思想などを紹介した戯文エッセイを、翌年『女性に関する十二章』として一冊に纏めたところベストセラーとなり、同名の映画(市川崑監督)に本人もナレーション・端役で出演、「○○に関する十二章」という書物の出版が相次ぐなど「十二章ブーム」を巻き起こし、また新書版ブームの口火ともなった[4]。この頃から原稿や講演の注文が殺到し、長編小説『火の鳥』も好評で、『読売新聞』年末の「1953ベストスリー」の記事では、評者10人のうち9人に選ばれている。1954年のベストセラーのうち、1位『女性に関する十二章』、3位『火の鳥』、5位『文学入門』を占め、評論『文学と人間』[5]などベストセラーとなり[6]、合わせて年間70万部を売り上げたという[7]。1953年の文壇高額所得番付でも8位となっている。
1956年には『文学界』新人賞で石原慎太郎『太陽の季節』を強く推して議論を巻き起こした[8]。1958年東京工業大学教授昇格、パリで行われた国際ペンクラブ執行委員会で発表、その後タシュケントのアジア・アフリカ会議、ロンドンのイギリス・ペンクラブ例会に出席、ミュンヘン、ウィーン、イタリアなどを旅して、1959年帰国。1960年から招聘されてコロンビア大学及びミシガン大学で講義。帰国後、平野謙による「純文学歴史説」や、松本清張、水上勉らの社会派推理小説の流行に刺激され、「『純』文学は存在し得るか」を発表、「純文学論争」を引き起こした。
1962年日本ペンクラブ副会長、また日本近代文学館設立時の理事となり、1965年から理事長。1963年『日本文壇史』により菊池寛賞受賞。1964年東工大を退職、1967年日本芸術院賞受賞[9]、1968年日本芸術院会員。
1969年11月15日、癌性腹膜炎のため東京都豊島区上池袋のがん研究会附属病院で死去[10]。戒名は海照院釈整願。叙正五位、叙勲三等授瑞宝章。没後1970年、『変容』により日本文学大賞受賞。1952年から連載していた『日本文壇史』は瀬沼茂樹に引き継がれ、1976年に完結した(単行本は1953年から1978年にかけて全24巻。伊藤分は18巻まで)。
『小説の方法』(1948)では近代日本文学を西欧文学と比較しつつ、初めて論理的、体系的にとらえた文芸批評を執筆。続いて書かれた『小説の認識』では、チャタレイ裁判の体験も元に、芸術は「生命の側に立ち、人間を抑圧する秩序に反抗するもの」[11]という考えを示し、これを実作『火の鳥』で示してみせた。1958年から刊行された『谷崎潤一郎全集』では全巻の解説を担当、自身の没後に『谷崎潤一郎の文学』として出版され、それまで無思想の作家とされてた谷崎への定説を覆してその思想を論じたとして、高い評価を受けた[12]。1972年から1974年にかけて新潮社から『伊藤整全集』(全24巻)が刊行された。生前にも河出書房から全14巻が出ている。
伊藤滋(都市工学、東京大学名誉教授、早稲田大学教授、元慶應義塾大学教授)は長男。伊藤礼(エッセイスト、英文学者、元日本大学芸術学部教授)は次男。
チャタレイ裁判
1950年、伊藤整が翻訳したD・H・ローレンスの『チャタレイ夫人の恋人』がわいせつ文書に当るとして警視庁の摘発を受けた。その際発行人の小山書店代表のみならず、翻訳者の伊藤整も起訴された。裁判では芸術性の高い文学作品を猥褻文書とすることの是非、翻訳者を罪に問うことの是非などが争われたが、1957年、最高裁は伊藤、発行人共に有罪とした。著者の『裁判』は、当事者の立場から、文学裁判を膨大かつ詳細な記録で問題提起した、ノンフィクションにして代表作のひとつである。
尚、件の翻訳は1964年に、戦後では珍しい伏字を使って出版された。同訳での他の文学全集もそれに拠っている。なお完訳は1973年に、講談社文庫から羽矢謙一訳が刊行され、75年の『世界文学全集』にも収録されたが、世間的には知られなかった。1996年に次男の伊藤礼が削除部分を補った完訳版を新潮文庫から出版し、出版時に多くのマスメディアが取り上げ、初の完訳という誤報を流した。
主要作品
作品集
- 『伊藤整作品集』全5巻、河出書房、1953年
- 『伊藤整全集』全14巻 河出書房、1955-1956年
- 『伊藤整作品集』光文社、全10巻、1957-1959年
- 『伊藤整全集』全24巻 新潮社、1972-1974年
- 『未刊行著作集12 伊藤整』(白地社 1994年)
詩集
- 『雪明りの路』(椎の木社、1926年)
- 『冬夜』(近代書房[発売インテリゲンチヤ社]、1937年)
- 『伊藤整詩集』(新潮文庫、1958年)
小説
- 『生物祭』(金星堂、1932年)のち講談社文芸文庫
- 『イカルス失墜』(椎の木社、1933年)のち新潮文庫
- 『石狩』(版画荘、1937年)
- 『馬喰の果』(新潮社、1937年)のち文庫
- 『石を投げる女』(竹村書房、1938年)
- 『青春』(河出書房、1938年)のち角川文庫、新潮文庫
- 『街と村』(第一書房、1939年)のち講談社文芸文庫
- 『霧氷』(三笠書房、1940年)のち角川文庫
- 『典子の生きかた』(河出書房、1940年)のち角川文庫
- 『吉祥天女』(金星堂、1940年)
- 『祝福』(河出書房、1940年)
- 『得能五郎の生活と意見』(河出書房、1941年)のち新潮文庫
- 『得能物語』(河出書房、1942年)のち新潮文庫
- 『故郷』(協力出版社、1942年)
- 『父の記憶』(利根書房、1942年)
- 『童子の像』(錦城出版社、1943年)
- 『雪国の太郎』(帝国教育会出版部、1943年)
- 『三人の少女』(少女小説)(淡海堂、1944年)
- 『鳴海仙吉』(細川書店、1950年)のち新潮文庫、岩波文庫
- 『花ひらく』(朝日新聞社、1953年)のち角川文庫
- 『火の鳥』(光文社、1953年)のち新潮文庫、角川文庫
- 『海の見える町』(新潮社 1954年)
- 『感傷夫人』(中央公論社、1956年)のち角川文庫
- 『町 生きる怖れ』(角川文庫、1956年)
- 『少年』(筑摩書房、1956年)
- 『若い詩人の肖像』(新潮社、1956年)のち新潮文庫、講談社文芸文庫
- 『誘惑』(新潮社、1957年)のち角川文庫
- 『氾濫』(新潮社、1958年)のち新潮文庫
- 『泉』(中央公論社、1959年)のち角川文庫
- 『虹』(中央公論社、1962年)
- 『同行者』(新潮社、1969年)
- 『変容』(岩波書店、1968年)のち岩波文庫
- 『花と匂い』(新潮社、1970年)
- 『年々の花』(未完)(中央公論社、1970年)
- 『発掘』(新潮社、1970年)
- 『街と村・生物祭・イカルス失墜』(講談社文芸文庫、1993年)
評論・随筆等
- 『小説の運命』(竹村書房、1937年)
- 『芸術の思想』(砂子屋書房、1938年)
- 『現代の文学』(河出書房、1939年)
- 『四季 随筆集』(赤塚書房、1939年)
- 『私の小説研究』(厚生閣、1939年)
- 『文学と生活』(昭和書房、1941年)
- 『満洲の朝』(育生社弘道閣、1941年)。旅行記
- 『文芸と生活・感動の再建』(四海書房 1941年)
- 『小説の世界』(報国社、1942年)
- 『戦争の文学』(全國書房、1944年)
- 『小説の問題』(大地書房、1947年)
- 『文学の道』(南北書園、1948年)
- 『小説の方法』(河出書房、1948年)、のち河出文庫(旧)、新潮文庫、筑摩叢書、岩波文庫(新版校訂)
- 『伊藤整文学論選集』(実業之日本社、1949年)
- 『我が文学生活』(細川書店、1950年)
- 『性と文学』(細川書店、1951年)
- 『裁判』(筑摩書房、1952年)、のち旺文社文庫、晶文社(各・上下)
- 『伊藤整氏の生活と意見』(河出書房、1953年) のち角川文庫
- 『日本文壇史』(18巻目まで、大日本雄弁会講談社/講談社、1953-1973年、のち新装版刊)、講談社文芸文庫(改訂新版)
- 『文学入門』(光文社カッパブックス、1954年、新版刊) のち光文社文庫、講談社文芸文庫(改訂新版)
- 『女性に関する十二章』(中央公論社、1954年)、のち角川文庫、中公文庫
- 『我が文学生活』(全6巻:講談社、1954-1964年)
- 『文学と人間』(角川新書、1954年)
- 『小説の認識』(河出書房(新書)、1955年)、のち新潮文庫、岩波文庫(新版校訂)
- 『芸術は何のためにあるか』(中央公論社、1957年)
- 『現代知性全集5 伊藤整集』(日本書房、1958年)
- 『近代日本の文学史』(光文社カッパブックス、1958年)、夏葉社(新版校訂・2012年)
- 『作家論』(筑摩書房、1961年) のち角川文庫
- 『ヨーロッパの旅とアメリカの生活』(新潮社、1961年)
- 『求道者と認識者』(新潮社、1962年)
- 『現代人生論全集9 伊藤整集』(雪華社、1966年)、復刻「私の人生論8 伊藤整」(日本ブックエース、2010年)
- 『知恵の木の実』(「人と思想」文藝春秋、1970年)
- 『谷崎潤一郎の文学』(中央公論社、1970年)。新書版「全集」の解説
- 『小説の方法・小説の認識』(「名著シリーズ」講談社、1970年、新版1972年)
- 『近代日本人の発想の諸形式』(岩波文庫、1981年)。奥野健男編・解説
- 『太平洋戦争日記』(全3巻、新潮社、1983年)
主な編著
- 『文章読本』(河出書房(新書)、1954年)
- 『ジョイス研究』(英宝社、1955年、新版1967年)
- 『夏目漱石研究』(新潮社、1958年)
- 『20世紀英米文学案内9 ジョイス』(研究社出版、1969年)
翻訳
- ユリシイズ 永松定・辻野久憲共訳 第一書房、1931-1934
- チャタレイ夫人の恋人(削除版)ロレンス 健文社、1935
- 狭き門 ジイド全集 金星堂、1935
- 贋金づくり ジイド全集 葛川篤共訳 金星堂、1935
- 恋愛論 ロレンス 健文社、1936
- 恋する女 ロレンス、原百代共訳、三笠書房、1936
- ロレンス文学論 永松定共訳、昭森社、1937
- ロシア文学講話 クロポトキン 改造社、1938-1939
- 運命の橋 ソーントン・ウィルダア 新潮社、1940 のち文庫
- 汚れなき時代 エディス・ウォートン 三笠書房、1941
- 農民 第三部 レイモント、第一書房、1941
- メキシコの朝 D.H.ローレンス 育生社弘道閣、1942
- ロシヤ文学の理想と現実 クロポトキン 瀬沼茂樹共訳、改造社 1947
- 小公女 バーネット、鎌倉書房、1949 のち新潮文庫
- チャタレイ夫人の恋人 ロレンス選集、小山書店、1950 のち新潮文庫
- 事件の核心 グレアム・グリーン 新潮社、1951 のち文庫
- D.H.ロレンスの手紙 永松定共訳 弥生書房 1956-1957
- 若草物語 オルコット、講談社、1962
脚注
- ↑ 白樺文学館公式ホームページ>171. 「小林多喜二と伊藤整」
伊藤整:作家事典:ほら貝 - ↑ 吉本隆明『言語にとって美とはなにか』
- ↑ 平野謙『昭和文学史』筑摩書房 1963年
- ↑ 大村彦次郎『文壇栄花物語』ちくま文庫 2009年
- ↑ 春山陽一「サザエさんをさがして――伊藤整――タイトルは時代を表す」『朝日新聞』44308号、be on Saturday、朝日新聞東京本社、2009年8月29日、b3面。
- ↑ 昭和29(1954)年のベストセラーウェブ電藝
- ↑ 曾根博義「伊藤整ブームと『日本文壇史』の方法」(『日本文壇史 2』講談社学術文庫 1995年)
- ↑ 大村彦次郎『文壇挽歌物語』ちくま文庫 2011年
- ↑ 『朝日新聞』1967年4月7日(東京本社発行)朝刊、14頁。
- ↑ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)36頁
- ↑ 奥野健男(『日本の文学 59 伊藤整』中央公論社 1965年)
- ↑ 樋口覚「作家案内 伊藤整 伊藤整と三島由紀夫」(『日本文壇史 1』講談社学術文庫 1994年)
外部リンク