今仁哲夫

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今仁 哲夫いまに てつお1938年3月5日 - )は元ニッポン放送アナウンサー

来歴・人物

東京都出身、早稲田大学政治経済学部を卒業後、1961年にニッポン放送に入社。元副社長の天井邦夫と同期入社。愛称は「てっちゃん」。オールナイトニッポン担当時代は「ビバテツショー」の愛称が番組に付いていたことでも知られる。いわゆる「若ハゲ」で、それを番組中に自虐ネタとして扱うこともよくあり、明るく軽妙な語り口で親しまれた。また、リクエスト葉書の住所・宛名が「東京都 テツ」だけで届いたことを誇りにしていた。

「ビバテツショー」降板後の1973年、同じフジサンケイグループ産経新聞社記者として出向、経済部に所属し、大蔵省通商産業省記者クラブなどで活躍。1975年にニッポン放送アナウンサーに復帰[1]、同年10月から平日昼のワイド番組『今仁哲夫のアタック!ふれあい最前線』がスタート、翌年1976年8月30日には『今仁(いまに)哲夫の歌謡パレードニッポン』がスタート。歌謡パレードニッポンは常に同時間帯で聴取率1位を獲得していたこともあって、ニッポン放送の昼の顔だけでなく、関東地方のラジオの昼の顔ともなっていった[2]。また、ニッポン放送退社後、同局で番組を担当する際には「いまに哲夫」とした。

1971年には、天井邦夫と共に日本全国を3ヶ月かけてホンダ1300 クーペ9で縦断する「ビバくりげ」を行った[3]

また、斉藤安弘とともに内藤洋子の追っかけをしていたことでも知られる。内藤のヒット曲「白馬のルンナ」を、「斉藤安弘のオールナイトニッポン」と張り合う形で積極的に番組内で紹介し、結果として曲のヒットに結びついたというエピソードが残っている[4]

2002年3月いっぱいで直近最後の出演番組である「哲ちゃんの日曜はEよ!」が終了して以降は一度もメディアに出演しておらず、ニッポン放送アナウンサーの後輩で一時非常に親しい関係にあった高嶋秀武[5]2017年頃に語ったところによれば「いまは誰とも付き合いがない」「連絡先も分からない」「(風の便りに)元気でいるとは聞いている」という。

担当していた番組

関連項目

  • 今仁久・・・(息子、笑っていいとも!スタッフ、オールナイトニッポンで「ウチのヒサシ」と話題に出すことが多かった。)
  • 小林信彦『大統領の密使』今仁をモデルにした「今似見手郎」が主人公の小説

脚注

  1. 1975年10月6日 読売新聞 テレビ・ラジオ欄 より。
  2. 月刊ラジオパラダイス 1990年4月号 p.20 など。
  3. 月刊ラジオパラダイス 1989年8月号 p.30 など。
  4. 別冊ラジオパラダイス「DJ名鑑」(三才ブックス)p.218「斉藤安弘」の項より。
  5. その高嶋も、ある時今仁から一方的に絶交を宣言されて以来「(2018年3月時点で)もう何十年も会っていない」という。(2018年3月30日 ニッポン放送「高嶋ひでたけのあさラジ!」最終回での高嶋の発言より)


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