人柱

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人柱(ひとばしら)とは、人身御供の一種。大規模建造物堤防港湾施設、などなど)が災害自然災害や人災)や襲によって破壊されないことを[* 1]祈願する目的で、建造物やその近傍にこれと定めた人間を生かしたままで土中に埋めたり水中に沈めたりする風習を言い、狭義では古来日本で行われてきたものを指すが、広義では日本古来のそれと類似点の多い世界各地の風習をも同様にいう。

概要

この慣わしを行うことは「人柱を立てる」、同じく、行われることは「人柱が立つ」ということが多い。人柱になることは「人柱に立つ」、強いられてなる場合は「人柱に立たされる」ということが多い。

史実はともかくとして、人柱の伝説は日本各地に残されている。特に城郭建築の時に、人柱が埋められたという伝説が伝わる城は甚だ多い。また、城主を郷土の偉人として讃える為、「人柱のような迷信を禁じ、別の手段で代行して建築を成功させた」という伝説が残っているものもある。また、かつてのタコ部屋労働に伴って生き埋めにされた労働者も人柱と呼ばれることがある。工事中、労働者が事故死した場合に慰霊と鎮魂の思いを籠めて人柱と呼ぶ場合もある。

この場合の「」とは、建造物の構造のそれではなく、神道多神教)においてを数える際の助数詞柱(はしら)」の延長線上にある語で、死者の霊魂を「人でありながら神に近しい存在」と考える、すなわち対象に宿るアニミズム的な魂など霊的な装置に見立ててのことである。こういった魂の入れられた建造物は、そうでない建造物に比べより強固に、例えるなら自然の地形のように長くその機能を果たすはずであると考えられていた。この神との同一視のため、古い人柱の伝説が残る地域には慰霊碑ないし(やしろ)が設置され、何らかの形で祀る様式が一般的である。

上記の例とはややニュアンスが異なる人柱も存在する。上記のタコ部屋労働の人柱のように不当労働や賃金の未払いから「どうせなら殺してしまえ」という理由で人柱にされてしまった例や、炭鉱火災が発生した際、坑内に残る鉱夫を救助することなく、かえって酸素の供給を絶つために坑口を封鎖したり注水する殺人行為を「人柱」と称することもある(北炭夕張新炭鉱ガス突出事故など)。小説などのフィクションにおいては、城の秘密通路を作成した作業員を秘密隠蔽のために全員殺害し、その死体を人柱に見立てるといった例もある。

人柱伝説の考察

南方熊楠は自身の著書『南方閑話』にて、日本を含めた世界で数多に存在する人柱伝説について紹介している。書かれている人柱の呪術的意図に関しては、62頁の「ボムベイのワダラ池に水が溜らなんだ時、村長の娘を牲にして水が溜まった」とあるように人柱により何らかの恩恵を求めたものや、64頁の「史記滑稽列伝に見えた文侯の時、の巫が好女を撰んで河伯の妻として水に沈め洪水の予防とした事」、68頁の「物をいうまい物ゆた故に、父は長柄の人柱 ― 初めて此の橋を架けた時、水神の為に人柱を入れねばならぬと垂水村に構えて人を補えんとする」、68頁の「王ブーシーリスの世に9年の飢饉があり、キプルス人のフラシウスが毎年外国生まれの者一人をにしたらよいと勧めた」とあるように人柱によって災難を予防、もしくは現在起こっている災難の沈静化を図ったもの、69頁の「大洲城の城と呼んだのは後世で、古くは此地の城と唱えた。最初築いた時下手の高石垣が幾度も崩れて成らず、領内の美女一人を抽籤で人柱に立てるに決し、オヒヂと名づくる娘が当って生埋され、其れより崩るる事無し」、71頁の「雲州松江城堀尾氏が築く時成功せず、毎晩その邊(辺)を美で唄い通る娘を人柱にした」、87頁の「セルヴイアでは都市を建てるのに人又は人の影を壁に築き込むに非ざれば成功せず。影を築き込まれた人は必ず速やかに死すと信じた」とあるように人柱によって建築物を霊的な加護によって堅牢にする意図があったことが明らかとなっている。神話学者の高木敏雄によれば、建築物の壁などに人を生き埋めにし人柱をたてるのは、人柱となった人間の魂の作用で建物が崩れにくくなる迷信があったからだという。

なお、南方熊楠は『南方閑話』の92頁において座敷童子は人柱となった子供のであると書いている。そのほか、罪人が人柱となる話や、82頁にあるようにある特殊な境遇の人間の血を建物の土台に注いだら建物が崩れにくくなるといった人柱同様の迷信が存在していたことも語っている。

もっとも興味深いのは、人柱の呪術的意図が変化することを語っている点である。78頁の「晝間仕上げた工事を毎夜土地の神が壊すを防ぐとて弟子一人(オラン尊者)を生埋した。さらば欧州キリスト教と化した後も人柱は依然行なわれたので、此教は一神を奉ずるから地神抔は薩張り(さっぱり)もてなくなり、人をに供えて地神を慰めるという考えは追々人柱で土地の占領を確定し建築を堅固にして崩れ動かざらしむるという信念に変わった」

上記のようにその時々により、人柱の意味合いも変化していくことがわかる[1][2][3]

布施千造は、1902年明治35年)5月20日に発行された東京人類学会雑誌第194号の「人柱に関する研究」303頁―307頁[4]にて、「人柱の名称」「人柱の方法」「人柱の材料」「人柱の起源」「人柱の行われし範囲」「人柱と宗教の関係」について書いている。「人柱の方法」については、自動的なものに、「名誉を遺さんとして人柱を希望するもの」「他人の為、水利を計らんとして身を沈むる者」とあり。他動的なものに、「突然拿捕せられて強制を以って人柱とせらるる者」「止を得ず涙を呑んで埋めらるるもの」とある。

逆に最近の研究では、特に城郭建築の人柱においては否定的な見解が多く、井上宗和は、「城郭建築時の人柱伝説が立証されたケースは全くない。人柱に変えてなんらかの物を埋めたものが発見されることは存在する」と述べており、興味本位の出版物を除くと、城郭の人柱については全否定されている。(井上「日本の城の謎」祥伝社文庫)

逆に北海道常紋トンネルの人柱のように、タコ部屋労働で苦役の末に死亡した作業員を埋めたものについては、北海道開拓の苦労を偲ぶ目的で研究が多く行われている。

人柱伝説の一覧

各地に見られる人柱伝説のうち、比較的著名なものをここに列挙する。なお、前述のとおり城郭建築については、人柱の代用品を埋めているケースが多いので、それもここに含める。人柱が立ったと考えられる当時を基準に古いものから順に記載するが、工期が数年にわたる場合、どの年に人柱が立ったかを特定することは難しいのが普通であり、また、何時代といったおおまかな時期さえ特定できない場合もある。

難工事が予想される物件で着工前から予定されている人柱(例:茨田堤)もあれば、万事順調に推移したとしても加護を期待して実施される人柱もあったと考えられる。人の身で果たせる努力を尽くしてなお叶わなかった末の神(人間の所業を不首尾に終わらせようとして現に力を発揮している荒魂)をなだめるための人柱(例:松江城の人柱にされた娘)もあった。信仰心のあり様が大きく変容した近代化以降の場合は、現代的感覚でもって「迷信」と断じる近世以前の純粋で残酷な人柱とは異質な、信仰とは乖離した面の多い打算的あるいは謀略的な犯罪色の強い人柱が起こり得る土壌があった(もしくは、ある)と言える。常紋トンネルの人柱伝説や同種の伝説をモチーフとした創作物はこの類いである。


物証のある人柱

考古遺物を始めとする科学的物証が、部分的にではあっても存在する人柱伝説。伝説と物証がある人柱。語り継がれている事柄が全面的に証明されたわけではないが、人柱が立ったことや立った場所などを史実と認めることができる事例である。

鎌倉時代のこと[5][* 2]越後国頸城郡の猿供養寺村[5](現・新潟県上越市板倉区猿供養寺)[* 3]を訪れた遊行が、地すべり被害の絶えなかった土地の人々のため、自ら人柱となって災禍を止めた[5][6]。この話は長らく伝説とされていたが、1937年昭和12年)3月10日、地元・正浄寺裏の客土中から大に入った推定年齢40歳前後の男性人骨(脚が太く腕は細いことから旅人であり肉体労働者ではなかったと思われる)が座禅の姿勢で発見され、史実であることが確認された[5][6]
毛利元就が築城した時、石垣がたびたび崩れる為、巡礼の娘を人柱にする話が持ち上がった。ところが元就が人命を尊重して人柱を止めさせ、「百万一心」の文字を石に書いて埋め、築城を成功させたというもの。吉田郡山城築城開始直後の1524年のことか。詳しくは百万一心の項目を参照。
かつての江戸城伏見(現在の皇居伏見櫓)は、徳川家康伏見城の櫓を解体して移築したものと伝えられているが、1923年大正12年)に発生した大正関東地震関東大震災)で倒壊し、その改修工事の最中、頭の上に古銭が一枚ずつ載せられた16体の人骨が発見され、皇居から人柱かと報道されたこともあり大騒ぎになった。伝説を信じれば、1603年~1614年の慶長期築城の時、伏見城の櫓を移築した後で人柱を埋めたことになる。
江戸城研究家たちの間では、人柱とするには余りにも粗末に扱われていることや、伏見櫓を解体修理した結果伏見からの移築物ではないことが明らかであることが分かっているため、人柱説には否定的である。徳川家康の慶長期築城以前に、城内にあった寺院の墓地の人骨であろうとされており、『落穂集』などの史料には、慶長期築城以前には、複数の寺院が城内にあり、慶長期築城の時に全て移転させられたことが明確だからである(鈴木理生黒田涼井上宗和らの説)。
一説には、皇居と深い関わりにあった黒板勝美宮内省から調査依頼を受け、実地見聞を1時間半程度行っただけで人柱否定説を打ち出してそのまま公的調査は終了したといい、その後、中央史壇などで供犠の話題で特集が組まれた。喜田貞吉は黒板の発言の矛盾を指摘し、批判するとともに、人柱の文化的な意味について考察を広げようとしていた。1934年(昭和9年)には坂下門近くでも5人の人骨と古銭が発見されている。なお、見つかった遺骨は震災の混乱の中、増上寺で手厚く供養されたという。
難工事の末、1914年(大正3年)に開通した常紋トンネルは、1968年(昭和43年)の十勝沖地震で壁面が損傷したが、1970年(昭和45年)に改修工事が行われた際、立ったままの姿勢の人骨が壁から発見され、出入口付近からも大量の人骨が発見された。撲殺されたタコ労働者(略称:タコ)の遺体が埋められたことについて、当時のタコやその他関係者たちの証言もあったが、特殊な状況を示す遺骨群の発見によって、かねてより流布されてきた怖ろしげなのうち人柱の件は事実であったことが証明された[7]

伝説の域にある人柱

日本書紀』「巻第十一の十 仁徳天皇(仁徳天皇11年10月の条)」の伝えるところによれば、暴れ川であった淀川治水対策として当時は広大な低湿地であった茨田(まんた、まんだ。のちの河内国茨田郡[まんたのこおり]、現在の大阪府守口市門真市の全域、寝屋川市枚方市大東市大阪市鶴見区の一部に及ぶ範囲)に茨田堤を築いて淀川の奔流を押さえ、次に難波堀江を開削して流水を茅渟の海(ちぬのうみ。現在の大阪湾)に落とす工事にかかったが、茨田地域にどうにもならない絶間(たえま。断間とも記す。決壊しやすい場所)が2箇所あって万策尽きてしまった[8][9][10]。そのような最中のとある夜、天皇は夢枕に立った神から「武蔵国の人・強頸(こわくび、无邪志国造#子孫参照)と河内国の人・茨田連衫子(まんたのむらじ ころもこ)の2名を人身御供として川神に捧げて祀れば必ずや成就する」とのお告げを得、かくしてただちに2名は捕らえられ、衫子は策を用いて難を逃れたが、強頸は泣き悲しみながら人柱として水に沈められたため、堤は完成を見たという[8][9]江戸時代の『摂津名所図会』によれば、強頸が人柱にされた「強頸絶間」の跡は絶間池(非現存。大阪市旭区千林)として残っていた[8]。現在は千林2丁目の民家に「強頸絶間之址」の碑が建っている[8]
平清盛の治世下にあって日宋貿易の拠点とすべく大輪田泊の建造が急がれていた頃、工事にあたって旅人を含む30名もの罪無き人々が人柱にされようとするのを清盛の侍童(さぶらいわらわ、じどう)[* 4]であった松王丸(まつおうまる)が中止させたという伝説がある。しかし異説によると、松王丸が入水して人柱になったことで工事は成し遂げられたのだという。また、文を記した礎(いしずえ)を人柱の代わりとして海に沈めたことが分かっており、そういった石は考古遺物としても確かめられている。このようにして造られた人工島は「経が島」と呼ばれるようになった。
  • 庄内川十五の森 :1494年明応3年)。当該項目を参照のこと。
  • 丸岡城1576年(天正4年)、息子を武士に取り立てることを条件に人柱となったが、果たされなかった「お静」の伝説が残る。
  • 郡上八幡城 慶長年間、城の改修工事を行ったが工事が難航したため、人柱を立てることとなり、領内神路村の百姓吉兵衛の17歳の娘、あるいは大和村の羽生家の娘などとされる「およし」が人柱として土中に埋められたという伝説が残る。城内にはおよしを祀った祠、及び石碑があり、城下の善光寺には「およし稲荷」がある。郡上おどりの期間中には、下殿町で「およし祭」という縁日おどりが行われている。また「人柱歴約400年の17歳」「およしちゃん」として観光キャラクター化もされている。
  • 芋川用水 :一説に江戸幕府開府と同じ1603年慶長8年)頃の伝説。「芋川用水#取り入れ口」を参照のこと。
  • 彦根城1603年慶長8年)。大津城天守を移築して天守台に据え付けようとした時に工事がたびたび失敗するので、工事関係者が人柱を要望。城主の井伊直継が拒否し押し問答となった。家臣の娘が人柱を志願したので、直継がごまかして娘を箱に入れて人柱にしたと表向きは工事関係者に通知し、実際には空き箱を埋めて工事を成功させた。娘は密かに逃したという(晋遊舎ムック「戦国武将と名城」などによる)。
  • 松江城1611年慶長16年)。盆踊りの輪から連れ去られた娘、および、虚無僧の伝説がある。
  • 福島橋寛永時代(1624-1645年江戸時代初期)。当該項目を参照のこと。
  • 服部大池1645年正保2年)に完成。広島県福山市にあるため池。堤建設の際に埋められた「お糸の人柱伝説」。
  • 吉田新田
1659-1667年万治2年-寛文7年)間の伝説。埋め立て工事に際しての「お三(女子名)の人柱伝説」が有り、鎮守の日枝神社は「お三の宮」と呼ばれる。
1682-1691年天和2年-元禄4年)間の伝説。岩手県金ケ崎町にあるため池。「おいし」と呼ばれた女性が人柱として捧げられたといわれている[11][12]
伝説によれば、昔、この地方を流れる川の氾濫で、田畑が流される災害がたびたび起こり村人が困っていた。ある時、「裾に二本の線がはいった着物を着た人物を人柱に立てよ」という神のお告げがあった。その着物を着た人物、百太郎に白羽の矢が立った。轟音とともに、橋の柱にくくりつけられた百太郎の声が、一晩中、村に響き渡ったという。それからは、水害はぴたりとやんだ。[13]

漫画作品における人柱

ギャグ漫画、または格闘漫画作品では人が花火のように打ち上げられる(もしくは「放り投げられる」)ありさまを指して「人柱が上がる」と形容する場合がある。

ネットスラングとしての人柱

ネットスラングパソコン用語としての人柱とは、リスクがあるにもかかわらず、最新の製品などを自ら進んで購入してテストする者を指す。また、クロックアップなどの規格外の使い方を試すことも含まれる[14]

技術革新のスピードが速い分野であるために製品サイクルも速く、年単位で見れば実に数多くの新製品が投入されている。それらには販売開始時点で高価なものや入手困難品も時に見られ、ハードウェア面で設計ミスが無くてもデバイスドライバの完成度の低さなどからトラブルを抱えている可能性もある。そのため、そういった製品を用いることや、製品の保証対象外となるような規格外の使い方をすることは、様々なリスク、とりわけ経済的リスクがつきまとう行為である。他人のために犠牲になるという点では本来の「人柱」と共通しているが、この意味では自ら進んで行う行為である点で異なる[14]

また、ハードウェアに限らずソフトウェアにおいても人柱の表現は用いられる。新しいオペレーティングシステムベンダーから提供された際に、いち早くこれを導入し、バグ・不具合などを報告するレビュワーも「人柱」の一種である。

朝鮮半島の人柱

2017年5月16日韓国文化財庁は、慶州市にある新羅の王宮遺跡の下部から、5世紀のものとされる2人分の骨格(人柱)を発見したと発表した[15]

脚注

注釈

  1. 日本の場合は神道の神
  2. 21世紀初頭の資料(雪崩・地すべり研究センター資料)には「この伝説は、今から約800年前の鎌倉時代のことです」とあるので、非常におおまかながら1200年代前後か。そうであれば、鎌倉中期ということになる。
  3. 地名の変遷 : 越後国頸城郡猿供養寺村新潟県中頸城郡寺野村猿供養寺 → 新潟県中頸城郡板倉町猿供養寺 → 新潟県上越市板倉区猿供養寺。
  4. 貴人のそばに仕えて雑務をする少年

出典

  1. 南方熊楠 『南方閑話』 坂本書店出版部、1926-03-20。
  2. 『南方熊楠全集 第2巻 南方閑話・南方随筆他』 平凡社
  3. 高木敏雄 「人柱――埋められた人間の霊魂の作用で、工事が堅固になるという思想らしい」『日本神話伝説の研究』 岡書院、1925-05-20、530頁。
  4. 東京人類学会雑誌 第194号 「人柱に関する研究」 1902年(明治35年)5月20日、303-307頁。
  5. 5.0 5.1 5.2 5.3 地すべりと人柱伝説”. (公式ウェブサイト). 独立行政法人 土木研究所 土砂管理研究グループ 雪崩・地すべり研究センター. . 2012閲覧.
  6. 6.0 6.1 板倉区の文化財 : 人柱塔人骨”. (公式ウェブサイト). 上越市. . 2012閲覧.
  7. 山北尚志ほか 『北海道の歴史散歩』 北海道高等学校日本史教育研究会編、山川出版社〈歴史散歩(1)〉、2006-12-10。
  8. 8.0 8.1 8.2 8.3 三善貞司 (2009年6月27日). “荒れる淀川鎮める生贄に 工事成功へ天皇にお告げ”. 大阪日日新聞(ウェブサイト). 新日本海新聞社. . 2012閲覧.
  9. 9.0 9.1 61.強頸絶間跡碑”. (公式ウェブサイト). 大阪市. . 2012閲覧.
  10. 日本書紀 巻第十一の十”. 岩倉紙芝居館(個人ウェブサイト). 個人. . 2012閲覧.
  11. 千貫石ため池”. 先人が残した歴史的水利施設. 土地改良区(全国水土里ネット)(公式ウェブサイト). . 2011閲覧.
  12. 農林水産部農村計画課 (2011年3月10日). “岩手県-農業農村整備かみしばい「千貫おいし」”. 岩手県(公式ウェブサイト). 岩手県. . 2011閲覧.
  13. [1]肥後国くまもとの歴史 多良木町百太郎溝入口旧樋門2014年2月26日閲覧
  14. 14.0 14.1 下島朗. “人柱/用語解説辞典”. NTTPCコミュニケーションズ. . 2011閲覧.
  15. 韓国で行われた「人柱」の初証拠、新羅時代の遺跡で人骨発見 AFP(2017年5月16日)2017年5月16日閲覧

参考文献

  • 南方熊楠 『南方閑話・南方随筆他』第2巻、平凡社〈南方熊楠全集〉、1971-01。ISBN 4-5824-2902-5 ISBN 978-4-5824-2902-2。

関連資料

  • 山田仁史「人身供犠は供犠なのか?」『ビオストーリー』23号: 32−39頁、2015年6月。

関連項目