五十嵐英樹
五十嵐 英樹(いがらし ひでき、1969年8月23日 - )は、大阪府出身の元プロ野球選手(投手)。愛称はヒゲ魔神、デン助、デンちゃん。
現在は、横浜DeNAベイスターズのスコアラー。
Contents
来歴
アマチュア時代
東海大工高では、同期で捕手の吉永幸一郎とバッテリーを組み、3年次に夏の県大会で準決勝まで進出した[2]。
高校卒業後は、社会人野球の三菱重工神戸に入団。1991年にチーム投手陣で最年長となると頭角を表したが、同年の都市対抗野球では1回戦で新日本製鐵大分にコールド負けし、自身の登板も勝敗がほぼ決した後だった[2]。1992年はチームは都市対抗野球出場を逃したものの、同僚の後藤利幸とともに神戸製鋼の補強選手として本戦に出場し、2回戦で先発して本田技研を8回途中まで5安打2失点に抑え、味方の逆転勝利を呼び込んだ[2]。1994年のプロ野球ドラフト会議で横浜ベイスターズから3位指名を受け、契約金と年俸それぞれ6,000万円、750万円(いずれも推定)で入団契約を結んでいる[3]。
NPB選手時代
即戦力として期待されてプロ1年目の1993年は開幕から一軍入りしたが、4月25日の対ヤクルト戦では押し出しで初敗戦となるサヨナラ負けを喫した[4]。5月28日には二軍に降格してイースタン・リーグでも打ち込まれたが、一軍に戻ると8月11日の対広島戦で初セーブを挙げている[4]。8月14日には一軍初勝利も達成した。
1994年は5月21日の対広島戦でプロ初先発を経験し、13試合に先発。翌1995年は先発・リリーフでフル回転し、契約更改ではほぼ倍増の年俸3,600万円(推定)となっている[5]。1996年は盛田幸妃が先発転向したこともあり、本格的にセットアッパーに専念。7月26日から28日までの対広島3連戦では3試合全てに登板し、同一カード3連戦3連勝を記録している[6]。1997年は先発転向を予定されていたが右ひじを故障し[7]、前半戦はほぼ治療に専念した。同年は中継ぎとして36試合に登板し、チームは7年ぶりのAクラス入りを達成し、契約更改では現状維持の5,200万円(推定)となっている[8]。
1998年は佐々木主浩へつなぐセットアッパーとして40試合に登板。8月28日の対広島戦では7点リードから1点差まで追い上げられた7回表無死二、三塁のピンチで登板し、4番の金本知憲から始まる打順を三者連続三振に仕留め、優勝へのターニングポイントを乗り切った[9]。同年は島田直也に次ぐリーグ3位のリリーフポイント15.00[10]をはじめ、5勝2敗1S、防御率2.61の成績でリーグ優勝に貢献した。日本シリーズでは第5戦に2番手として登板し、鈴木健とルディ・ペンバートンに本塁打を打たれている[11]。オフには800万円増の年俸6,000万円と出来高払い2,000万円(いずれも推定)で3年契約を結んだ[12]。
1999年はキャンプで右ひじの痛みを訴え、全治2ヶ月と診断されて2回目の手術を受けた[13]。以降は完全に回復せず[1]、一軍登板のなかった2001年に戦力外通告を受けて引退。その場で球団に申し出て、翌年から打撃投手となることが決まった[1]。
現役引退後
2002年から2006年まで横浜の打撃投手を務めた。その後、同球団のスコアラーに転身している。
選手としての特徴・人物
ランナーがいない状態でもセットポジションから典型的なアーム式投法から140km/h台の速球とキレのあるスライダーに加え、シュートやフォークボールを投げていた[2]。スライダーは1997年の右ひじ手術後に球速が増したという[9]。
しかしアーム式の投法故、故障しやすく年間通して1軍でシーズンを終えることは一度も無かった。
気の小ささをカバーするため生やしたヒゲがトレードマークとなり、佐々木主浩の「大魔神」にちなんで「ヒゲ魔神」という愛称で呼ばれた[9]。「デンちゃん」というあだ名は風貌がコメディアンの大宮デン助(大宮敏充)に似ていることから付けられた[9]。
詳細情報
年度別投手成績
1993 | 横浜 | 27 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 3 | 1 | -- | .400 | 185 | 40.1 | 42 | 6 | 30 | 4 | 2 | 29 | 1 | 1 | 23 | 22 | 4.91 | 1.79 |
1994 | 30 | 13 | 0 | 0 | 0 | 3 | 3 | 1 | -- | .500 | 367 | 81.0 | 84 | 2 | 45 | 0 | 6 | 51 | 3 | 0 | 43 | 35 | 3.89 | 1.59 | |
1995 | 36 | 17 | 0 | 0 | 0 | 6 | 8 | 2 | -- | .429 | 547 | 126.1 | 131 | 13 | 55 | 4 | 3 | 89 | 3 | 0 | 67 | 67 | 4.77 | 1.47 | |
1996 | 46 | 2 | 0 | 0 | 0 | 9 | 6 | 2 | -- | .600 | 331 | 77.1 | 67 | 3 | 36 | 3 | 5 | 59 | 0 | 0 | 31 | 29 | 3.38 | 1.33 | |
1997 | 37 | 0 | 0 | 0 | 0 | 6 | 3 | 0 | -- | .667 | 145 | 33.2 | 36 | 0 | 13 | 2 | 2 | 27 | 2 | 1 | 14 | 13 | 3.48 | 1.46 | |
1998 | 40 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 2 | 1 | -- | .714 | 170 | 41.1 | 40 | 4 | 9 | 0 | 2 | 28 | 1 | 0 | 14 | 12 | 2.61 | 1.19 | |
1999 | 24 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 2 | -- | .000 | 122 | 26.2 | 38 | 3 | 6 | 0 | 0 | 18 | 3 | 0 | 19 | 16 | 5.40 | 1.65 | |
2000 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 20 | 4.1 | 8 | 2 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 4 | 4 | 8.31 | 1.85 | |
通算:8年 | 245 | 32 | 0 | 0 | 0 | 31 | 28 | 9 | -- | .525 | 1887 | 431.0 | 446 | 33 | 194 | 13 | 20 | 302 | 13 | 2 | 215 | 198 | 4.13 | 1.48 |
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記録
- 初登板:1993年4月11日、対読売ジャイアンツ2回戦(東京ドーム)、7回裏に3番手で救援登板、1回無失点
- 初奪三振:同上、7回裏に駒田徳広から空振り三振
- 初セーブ:1993年8月11日、対広島東洋カープ19回戦(横浜スタジアム)、9回1死に3番手で救援登板・完了、2/3回無失点
- 初勝利:1993年8月14日、対ヤクルトスワローズ17回戦(明治神宮野球場)、8回裏に3番手で救援登板・完了、2回無失点
- 初先発:1994年5月21日、対広島東洋カープ6回戦(富山市民球場アルペンスタジアム)、4回0/3を無失点
- 初先発勝利:1994年6月2日、対ヤクルトスワローズ11回戦(横浜スタジアム)、5回0/3を4失点(自責点3)
背番号
- 13 (1993年 - 2001年)
- 96 (2002年 - 2006年)
脚注
- ↑ 1.0 1.1 1.2 読売新聞、2002年1月31日付朝刊、神奈川地方面、P.29
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 毎日新聞、1992年9月3日付朝刊、P.15
- ↑ 毎日新聞、1992年12月15日付朝刊、P.21
- ↑ 4.0 4.1 毎日新聞、1993年8月12日付朝刊、P.11
- ↑ 朝日新聞、1995年12月5日付朝刊、P.29
- ↑ 1997年7月29日付朝刊、P.21
- ↑ 毎日新聞、1997年3月29日付朝刊、P.19
- ↑ 読売新聞、1997年12月26日付朝刊、P.19
- ↑ 9.0 9.1 9.2 9.3 スポニチ 日めくりプロ野球 【8月28日】1998年 ヒゲ魔神・五十嵐英樹、ほえまくりの3者連続三振
- ↑ 日本野球機構 セ・リーグ リリーフ・ポイントシステムとは? 1999年4月4日
- ↑ 日本野球機構 1998年度日本シリーズ 試合結果(第6戦)
- ↑ 朝日新聞、1998年12月26日付朝刊、P.21
- ↑ 朝日新聞、1999年2月27日付朝刊、P.25
関連項目
外部リンク
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)