二条家

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二条家(にじょうけ)は、五摂家のひとつで公家である。


概要

藤原氏北家九条流鎌倉時代九条道家の二男二条良実が、二条富小路の邸宅[1]を二条殿と称したのが家名の由来(二条殿は後に押小路烏丸殿を指すようになる)。家紋二条藤江戸時代の家禄は1708石。維新後二条基弘公爵に叙せられた。

足利将軍家および徳川将軍家から、代々偏諱を賜い、五摂家のなかでは、最も親幕府派とされる。また、史上最後の関白二条斉敬)を出した家でもある。

鎌倉時代末期の元弘の変において後醍醐天皇関白二条道平が倒幕関与の疑いを受けて鎌倉幕府より「中院禅閤(二条兼基)等子孫不可為家督」(『花園院宸記』正慶元年4月10日条)の処分を受けて二条家は一時断絶の危機に陥った(後醍醐天皇の復帰で無効となる)。続く、南北朝時代に一時分裂したが、北朝二条良基(道平の子)のもとで勢力を取り戻した。特に明治以前の即位式において新天皇に灌頂を授ける即位灌頂の儀を掌る役目は室町時代以後二条家が独占していた。江戸時代、当時の摂家最大の実力者とされていた近衛基熙が本来は摂関家全てに即位灌頂の礼式が伝わっている事、先代当主の二条光平の早世で礼式が絶えたことを理由に二条家の独占を継続すべきではないと唱えた。これに対して霊元上皇は他家にも伝わっているにも関わらず二条家の独占になっているのは相応の理由があるからであるとして、たとえ二条家当主が現職の摂関・大臣でなくても「即位灌頂」のみは二条家当主が行う事、もし当主が幼くして二条家を継いだ場合には儀式の秘法を知るもう一人の存在である当代の天皇が責任をもって当主に伝授する事を裁定して公式に二条家の独占となった。

江戸時代の屋敷跡地は、京都御苑の区画外に位置していたため、他の4家の摂政関白家とは異なり公園とはなってはおらず、同志社女子大学の構内となっている。

江戸時代の二条邸

江戸初期には京都御所南部にあったがのちに北部に移転した。現在は同志社女子大学今出川キャンパスの敷地の一部となっている。茶室は同志社大学に移築され、2018年現在も保存されている。政所御殿と表門は随心院に移築され、それぞれ庫裏、総門として使われている。

歴代当主

  1. 二条良実1216年 - 1271年
  2. 二条師忠1254年 - 1341年
  3. 二条兼基1268年 - 1334年
  4. 二条道平1287年 - 1335年
  5. 二条良基1320年 - 1388年
  6. 二条師良1345年 - 1382年
  7. 二条師嗣1356年 - 1400年
  8. 二条満基1383年 - 1411年
  9. 二条持基1390年 - 1445年
  10. 二条持通1416年 - 1493年
  11. 二条政嗣1443年 - 1480年
  12. 二条尚基1471年 - 1497年
  13. 二条尹房1496年 - 1551年
  14. 二条晴良1526年 - 1579年
  15. 二条昭実1556年 - 1619年
  16. 二条康道1607年 - 1666年
  17. 二条光平1625年 - 1682年
  18. 二条綱平1672年 - 1732年
  19. 二条吉忠1689年 - 1737年
  20. 二条宗熙1718年 - 1738年
  21. 二条宗基1727年 - 1754年
  22. 二条重良1751年 - 1768年
  23. 二条治孝1754年 - 1826年
  24. 二条斉通1781年 - 1798年
  25. 二条斉信1788年 - 1847年
  26. 二条斉敬1816年 - 1878年
  27. 二条基弘1859年 - 1928年
  28. 二条厚基1883年 - 1927年
  29. 二条弼基1911年 - 1985年
  30. 二条基敬1944年 - )

系譜

幕末の領地

国立歴史民俗博物館の『旧高旧領取調帳データベース』より算出した幕末期の二条家領は以下の通り。(11村・1,614石余)

  • 山城国愛宕郡のうち - 1村
    • 西賀茂村のうち - 56石余
  • 山城国葛野郡のうち - 1村
    • 壬生村のうち - 100石余
  • 山城国紀伊郡のうち - 1村
    • 東九条村のうち - 525石余
  • 大和国添上郡のうち - 1村
    • 中之庄村のうち - 242石余
  • 近江国滋賀郡のうち - 2村
    • 山中村 - 180石余
    • 見世村のうち - 91石余
  • 丹波国桑田郡のうち - 5村
    • 細川下村 - 158石余
    • 細川田尻村 - 18石余
    • 細川上村 - 109石余
    • 細川滝村のうち - 21石余
    • 細川中村 - 109石余

脚注

  1. 古くより良実の邸宅は「二条京極」にあると言われていたが、実際には隣の区域である「二条富小路」に邸宅があったことが、『平戸記』寛元2年4月20日条、「今夜殿下(二条良実)御渡二条富小路御所」の記述より知ることが出来る。
  2. 高辻福長の子、西高辻信廉の養子となる。

関連項目

系譜参考


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