亀戸
亀戸 | |
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— 町丁 — | |
座標: 東経139度49分36.59秒北緯35.6975056度 東経139.8268306度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 東京都 |
特別区 | 25px 江東区 |
人口 (2017年(平成29年)12月1日現在)[1] | |
- 計 | 60,088人 |
等時帯 | 日本標準時 (UTC+9) |
郵便番号 | 136-0071[2] |
市外局番 | 03[3] |
ナンバープレート | 足立 |
亀戸(かめいど)は、東京都江東区の地名で、城東地域内である。現行行政地名は亀戸一丁目から亀戸九丁目。郵便番号は136-0071[2]。
Contents
概要
江東区の北部エリアにあり、亀戸駅の北に、蔵前橋通り、南に、国道14号(京葉道路)が通っている地域である。繁華街、オフィス街、商店街、住宅街 と様々な風情な街である。錦糸町と合わせて『錦糸町・亀戸副都心』の指定を、東京都から受けているが、錦糸町が墨田区、亀戸は江東区になっているので、行政区分は二つの行政区内にある繁華街である。鉄道はJR総武線・東武鉄道亀戸線が利用できる。
地理
東西南北を川に囲まれた地形である。東に江戸川区平井・西に墨田区太平・南に江東区大島・北に墨田区文花。
地価
住宅地の地価は、2014年(平成26年)1月1日の公示地価によれば、亀戸1-25-7の地点で43万4000円/m2となっている[4]。
公園
区立公園
- 亀戸公園
- 亀戸水上公園
- 文泉公園
- 亀戸駅前公園
- 亀戸二丁目公園
- 亀島公園
- 亀戸三丁目公園
- 亀戸四丁目ふれあい公園
- 香取公園
- 亀戸四丁目公園
- 水神公園
- 亀戸五丁目公園
- 亀戸五丁目第二公園
- 亀戸緑道公園
- 亀戸南公園
- 亀戸平岩公園
- 亀戸平岩第二公園
- 亀戸東公園
- 亀戸七丁目北公園
- 亀戸七丁目南公園
- 亀戸七丁目西公園
- 亀戸九丁目公園
- 亀戸九丁目緑道公園
- 亀戸運動公園
都立公園
河川
歴史
亀戸と書いて「かめいど」と読むのは難読地名の一つといえるが、元々は亀井戸と書いたことに由来するものである。元々の地名は「亀島」(または亀ヶ島、亀津島)で[5]、その名の通り亀の形に似た島であったことによる。後に島の周辺に土砂が堆積して周りの島々と陸続きになり、亀島は亀村と呼ばれるようになった。これが、現在の亀戸三丁目附近にあった臥龍梅庭の井戸「亀ヶ井」と混同されて「亀井戸」と呼ばれるようになり、さらに「井」が取れて亀戸となった(亀津島の津(「つ」は古語で「の」の意)が「と」に変化したものとする説もある)。
亀戸村のうち、亀戸天神・天神橋周辺、北十間川南岸(境橋周辺)、および十間川東岸(日鐵NDタワー周辺)の各地の百姓商売屋は1664年(寛文4年)に取立てられ、1697年(元禄10年)に町地となり、亀戸町・亀戸境町・亀戸清水町が成立した。この三町は正徳3年閏5月11日(1713年7月3日)に本所の町地が町奉行に移管された際に、町奉行と代官の両支配地となった。1872年(明治5年)に亀戸町以外は亀戸村に再び合併した。
1889年(明治22年)市制町村制施行が施行された際に横十間川以西が東京市、以東が南葛飾郡とされ、南葛飾郡内の各村も合併・再編された(「明治の大合併」)。それまでの亀戸村も、新設の各村((新)亀戸村、大島村、吾嬬村)、そして東京市深川区と本所区へ編入された。
- 大島村に編入された区域は大島村大字亀戸、吾嬬村に編入された区域は吾嬬村大字亀戸になり、「亀戸」の地名は残っていたが、大島町(1900年町制施行)は1915年(大正4年)に、吾嬬町(1912年町制施行)は1930年(昭和5年)にそれぞれ町内の大字と小字を改編して、大島町大字一~八丁目、吾嬬町大字東一・五丁目となったため、区域内における「亀戸」の地名は消滅した。
- また、東京市に編入された区域は、暫定的に深川区ならびに本所区内の「村」として残っていたが、1891年(明治24年)に近隣の町域に組み込まれた。すなわち深川区亀戸村字南江耕地が深川猿江裏町に、字大横川が深川東町に、字古石場が深川古石場町に、本所区亀戸村字水神西宅地(飛地)が押上町に、字矢場耕地が本所太平町一~二丁目・柳島町・本所錦糸町・本所柳原町一~二丁目に、字大横川が本所柳原町三丁目にそれぞれ編入された。
現在の亀戸はこの時に成立した(新)亀戸村の区域である。これには南葛飾郡(旧)亀戸村の大部分、深川出村、南本所出村、北本所出村の各一部(飛地)のほか、柳島村、小梅村、中之郷村、押上村の各一部、本所区亀戸町(上述の亀戸町)、本所松代町四丁目(もと深川松代町四丁目)、本所瓦町(もと南本所瓦町)、本所五ノ橋町(もと小梅五之橋町・中之郷五之橋町)の各全域が含まれた。
1945年(昭和20年)の東京大空襲で亀戸の大部分が焼失したが、旧中川沿いの亀戸九丁目の大部分は焼け残った。これを受け毎年8月15日に旧中川東京大空襲犠牲者慰霊灯籠流しを開催している。
臥龍梅
江戸時代、江戸の東はずれに亀戸天神があり、ここから東は民家がきれ、田畑ばかりが広がっていた。亀戸天神から北東400メートル足らずの場所に臥龍梅があった。農家の梅であるが、享保九年に吉宗が隅田川辺への鷹狩の途次たち寄って、世に知られた。創始の伊勢屋彦右衛門という人は本所に住む商人であったが、風雅を好んで別荘をつくって、梅をたのしんでいた。梅は成長して奇木となって、龍が地面に臥すような形で四方に枝をのばした。地についた枝から根を生じ、そこから新しく枝を出すというように、まわりに広がっていった。伊勢屋の子孫はここに住んで農業を営み、臥龍梅を育てつづけた。吉宗がきて以来、臥龍梅は御用木となっていたのである。寛政四年)(1792年)ごろには、もとの臥龍梅は枯死したが、枝から次々と根を出すので、二代、三代と臥龍梅がついていた。臥龍梅は、一本から分かれた梅だけであったものを、遊客がふえるにつれて、梅を数百本にふやし、茶屋をつくって客をもてなすようになった。臥龍梅が梅屋敷へと脱皮したのである。
世帯数と人口
2017年(平成29年)12月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
丁目 | 世帯数 | 人口 |
---|---|---|
亀戸一丁目 | 3,153世帯 | 5,703人 |
亀戸二丁目 | 4,216世帯 | 7,162人 |
亀戸三丁目 | 4,615世帯 | 8,163人 |
亀戸四丁目 | 2,705世帯 | 4,314人 |
亀戸五丁目 | 3,562世帯 | 5,922人 |
亀戸六丁目 | 3,566世帯 | 5,844人 |
亀戸七丁目 | 5,362世帯 | 9,749人 |
亀戸八丁目 | 1,244世帯 | 2,286人 |
亀戸九丁目 | 4,570世帯 | 10,945人 |
計 | 32,993世帯 | 60,088人 |
小・中学校の学区
区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[6][7]。
丁目 | 番地 | 小学校 | 中学校 |
---|---|---|---|
亀戸一丁目 | 全域 | 江東区立第一亀戸小学校 | 江東区立第三亀戸中学校 |
亀戸二丁目 | 全域 | ||
亀戸三丁目 | 1~46番 | ||
その他 | 江東区立香取小学校 | ||
亀戸四丁目 | 全域 | 江東区立第二亀戸中学校 | |
亀戸五丁目 | 全域 | 江東区立水神小学校 | |
亀戸六丁目 | 1~30番 58~62番 |
江東区立第二亀戸小学校 | 江東区立第三亀戸中学校 |
その他 | 江東区立亀戸中学校 | ||
亀戸七丁目 | 1~8番 39~68番 | ||
その他 | 江東区立浅間竪川小学校 | ||
亀戸八丁目 | 全域 | 江東区立水神小学校 | 江東区立第二亀戸中学校 |
亀戸九丁目 | 全域 | 江東区立浅間竪川小学校 | 江東区立亀戸中学校 |
交通
鉄道
道路
施設
行政
図書館
- 区立亀戸図書館
防犯・防災
教育
小学校
- 区立
- 第一亀戸小学校
- 第二亀戸小学校
- 香取小学校
- 水神小学校
- 浅間竪川小学校
中学校
- 区立
- 亀戸中学校
- 第二亀戸中学校
- 第三亀戸中学校
高等学校
- 公立
- 私立
専修学校
職業訓練
職業能力開発校
- 公立
- 東京都立城東職業能力開発センター(旧・東京都立亀戸技術専門校)
金融機関
銀行
信託銀行
- みずほ信託銀行亀戸トラストラウンジ
信用金庫
労働金庫
- 中央労働金庫亀戸支店
信用組合
神社・寺院
神社
- 亀戸天神(東宰府)
- 御嶽神社
- 香取神社(旧亀戸村鎮守)
- 天祖神社(旧柳島村鎮守)
- 亀戸浅間神社
- 水神社(亀戸水神)
- 石井神社(おしゃもじ稲荷)
- 梅屋敷伏見稲荷神社(三丁目。旧亀戸梅屋敷跡)
- 稲荷神社(六丁目。平岩公園内)
- 豊川稲荷(六丁目)
寺院
著名な出身者
名物
主な出来事
亀戸が舞台の作品
テレビドラマ
小説
漫画
脚注
- ↑ 1.0 1.1 “世帯と人口(毎月1日)”. 江東区 (2017年12月1日). . 2017閲覧.
- ↑ 2.0 2.1 “郵便番号”. 日本郵便. . 2017閲覧.
- ↑ “市外局番の一覧”. 総務省. . 2017閲覧.
- ↑ 国土交通省地価公示・都道府県地価調査
- ↑ 古代の利根川の東京湾河口に土砂が堆積して島が作られた。
- ↑ “区立小学校の通学区域”. 江東区 (2017年4月3日). . 2017閲覧.
- ↑ “区立中学校の通学区域”. 江東区 (2017年4月3日). . 2017閲覧.