丹羽兵助
丹羽 兵助(にわ ひょうすけ、1911年5月15日 - 1990年11月2日)は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員。弟は丹羽久章元衆議院議員、孫に丹羽秀樹衆議院議員がいる。俳優の奥田瑛二を私設秘書として雇用していた。
来歴・人物
愛知県出身。名古屋中学校(現名古屋中学校・高等学校)卒業後、関西学院大学神学部に進むも父である丹羽兵助(先代)の急逝により中退。家業の土建業を継いだ後、守山町議、愛知県議を経て、1955年の第27回衆議院議員総選挙に旧愛知2区から立候補し初当選(当選同期に愛知揆一・田村元・椎名悦三郎・唐沢俊樹・高村坂彦・渡海元三郎など)。当選12回。自民党内では傍流の三木派→河本派に所属。第2次田中再改造内閣の国土庁長官、第1次中曽根内閣の総理府総務長官・沖縄開発庁長官、竹下改造内閣の労働大臣などを歴任した。1988年、勲一等旭日大綬章を受章。
腰の低い人柄から「お辞儀の丹羽兵」、あるいは毛利松平・森山欽司らと共に「お辞儀三人衆」と呼ばれた。
死去
1990年10月21日、陸上自衛隊守山駐屯地(名古屋市守山区)で行われていた記念式典(一般市民にも公開)に来賓として出席していた際、部外者の男(統合失調症で措置入院中。当時は一時退院中であった)に首をナイフで刺された。出血多量により心肺停止状態で近隣の病院に搬送されたが、12日後の11月2日に死去。79歳没。
病院に搬送された際、秘書が申告した血液型と秘書が偶然持参していた国会便覧の血液型記載を信用し、通常は行われるクロスマッチテストが行われないまま、異なる型の血液が輸血されると言う医療事故も重なったが[1]、司法解剖の結果、死因は頸部を切られたことによる失血死で、型違い輸血は死因に影響しないと判断されたという[1]。なお、誤った血液型が記載されたのは、当時流行した血液型占いのブームが原因であり、血液型による印象が得票数に繋がると考えたのではないかと推測されている[2]。
脚注
参考文献
支倉逸人 『検死秘録』 光文社、2002年。ISBN 4334973523。
関連項目
- 中塚一宏 - 元秘書