中根正盛

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中根正盛
時代 江戸時代前期
生誕 天正16年(1588年
死没 寛文5年12月2日1666年1月7日))
幕府 江戸幕府大番小納戸御側大目付
主君 徳川秀忠家光家綱

中根正盛(なかね まさもり)は、江戸幕府旗本。役職は御側 / 大目付。官職は壱岐守

活躍

徳川秀忠(2代将軍)の小姓に召し出され、大番を経て、徳川家光(3代将軍)時代に、小納戸を拝命し、やがて側衆(後の側用人)に進み、徳川家綱(4代将軍)時代に、大目付として諸国の監視を務める。

寛永10年(1633年)以来、家光の側近たちは老中六人衆(後の若年寄)となって幕府の日常的政務を処理するようになる。

寛永12年(1635年)、家光は、中根を御側に任じて幕閣との取次役とし、正規の監察機構とは別に監察権限を与えて幕藩制社会全般の動向を把握させ、中根を評定所へ出座させることにより幕府行政を監察させ、家光への情報チャンネルとした。

寛永15年(1638年)、堀田正盛が老中から家光の側衆に回り、中根正盛と2人で家光のブレーンとなる。土井利勝酒井忠勝門閥譜代大名大老に棚上げされ、彼らの子2人も若年寄から罷免される。ここに側衆(堀田・中根)と老中(松平信綱阿部忠秋)の家光体制が成立した。

この年、中根は従五位下壱岐守に叙任し、寛永17年(1640年)には5,000石を有することになる。

家光に深く寵愛され「比類なき出頭」、「国家の安否みな正盛について達す」と称され、「老臣といへども中根に向ては手を下して応対する程」の権勢を誇ったという。

諸大名・旗本と将軍との取次ぎ、その役目から各地の大名や幕臣の情報が集り、諸国の様子の監視に務め、与力20余騎を手足のように使った。また、たいへんな能書家でもあったという[1]

幕府不満の弾圧に利用された由井正雪の叛乱計画

慶安4年(1651年)に由井正雪の「慶安の変」が起きた。これは、正雪が歪んだ幕政への諫言、浪人救済が目的の謀反行動といわれた。幕府はその背後(武功派勢力)と正雪との関係を警戒した。中根は配下を諸方に派遣して、特に紀州の動きを詳細に調べさせた。これを機会に松平信綱と中根は、武功派(幕府批判権力者)とされる紀州藩主「徳川頼宣」を幕政批判首謀者とし失脚させ、武功派勢力の崩壊、一掃を成功させた[2]

人物

最後まで自分の言ったことを貫き通す人間だったとも言われ、時には家光の意見でさえ、中根の考えに反していれば、決して自分の意思を曲げることはなかったと伝えられている[3]

公儀(幕府)隠密の元締説

寛永14年(1637年)の島原の乱の際に中根が、その動きを詳細に調べさせ、甲賀忍者の一隊が一揆軍の立てこもった原城内に潜入し一揆軍の兵糧が残り少ないことを確認したという記録がある。

寛永20年(1643年)に福岡藩が領内の大島で、キリスト教の布教の為に潜入した異国船を発見し乗組員を捕らえた際には、この藩の対処を賞した老中奉書をもって上使として中根自ら筑前へ赴き、中根自身もこの事を賞する書状をしたためた [4]

島原の乱による衝撃から鎖国政策の徹底とキリシタンの摘発は、より強固となる。

中根は配下の廻国者で組織している隠密機関を幕閣という政府組織の一角に機関として組織化した。 老中・諸大名の監察を任とし、配下の隠密機関の元締めとして島原の乱・慶安の変に関して崩壊させる勲功を賞され、また、幕閣の重臣としてキリシタン弾圧を強固なものとして推し進めた事により、中根の公儀隠密元締説がうまれた[5][6]

脚注

参考文献

関連項目