中村武志

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中村 武志(なかむら たけし、1967年3月17日 - )は、京都府京都市右京区出身の元プロ野球選手捕手)、プロ野球コーチ。

経歴

中日時代

1984年度ドラフト会議にて中日ドラゴンズから竹田光訓の外れ1位として指名を受けて入団。入団2年目まではまったく活躍の場がなかったが、星野仙一が監督に就任した3年目の1987年から星野に才能を見出され一軍に出場し、猛練習の甲斐もあり、翌1988年の6月頃からはレギュラーに定着する。星野は監督就任時、レギュラー捕手として走攻守に活躍し1987年には盗塁阻止率.396でリーグトップだった中尾孝義を怪我が多すぎることを理由に外野手にコンバートして[1]、中村に捕手教育を集中した。そして中村も1988年に盗塁阻止率.448と前年の中尾を上回る数字でリーグトップになるなど期待に答えた。

球団から目をかけてもらえなかった中村は1986年シーズンオフにはフロントの整理対象選手に挙げられていたが、この時監督に就任したばかりの星野は、外れとはいえドラフト1位選手でありながら、わずか高卒2年での戦力外に納得が行かず、当時の加藤安雄バッテリーコーチ(明治大学野球部の後輩)に「壊れてもいいからとにかく練習させろ」と指示した。鉄拳制裁を用いた指導や厳しい叱責を星野から受け続け、ついには「お前なんか辞めてしまえ!」と言われ、本気で辞めようと思い詰めていたが、母親から電話で「お前、最近頑張ってるそうじゃないか。監督さんから電話で『見どころのある息子さんですので、お母さんは安心して見ていて下さい』と言ってくれたよ」と言われて思いとどまり、その後中日の正捕手へと成長していった。星野は、怪我が少なく素直な性格の中村を非常に重宝して起用しつづけた。本人も半ばジョークで「もともといい男だったが、もとの顔が変形するほど殴られ続けた」という。[2] 水谷寿伸は中村が鉄拳制裁の1番の被害者でいつも青タンだらけで顔が腫れていたという[3]。星野は晩年、中村について「(ドラゴンズの監督に就任した1年目の)武志はヘタクソで、もうどうしようもなかった。でも、ぐんぐんと成長しているのが目に見える。それを見ることは物凄く楽しかった」と語っている[4]。中村は星野の死後、「あんなに怖い人はいなかったが、感謝しかない。星野さんに出会っていなければ、今の自分は間違いなくいない。親以上の存在」と述べている。また一方で、「星野さんは、実は優しい人」とも述べている。1988年オールスターゲームに初出場した時、「オールスターに出場するんだから、これからはこういう所に泊まる人間にならないといかん」と、星野が中村のために帝国ホテルのスイートルームを予約してくれたことや、高級ステーキ店で自身と立浪和義に美味しいステーキを御馳走してくれたことを語っている[5]


星野の監督就任をきっかけに、以後10年以上に渡ってドラゴンズの正捕手の座を保ち続ける。打撃も次第に開花し、三割を獲得したことはなかったものの、1991年には20本塁打を放つなど、現役通算で137本塁打を記録した(しかし1997年以降は本拠地が広いナゴヤドームだったこともありシーズン二桁本塁打は中日在籍中達成できることはなかった)。同年7月19日の対巨人戦(ナゴヤ球場)では足を痛めてスタメン落ちしていたが、8回裏に同点に追いつく代打満塁本塁打、10回裏にはサヨナラ本塁打を放った。1988年と1999年の日本シリーズで通算26打数7安打1本塁打の成績を残す。もっとも、1999年のシーズン打率は.200ちょうどで、これは1983年以降現在に至るまで、規定打席到達者の中では最低打率である。


2001年オフに山田久志が新監督に就任した中日はドラフト1・2位に捕手を指名したことで、正捕手としての心証が悪くなり、更に横浜ベイスターズから正捕手であり、打撃も優れていた谷繁元信FAで獲得。この年出場試合数・安打数では自己最高を記録してこの扱いに立場を感じなくなった中村は出場機会を求めトレードを志願し、金銭トレードで横浜へ移籍[6]

第一次星野政権では「星野監督に鉄拳制裁を受けなかった日にちを数えた方が早かった」というほどの厳しい指導を受けていたが、同時に「星野監督は、『練習を頑張れば試合に出るチャンスがあるかな』という気にさせてくれました」とも語っていた。星野が1995年のオフに2度目の監督就任を果たした時は「複雑でした。『またか!』という思いがありました。ただ、『勝てる!よし、また頑張ろう』という気にもなりました」と話している。第二次星野政権では「僕は殴られたり、蹴られたりというのはなかったです。ただ、『試合でしっかりしなければ、お前だろうが、立浪だろうが、俺は試合には起用しない』と言われました。良く言えば、僕らのことを大人として見ているのかなと思いましたし、同時にプレッシャーはありました」と話している。

横浜時代

2002年は開幕から相川亮二との併用を前提とし、中村本人の肩の調子が思わしくなかった為に球団は急きょ光山英和を獲得したが、相川が怪我で長期離脱している間に当時プロ2年目だった吉見祐治とのバッテリーで、ヤクルト石川雅規と吉見との新人王争いをサポートした。なお新人王こそ逃したものの、吉見はこの年11勝をマークし、翌年の開幕投手となる。

2003年西武ライオンズから中嶋聡の加入もあり開幕スタメンこそは逃したものの、5月23日の対巨人戦では1試合3本塁打を放つなどして、シーズン終了時には打率.268本塁打11本という成績を収めた。

2004年はシーズン前に愛車が盗難に遭い、車は戻ったもののミットなどの道具一式は帰らなかった。さらにシーズン中は故障が続き、また相川亮二ら若手捕手の台頭により47試合の出場に留まった。

楽天時代

2004年11月25日、無償トレードによって新規参入球団の東北楽天ゴールデンイーグルスへ移籍。2005年藤井彰人に次ぐ2番手捕手として64試合に出場し、7月31日には有銘兼久とのバッテリーで楽天球団創立初の完封・完投勝利を果たした。だがシーズン終了後に戦力外通告を受け、そのまま現役を引退。通算2000試合出場まであと45試合、21年間の現役は同期入団の中では最長だった。

引退後

引退後の2006年湘南シーレックスバッテリーコーチに就任。正捕手である相川亮二の怪我の影響もあり、若手で控えの斉藤俊雄武山真吾に一軍の経験を積ませ指導。2008年、一軍バッテリーコーチに昇格したが、成績低迷により退団。

2009年、古巣・中日ドラゴンズの捕手コーチ(二軍)に就任し、谷繁とはコーチと選手との立場の違いがあるが、トレード劇から8年越しで同じチームに所属になった。2010年からはバッテリーコーチとなり、2年連続リーグ優勝に貢献。2012年退団。

2013年千葉ロッテマリーンズの一軍バッテリーコーチに就任[7]江村直也田村龍弘吉田裕太ら若手捕手の育成に尽力。2014年10月5日に球団から来季の契約を結ばないことが発表された[8][9]

2014年11月、韓国プロ野球・起亜タイガースの一軍バッテリーコーチに就任。2017年、8年ぶりのレギュラーシーズン優勝、韓国シリーズ制覇に貢献した。2018年より起亜の二軍バッテリーコーチに配置転換。

愛称はたけし。中日時代に当時の星野仙一監督が「たけし」と呼んでいたことから馴染みのある解説者や応援などで使用されることが多い。若手時代の応援歌は『コンバット!』のオープニングテーマ、主力になった後の応援歌は楽天移籍後にも使用された。横浜移籍後は若菜嘉晴の応援歌を引き継いだ(後に中村を慕う武山真吾[10]が自ら希望し受け継いだ)。

捕手として規定出場し盗塁阻止率5割以上を記録した捕手は中村と大矢明彦田淵幸一有田修三福島知春福嶋久晃梨田昌孝古田敦也谷繁元信城島健司小宮山慎二の11人しかいない。そのうち2度以上記録したのは中村、大矢、田淵、古田と4人だけである。

真面目で温厚な性格であり、制球が乱れがちな野口茂樹吉見祐治などが投げる時は、ど真ん中にミットを構えたり、際どくストライクゾーンから外れても「うんうん」と頷くなど、投手に対する配慮は現役時代を通じてあった。特に野口はヒーローインタビューでたびたび「中村さんのミットめがけて投げました」「中村さんのおかげです」とコメントしている。また、横浜と楽天の投手陣もヒーローインタビューなどでバッテリーを組んだ中村の名を挙げる事が多々あり、所属した全球団でヒーローインタビューにおいて投手から名前を挙げられている。中でも山本昌とは非常に深く通じ合っており、山本が中村からの返球を受けてサインを覗くときにはすでに予想した球種で、握りやすい向きでボールをセットしていた。技術的には変化球で追い込んでストレートで勝負するタイプであった[11]

98年の守備率.999と03年の守備率.998は中日、横浜の両球団の球団記録であったが中日は2009年に谷繁が、横浜は2011年細山田武史が1.000で更新した。

中日から移籍後もシーズンオフはCBCラジオの「久野誠のドラゴンズワールド」に毎年ゲスト出演していた。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1987 中日 43 119 113 12 24 3 0 3 36 11 2 0 1 0 3 0 2 19 5 .212 .246 .319 .565
1988 98 306 267 30 63 18 0 5 96 21 2 0 8 1 29 7 1 63 2 .236 .312 .360 .672
1989 125 420 352 23 95 12 0 7 128 41 2 2 9 2 55 19 2 94 7 .270 .370 .364 .734
1990 97 282 256 22 64 9 0 7 94 21 1 1 6 1 18 6 1 43 4 .250 .301 .367 .668
1991 104 370 333 42 90 13 0 20 163 62 5 4 9 4 24 1 0 74 5 .270 .316 .489 .805
1992 113 391 351 25 86 16 4 6 128 31 1 1 3 1 34 5 2 57 7 .245 .314 .365 .679
1993 127 461 404 38 88 11 0 18 153 46 0 0 8 1 48 8 0 116 8 .218 .300 .379 .679
1994 125 456 398 37 102 16 0 9 145 50 1 0 8 0 46 8 4 48 14 .256 .339 .364 .703
1995 94 335 301 26 77 10 0 8 111 32 2 3 2 0 31 1 1 57 11 .256 .327 .369 .696
1996 115 422 376 45 102 11 1 12 151 37 2 0 2 2 40 9 2 51 17 .271 .343 .402 .745
1997 102 314 280 27 65 15 0 8 104 36 0 0 2 3 26 5 3 42 11 .232 .301 .371 .672
1998 128 468 407 27 96 18 4 5 137 42 2 0 7 2 49 12 3 65 10 .236 .321 .337 .658
1999 127 439 395 31 79 12 0 6 109 42 3 1 13 3 28 6 0 65 9 .200 .275 .276 .551
2000 126 417 356 26 87 10 0 4 109 34 2 2 16 1 43 9 1 68 12 .244 .302 .306 .608
2001 134 455 412 29 109 16 0 2 131 27 1 0 10 1 31 5 1 59 17 .265 .317 .318 .635
2002 横浜 107 302 283 22 57 8 0 5 80 19 0 0 1 2 15 4 1 72 5 .201 .243 .283 .526
2003 79 230 209 23 56 8 0 11 97 37 3 0 8 1 12 5 0 35 6 .268 .306 .464 .770
2004 47 111 101 6 20 4 0 1 27 8 0 0 5 0 5 2 0 19 5 .198 .236 .267 .503
2005 楽天 64 121 111 8 20 4 0 0 24 7 0 0 3 0 7 0 0 25 3 .180 .229 .216 .445
通算:19年 1955 6419 5705 499 1380 214 9 137 2023 604 29 14 121 25 544 112 24 1072 158 .242 .309 .355 .664
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績


捕手
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 捕逸 守備率 企図数 許盗塁 盗塁刺 阻止率
1987 42 17 13 4 .235
1988 98 513 54 8 12 5 .986 58 32 26 .448
1989 121 624 76 4 12 8 .994 64 31 33 .516
1990 95 440 56 3 6 5 .994 53 34 19 .358
1991 101 596 62 3 10 6 .995 75 53 22 .295
1992 112 635 55 3 7 6 .997 68 47 21 .309
1993 127 884 82 3 16 9 .997 52 27 25 .481
1994 125 803 55 3 15 6 .997 51 36 15 .294
1995 94 573 56 3 8 4 .995 54 26 28 .519
1996 114 784 72 8 11 7 .991 82 50 32 .390
1997 96 560 45 5 11 11 .992 77 62 15 .195
1998 128 868 74 1 10 3 .999 81 43 38 .407
1999 127 769 73 3 11 7 .996 78 50 28 .359
2000 125 810 73 3 13 4 .997 104 69 35 .337
2001 134 964 77 5 12 5 .995 101 79 22 .218
2002 107 82 61 21 .256
2003 79 .998 56 42 14 .250
2004 43 30 21 9 .300
2005 64 233 20 0 3 2 1.000 41 31 10 .244
通算 1868 11340 1031 64 180 94 .995 1224 807 417 .341
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰

記録

初記録
  • 初出場:1987年4月14日、対広島東洋カープ1回戦(ナゴヤ球場)、6回裏に石井昭男の代走として出場
  • 初先発出場:1987年5月29日、対広島東洋カープ7回戦(ナゴヤ球場)、8番・捕手として先発出場
  • 初三振:1987年5月30日、対広島東洋カープ8回戦(ナゴヤ球場)、3回裏に北別府学から
  • 初安打:同上、7回裏に北別府学から二塁打
  • 初本塁打・初打点:1987年5月31日、対広島東洋カープ9回戦(ナゴヤ球場)、5回裏に白武佳久から
  • 初盗塁:1987年7月7日、対阪神タイガース13回戦(石川県立野球場)、8回裏に二盗(投手:浜田知明、捕手:木戸克彦
節目の記録
その他の記録

背番号

  • 39 (1985年 - 2005年)
  • 86 (2006年 - 2008年)
  • 83 (2009年 - 2011年)
  • 80 (2012年)
  • 82 (2013年 - )

脚注

  1. 現役時代投手だった星野は中尾ともバッテリーを組んでいたが、その経緯から中尾の選手としての寿命と不節制を熟知していた根拠もあった。ただし、中尾が外野手にコンバートしたのはケガが多すぎることが直接の理由ではなく、コーチとの確執がきっかけで「こんな状況では捕手をやれない」と中尾自身が星野に直談判したことからであった。
  2. 星野は自著『星野流』で「数百発は殴った」と述べている。
  3. 週刊現代2018年4月21日号、『熱討スタジアム』「闘将」星野仙一を語ろう、134頁
  4. スポーツスタジアム 魂 1001回記念スペシャル(2017年9月26日放送 中京テレビ)より。
  5. 【1月9日】 2018年(平30) 【星野の記憶2】中村武志氏 怒られ、殴られ、蹴られたけど…笑顔忘れられない
  6. 【12月28日】2001年(平13) 年内に自由の身にしてくれ!中村武志、怒りの退団
  7. 中村武志氏 一軍バッテリーコーチ就任のお知らせ - 千葉ロッテマリーンズ・オフィシャルサイト 2012年10月31日
  8. コーチとの来季契約についてロッテ球団公式サイト2014年10月5日配信
  9. ロッテ 中村1軍バッテリーコーチ退団へ 伊東監督は来季続投
  10. 武山はその後、西武を経て中日に移籍し2018年からは自身がかつて着けていた39番を着用
  11. ベースボール・マガジン社『133キロ怪速球』(山本昌、2009年) ISBN 978-4583101699 p40-41

関連項目

外部リンク

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