中村勘三郎 (17代目)

提供: miniwiki
移動先:案内検索
じゅうしちだいめ なかむら かんざぶろう
十七代目 中村 勘三郎
屋号 中村屋
定紋 角切銀杏 50px
生年月日 1909年7月29日
没年月日 (1988-04-16) 1988年4月16日(78歳没)
本名 波野聖司
襲名歴 1. 三代目中村米吉
2. 四代目中村もしほ
3. 十七代目中村勘三郎
俳名 舞鶴
出身地 東京都
表示

十七代目 中村 勘三郎(じゅうしちだいめ なかむら かんざぶろう、1909年明治42年)7月29日 - 1988年昭和63年)4月16日)は、日本の歌舞伎役者。屋号中村屋定紋角切銀杏、替紋は丸に舞鶴日本芸術院会員、重要無形文化財保持者(人間国宝)。本名は波野 聖司(なみの せいじ)。

来歴

初代中村吉右衛門六代目尾上菊五郎の双方に師事し、女形立役をともにこなす名優だった。

1909年(明治42年)7月29日、三代目中村歌六の三男として生れる。長兄の初代中村吉右衛門と次兄の三代目中村時蔵がともに歌六の妻・かめ(旧姓小川)の所生だったのに対し、聖司は妾の山本とし所生の子で、しかも年が離れていたために、幼い頃はよくいじめられたという。その初代吉右衛門や六代目菊五郎、そして七代目坂東三津五郎らが活躍した市村座で聖司は育った。1916年(大正5年)、三代目中村米吉を襲名して初舞台を踏んだ。初舞台は市村座の『花川戸噂の俎板』の倅長松だった。

父の三代目歌六に仕込まれたあとは、長兄の初代吉右衛門に付いて修行した。最初は女形として舞台を勤める。

1929年(昭和4年)明治座『碁太平記白石噺』の信夫などで四代目中村もしほ襲名。1934年(昭和9年)立役への希望が強く、松竹での役不足などから東宝劇団へ移籍する。東宝劇団には、九代目市川高麗蔵六代目坂東蓑助五代目片岡芦燕六代目市川壽美蔵らがいた。1937年(昭和12年)に東宝劇団が解散すると、しばらく関西歌舞伎に籍を置いていた。この関西歌舞伎時代には、二代目實川延若中村魁車三代目中村梅玉らと舞台を共にしたが、この間に立役としての実力をつけた。のち松竹へ復帰。

1944年(昭和19年)には六代目尾上菊五郎の長女久枝と結婚した。その当時は本土空襲が激しさを増していたさなかだったため、久里浜に疎開していた。

1950年(昭和25年)1月、長らく絶えていた「中村勘三郎」の名跡を再興する形で十七代目を襲名し、新たに中村屋を興す。以後、六代目菊五郎と初代吉右衛門の芸風を吸収し、時代物世話物、上方と江戸、立役と女形、古典と新作など、種別を問わない広い芸を身に着けた。戦後は活動の主軸を吉右衛門劇団におき、女形出身らしい柔らか味と、明るくも円やかな人情味、さらに愛嬌あふれる芸風によって人気を博した。生涯通算800役以上を勤め、ギネスブックに登録されたという逸話も持つ。

映画テレビドラマへの出演経験もあり、歌舞伎界の枠に囚われない活動も見せている。

1988年(昭和63年)1月歌舞伎座『平家女護島』「俊寛」の俊寛僧都を7日間勤めたのが最後の舞台となった。同年4月16日、縦隔腫瘍の悪化により東京女子医科大学病院で死去、78歳だった。墓所は西徳寺東京都台東区)。戒名は「秀峰院釋聖鏡大居士」。後従三位勲一等瑞宝章が追贈された。

栄典・顕彰等

栄典・顕彰

その他

家族

十八代目中村勘三郎は長男、新派波乃久里子は長女、六代目中村勘九郎二代目中村七之助は孫。

人物・逸話

ファイル:Moshiho Nakamura IV as Ashikaga Tadayoshi in Kanadehon Chūshin-gura cropped.jpg
『仮名手本忠臣蔵』大序の足利直義(昭和22年11月東京劇場)
  • 息子の十八代目中村勘三郎は、父・十七代目を「怖い親父だった」と述懐する。たとえば少年時代、39度の高熱で倒れて家で寝ていたが、その状態で舞台を密かに見に行ったことに父が激怒し、寝ているところに氷水をぶっかけられたうえ、家からつまみ出されたことがあるという。
  • 二人の孫の勘太郎(のちの六代勘九郎)と七之助の初舞台『門出二人桃太郎』では、二人の母方の祖父、七代中村芝翫とともに爺と婆を演じたが(なお庄屋の夫婦は十三代片岡仁左衛門中村歌右衛門、犬、雉、猿は松本幸四郎澤村藤十郎中村福助(のちの梅玉)、巫女は尾上梅幸であった)、息子と孫2人と祖父2人との5人の口上の席上「孫たちは私をじじんちゃまと呼びますが、成駒屋さん(=芝翫)のことをパパと呼びます。それが気に入りません。わたしとあんた爺同士なのに」と発言し客席を笑わせた。
  • 十八代目の述懐をもう一つ。まだ勘九郎になりたての頃、父・十七代目と藤山寛美の舞台を見たが、そのとき十七代目は「よく見ておけ、この男は必ず舞台で天下を取るぞ」と言い、その実力を見抜いていたという。当時の寛美は人気スターではあったものの、二代目渋谷天外の陰にあって後年の喜劇王的な位置にはまだ達していなかった。この縁で勘三郎一家と寛美一家の親交が現在も続いている。
  • 妻の久枝と帝国ホテルのレストランに入ったときのこと、久枝は前菜に鴨、スープはタートル(海亀)を選んだが、十七代目は「タートルって、セーターみたいだね。亀のこと?おまえさん亀食べるの?やだね」と言って、メインディッシュを決める段階で久枝は「熊?兎?鳩?あら雉もいいわ」と言い出したため、十七代目は「何だい、鴨だ亀だ兎だ熊だ、って、お前さんがそんなに悪食だとは知らなかったよ、ぼくは帰る!!」と激怒して、久枝を残したまま何も食べずに帰ってしまったという。[2]
  • 十七代目は梨園きっての麻雀好きとして有名だった。取材のために車で移動していた間も同行スタッフと車内で卓を囲んでいたほど。そんな父だからと、葬儀の晩は霊前で雀卓を囲もうということになり、息子の勘九郎(当時)が故人と親しかった森光子片岡孝夫(当時)、十二代目市川團十郎の3人を誘った。いざ始めようとした時、遺影が倒れて卓のそばまで落ちてきた。「(十七代目は)自分もやりたがってるんだろうね」と雀卓を囲んだ4人で故人を偲ぶことしきりだったという。
  • 大腸がんを患い、施術。以来、人工肛門を使用していたが、そうした影響を微塵も感じさせない精力的な舞台を晩年まで務めあげた。
  • 往時は歌舞伎劇場に役者が入る大風呂があったが、十七代目は持病のために入れなかった。そこで楽屋に風呂桶を入れさせ、一人それに浸かっていた(現在では風呂は楽屋に備え付けとなっているものが主流)。

主な当たり役

映画

テレビドラマ

脚注

  1. 『朝日新聞』1969年4月9日(東京本社発行)朝刊、14頁。
  2. 文芸春秋 「ノーサイド」 編 「美食家列伝」 108頁 文春ネスコ 2002年

外部リンク


テンプレート:中村勘三郎