世宗 (朝鮮王)

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世宗 (朝鮮王)
各種表記
ハングル 세종 / 이도 / 원정
漢字 世宗 / 李祹 / 元正
発音: セジョン / イ・ド / ウォンジョン
日本語読み: せいそう、せそう / り・とう / げんせい
ローマ字 Sejong / I Do / Won Jeong
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世宗(セジョン、せいそう[1]、せそう、세종、1397年5月7日 - 1450年3月30日)は、李氏朝鮮の第4代国王である[2] 。姓は、名は(文字は示へんに陶の)(ド、)。即位前は忠寧君(チュンニョングン、ちゅうねいくん)ついで忠寧大君(チュンニョンデグン、ちゅうねいたいくん)と呼ばれていた。

生涯

即位

1397年、第3代国王太宗の第3王子として生まれる。母は元敬王后・閔氏。1406年に成人すると忠寧大君(大君は王の嫡出子に与えられる職官)に封じられ、沈(シム、ちん)氏(後の正妃・昭憲王后)と結婚した。

健康問題を抱えた父・太宗には何度か譲位を行う意向があったが、外戚との確執や長男の譲寧大君の奔放な性格が問題となり、なかなか行われなかった。1418年、太宗は譲寧大君から世子(王太子)の資格を剥奪し、三男の世宗に譲位した。

世宗即位当初の4年間は、上王となった太宗が軍事権をはじめ政治の実権を握っていた。1422年に太宗が亡くなると、世宗の親政が始まることになる。

内政

ファイル:Hunmin jeong-eum.jpg
ハングル(訓民正音)
  • 世宗は宮中に学問研究所として集賢殿を設置し[3]、ここに若く有望な儒学者や官奴、外国人らを採用してさまざまな特権を与えた。集賢殿は王の政策諮問機関として機能し、朝鮮の文化と文治主義を発展させる原動力になった。世宗は集賢殿の学士とともに広い分野に及ぶ編纂事業を主導し、儒学やさまざまな文化・技術を振興した(後述)。とくに、朝鮮文字であるハングル(訓民正音)の創製が知られている[2]。1425年には朝鮮通宝を鋳造し、貨幣経済の浸透を試みた。また、高麗以来の税法である踏験損実法を廃止し、1436年に貢法詳定所を設置して朝鮮の田税制度を定めた。1437年になると世宗自体の健康問題もあり、六曹直啓制(省庁を王が直接統括する制度)を議政府署事制(領議政・右議政・左議政の三議政が六曹と協議し、その結果を国王に上奏する方式)に変更し、王の国事の負担を軽くし、権力を分散させた。

世宗の時代には官僚であれば末職さえ100人以上所有したほど奴婢の身分の者が多かった。そのため世宗の治世時期前から李王家と貴族は奴婢を300人以上所有してはいけないという法があった。しかし、世宗は婢と良民の男が結婚すれば間の子供は父親の身分に従って良民になれるようにしていた既存の法律を廃止した。さらに奴婢従母法(노비종모법)という母が両班で父が奴だった場合は子も奴婢になり、奴(父親)の所有者がその子の所有権を持つように定められた。この法律は母親が父が誰でどの身分でも、二人の間の全ての子供は母の身分に従って奴婢になるようにした法律でもあった。朝鮮の少女たちを貢女として中国()に捧げるために『進献色』という機構を設置した上に、処女進献を避けるために民衆の間が幼い年齢で早婚させることが流行すると即座に王族など高位層を除いて民衆のみに早婚禁止を実施した。朝鮮王朝実録には李氏朝鮮時代でも世宗の治世が明に対する処女進献は最多と記録されているが、韓国では名君として教えられてるため全く知られていない[4][5][6][7]

対外関係

外部の対しては柔軟に慎重策と積極策を使い分けた[2]。日本との関係に関しては、当時朝鮮の沿岸を荒らし回っていた倭寇の取り締まり問題での対立が引き金となって、即位翌年の1419年対馬を攻撃した(応永の外寇)(この外征は当時まだ上王として実権を握っていた太宗の意向が反映していたものであった)[2]。その後、外交的解決に重きを置くようになり、世宗在位中には1428年1439年1443年通信使が派遣された。室町幕府との修好がなされ、富山浦など3つの開港場(三浦)を設けて、倭寇禁圧の要請が行われた[2]。通信使は日本の国情偵察も兼ねており、使節に同行した申叔舟による日本社会の観察は、のちに『海東諸国紀』としてまとめられた。1438年永享10年)ころには文引制を採用し、1443年嘉吉3年)には日本側の事実上の出先機関となった対馬の宗氏との間に嘉吉条約を結んだ。

明へ太宗・世宗の時に2人の妹を貢女として送った韓確(ハン・ファク、1403年-1456年)は右議政左議政(共に現在の副首相クラス)などの要職を歴任し、密通に及んだ事実が発覚した際も、世宗は「罰せられない人物」だとして黙認した。への貢女の献上については「国内の利害のみならず、外国にも関係することなので、ただ(明皇帝の)命令に従うのみ」と語っているため、世宗さえも恥辱の例外ではないと報道された[8][9]

文化と技術

仏教に対しては廃仏政策をおこなった。世宗は仏教の宗派を禅教の2宗派に統合し、18ヶ寺を除いてすべて破却するなどした。高麗時代まで国家の保護を受けて繁栄していた仏教勢力はこの時期に著しく衰退し、山間などで細々と続くのみとなった(朝鮮の仏教参照)。世宗代に編纂された仏教書には、創製まもないハングルで書かれた『釈譜詳節』がある[2]。三網行実図などを出版して儒教的な道徳を広めていった[2]。高麗時代の歴史書である『高麗史』や朝鮮王朝の建国神話である『竜飛御天歌』などを出版させて政治姿勢を明確にした[2]

また、次のような実学や技術が発展したとされている。

ファイル:Korean celestial globe.jpg
荘英実によって制作された渾天儀
ファイル:Korean Waterclock.jpg
蒋英実の自動水時計を再現したもの
  • 1432年に王立天文台である簡儀台を設置し、渾天儀など多くの天体観測器を製作させた。また、時間を測定する日時計仰釜日晷など)と自動水時計(世界初のからくり時計であると現代の韓国でされている自撃漏など)も製作させた。
  • 1441年に元官奴で正四品になった蒋英実が発明した「測雨器」は世界最初の雨量計であると現代韓国でいわれ、農業気象学に資した。また、農業技術の改良と勧奨のために『本国経験方』『農事直説』などの農書を編纂させた。
  • 世宗代には銅活字など活字・印刷技術も発展を遂げた[2]1403年に発明されたと現代韓国で言われている青銅活字「癸未字」の欠点を補完するため、新しい青銅活字である「庚子字」(1420年)、「甲寅字」(1434年)を開発させた。
  • 1444年設置された「火砲鋳造所」では崔海山(チェ・ヘサン、さい かいざん)により火薬火器の製造・開発がおこなわれ、火砲の鋳造法と火薬使用法、規格を図示した『銃筒謄録』が刊行された。
  • 世宗はに楽器の製作、郷楽の創作、井間譜の創案などを命じた。これにより朝鮮の雅楽の復興期が到来した、と現代韓国ではされている。

このほか、世宗代に編纂された書籍として、医学書『医方類聚』などがある。

陵墓と死後

晩年は病気がちとなり、それまで抑圧していた仏教にすがるようになった。1450年、53歳で薨去した。先に没していた昭憲王后とともに、太宗の陵墓である献陵(現在のソウル特別市瑞草区)に合葬された。1469年、昭憲王后とともに京畿道驪州郡の英陵(通称・世宗大王陵)に移葬されている。

文字の読めなかった国民を哀れんで、ハングル訓民正音)の創製を行ったことで知られている。死後も韓国国内で一般的に讃えられている。儒教の理想とする王道政治を展開したとして、朝鮮王朝における最高の聖君と評価されている。韓国では子供から老人まで幅広い層に尊敬されている国民的英雄である。後年「海東の」と称された[2]。このため廟号は世宗であるが、朝鮮史では李氏朝鮮の歴代国王の中で聖君(最高の名君)と尊敬されている意味で世宗大王세종대왕、セジョンデワン、せそうだいおう)とも言われる。

宗室

后妃

  • 宣仁斉聖昭憲王后(青松沈氏)
  • 令嬪姜氏
  • 慎嬪金氏 - 桂陽君の母。
  • 恵嬪楊氏- 世子嬪(顕徳王后)の死後、敬恵公主と端宗を任された。
  • 貴人 朴氏
  • 貴人 崔氏
  • 淑儀 趙氏
  • 昭容 洪氏
  • 淑媛 李氏
  • 尚寝 宋氏
  • 司記 車氏

王子

  • 文宗 (1414年 - 1452年)
  • 世祖(首陽大君李) (1417年 - 1468年)
  • 安平大君 李瑢 (1418年 - 1453年)
  • 臨瀛大君 李璆 (1419年 - 1469年)
  • 広平大君(1425年 - 1444年)
  • 錦城大君 李瑜 (1426年 - 1457年)
  • 平原大君 李琳 (1427年 - 1445年)
  • 永膺大君(1434年 - 1467年)
  • 和義君 李瓔
  • 桂陽君 (1427年 - 1464年) - 韓確の娘(仁粋大妃の姉・清州韓氏)と結婚。
  • 義昌君 李 (1428年 - 1460年)
  • 漢南君 李𤥽
  • 密城君 李 (1430年 - 1479年)
  • 寿春君 李
  • 君 李(1431年 - 1463年)
  • 永豊君 李 (1434年 - 1456年) - 恵嬪楊氏の息子
  • 寧海君 李 (1435年 - 1477年)
  • 潭陽君 李 (1439年 - 1450年)

王女

  • 貞昭公主 (1412年 - 1424年)
  • 貞懿公主 (1415年 - 1477年)
  • 貞顕翁主
  • 貞安翁主 (1438年 - 1461年)

その他

肖像・銅像

ファイル:10000 won serieVI obverse.jpeg
大韓民国10,000ウォン紙幣。肖像画として世宗が描かれている。
ファイル:Sejong the Great statue.jpg
光化門近くにある世宗大王像
  • 世宗の肖像画は一切残っていない。現在一般に知られている肖像画は金基昶(1914年 - 2001年)が空想で描いたもので、この絵は1973年に国家標準肖像画に指定された。大韓民国の1万ウォン紙幣にもこの肖像画が採用されている。2005年8月29日に発表された『親日人名辞典』予備リストに金基昶の名前が掲載されたことから、ハングル学会と世宗大王記念事業会などで構成されたハングル団体連合は国家標準肖像画の差し替えを要求した[10]
  • ソウル特別市汝矣島徳寿宮光化門に銅像がある。

世宗にちなむ命名

ハングルを制定し、韓国語の正書法の基礎を確立した業績から、韓国では「国民的英雄」として不動の地位を得ている。そのため国家的プロジェクトや文化・科学技術関係の施設・事業など「国家や民族の威信をかけたここぞという場面」に世宗の名が使われることがある。

韓国政府は2006年12月21日忠清南道に建設する新行政中心複合都市の名称を「世宗」と決定した。2012年から大韓民国企画財政部など49の政府機関が新都市への移転を開始する。

師匠の日

1964年に忠清南道の青少年赤十字中央生徒会が5月26日と制定した師匠の日が、1965年に誕生日の旧暦4月10日グレゴリオ暦換算した5月15日に変更された。1973年に国民教育憲章宣言記念日に統合されたが、1982年に復活し、法定記念日として認定された[11]。1994年にユネスコが制定した世界教師デーとは異なる。

世宗が登場する作品

映画
テレビドラマ

脚注

参考文献

  • 木村誠ほか編 『朝鮮人物事典』 大和書房、1995年ISBN 4479840354 

関連項目

外部リンク

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