下呂温泉
下呂温泉(げろおんせん)は、岐阜県下呂市(旧飛騨国益田郡)にある温泉。林羅山が有馬温泉・草津温泉とともに、日本三名泉に数えた(ただし、当時は下呂ではなく湯島と表記)ことから、「日本三名泉」と称される。
Contents
泉質
- アルカリ性単純温泉
温泉街
下呂駅から飛騨川(益田川)沿いを中心に旅館・ホテルが林立している。道路が狭く、自動車の通行量が多い場所も有り、下駄履き・浴衣がけで散策するにはあまり向かない所もある。
ホテル・旅館
アクセス
鉄道
バス
- <路線バス> 高山濃飛バスセンター—下呂温泉下—下呂バスセンター(濃飛バスが運行)
- 高山濃飛バスセンターにて、新宿、名古屋、岐阜、京都・大阪方面の高速バスと上高地・松本、白川郷・金沢方面の特急バスに接続。
- <特急バス> 下呂バスセンター—下呂温泉—高山濃飛バスセンター—白川郷(濃飛バスが運行)
- <高速バス> 中部国際空港—下呂温泉(直行便) ※平成24年10月19日~12月2日の毎日運行(濃飛バスが運行)
自家用車
歴史
約1000年前の延喜年間から天暦年間の頃に、現在の温泉地の東方にある湯ヶ峰(1,067m)の山頂付近に温泉が湧出したのがはじまりである。泉効があり、当時から湯治客があったと言われる[1]。
1265年(文永2年)に山頂からの湧出は止まったが、現在の温泉地である飛騨川の河原に湧出しているところを発見された。このことは開湯伝説における白鷺伝説(薬師如来が一羽の白鷺に化身し、湧出地を知らせたという伝説)として伝わる。湯口の移動により、湯ヶ峰に安置してあった薬師如来像を村里に移動し、温泉寺とした[1]。室町時代に、五山僧・万里集九が草津・有馬とともに天下三名泉として全国に紹介した[2]。1621年には林羅山が著書の中で草津・有馬とともに名湯として挙げている[1]。中根山の山麓に建つ温泉寺は江戸時代の創建と言われる(1671年)[2]。当時の泉名は「湯島」と言い、その後、湯之島温泉が下呂温泉の別名としても使われた[1]。温泉地は飛騨川の氾濫の度に壊滅的な被害を受けてきたが、その度に復興してきたものの、安政の大洪水で湯脈が破壊されて湧出口を失い、明治時代にわずかに出たものの寂れてしまった[1]。
復活をかけて地元民により大正時代にボーリング採掘が始まり[1]、昭和初期には、高山本線下呂駅開業を見据えて、名古屋の実業家・岩田武七(現・マドラスの創業者)が採掘事業に乗り出し、1931年に湯之島館を開業した[3]。同旅館の建物は国の登録有形文化財になっている[4]。
地名の由来
「下呂」の名の起源は律令制の時代にさかのぼる。「続日本紀」によれば、776年(宝亀2年)下呂温泉の付近には美濃国の菅田駅と飛騨国大野郡の伴有駅(上留駅)があった。[5]しかし、この2つの駅間は遠い上に道も険しかったため、間に駅を新たに置くこととなり、下留駅(しものとまりえき)を置いた。やがて、時代が進むに従い下留(げる)と音読みするようになり、転じて現在の音と表記になった。
菅田駅は、現在の下呂市金山町菅田、伴有駅は下呂市萩原町上呂にあったものである。
名所
浴場と足湯
下呂市街を突っ切るように流れる益田川の河原に、下呂温泉のシンボルとも呼べる噴泉池と言う露天風呂がある。脱衣所・風呂を仕切る壁もなく、混浴であり、入浴は無料となっている。利用にあたっては、2010年(平成22年)2月1日から男女とも水着の着用が義務付けられている[6][7]。
なお、近年下呂温泉全体の温泉噴出量低下にともない、無料露天風呂の維持管理が難しくなっている。
- 位置(温泉噴泉地):北緯35度48分27.2秒東経137度14分27.4秒
観光施設
土産物
- 奥田家下呂膏 - 黄蘗(オウバク/キハダ)、楊梅皮(ヨウバイヒ)などが配合された地元特産の膏薬。奥田又右衛門膏本舗製造。
- 朴葉味噌 - 朴の葉に包まれた「ねぎ味噌」。飛騨牛のひき肉入りのものもある。
- 栃の実せんべい - 栃の実を練りこんだ煎餅。甘みがあり軟らかいものが多い。
- さるぼぼ - 意味は「猿の赤ちゃん」。赤い服を着たのっぺらぼうの人形。
- 漬け物 晩秋から冬にかけて、飛驒特産の「赤かぶら」などを素材とした漬け物類が豊富に出回り、土産物店のほか、地区内のスーパーでも買える。
出典