ワイト島
テンプレート:Infobox England county ワイト島(ワイトとう、the Isle of Wight)はイギリスのイングランドの島であり、島全体で1州をなす。本土(グレートブリテン島)から狭い海峡を挟んだ南方に位置し、対岸はハンプシャー州。
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概要
ワイト島はヴィクトリア朝にリゾート地として大衆化した場所で、自然が美しく、毎年世界でも有名なレガッタが行われるカウズの王立ヨット隊の本拠地として知られている。ここは住民が普段「島」と呼んでいる。15世紀に一時イングランドに支配されたことや詩人アルフレッド・テニスンの自宅やヴィクトリア女王が好んだ避暑地であり、女王が晩年を過ごしたオズボーン・ハウスなど豊富な歴史がある。海運では飛行艇や世界最初のホーヴァークラフトが作られるなどの産業がある。1970年には前年のウッドストックを上回る約60万人が集まった過去最大のロック音楽祭のひとつワイト島音楽祭の拠点になった。ワイト島音楽祭は2002年にメッセージ性のない形で復活し、2006年の呼び物は、コールドプレイ、フー・ファイターズ、プロディジーであった。ワイト島はヨーロッパで恐竜の化石が最も豊富な場所のひとつでもある。
686年に大ブリテン島から約1世紀遅れてブリテン諸島で最後にキリスト教に改宗した。
1997年にラットランドが復活するまでワイト島はイングランド最小の州だったが、今でも下院議員1名に対しイギリスの選挙区で最も多い住民132731人という比率は変わっていない。
ワイト島の州花は、Pyramidal Orchid(ラン科の一種)[1]である。
地形と野生生物
ワイト島はほぼ菱形をしていて、面積は147平方マイル(381km2)である。主に島の西側に当たる島の約半分は、ワイト島特定自然保護区に指定されている。度々「イングランドの縮小版」として引き合いに出されるほどに島の景観は変化に富んでいる。西部地区は田園地帯が中心で、恐らく風景画として島では最適な場所であり、島の全域をニードルズまで走る有名な白亜質の草丘分水嶺が聳える急峻な海岸線がある。島の最高地点は、イギリスでマリリンと呼ばれる種類の山でもあるセントボニフェースダウン(241m/791ft)である。
残りの場所も変化に富んでいて、緩やかな崖と岩棚のある恐らく野生生物にはとにかく重要な一番有名な生息地があり、国際的な保護区域である。ヤー川が島の東端のベンブリッジ港を形成する北東に緩やかに流れる一方で、メディナ川が北のソレント海峡に流れ込んでいる。紛らわしいことに西に流れる川もヤー川と呼んでいて、フレッシュウォーター湾からヤーマスの比較的広い河口までの短い距離を流れている。それぞれを区別する必要があるときは、川の名前に「東」や「西」を付けている。島の南部は、イギリス海峡に面している。
島の野生生物は、グレートブリテン島とは異なる特徴的な生物相をもつ。リスは在来種のキタリスが多く、グレートブリテン島で分布を広げている外来種のハイイロリスがいない[2]。また、野生のシカもいないが、ヤマネ科やコウモリの希少種が発見されている。タテハチョウの一種・グランヴィルヒョウモンモドキ Melitaea cinxia はユーラシア大陸に広く分布するが、イギリスではワイト島の脆い崖周辺だけに分布している。
本土から島に渡るには船が一般的で、リミントンからヤーマス、サウサンプトンから東カウズ、ポーツマスからフィッシュボーンとフェリーが運航されている。車を使わない人は、サウスシー・ライド間を運航するホバークラフトが使えるし、サウサンプトン・西カウズ間やポーツマス・ライドピアヘッド間は、2隻の双胴船が運航している。最近では島と本土を直接結ぶ鉄道もある。島にはベンブリッジとサンダウンに軽飛行機用の空港もある。
島にはアソシエーション・オブ・トレイン・オペレーティング・カンパニーズ(ATOC、イギリス鉄道運行企業連合。イギリスの旅客列車運行会社の代表団体)に属する最小の鉄道会社であるアイランド・ラインの本社があり、同社が島の東部ライドピアヘッド・シャクリン間約8.5マイルのワイト島線の列車(ナショナル・レールに含まれる)を運行している。スモールブルック連絡駅でワイト島線と連絡する蒸気機関車の保存鉄道ワイト島蒸気鉄道もある。
歴史
現在ワイト島を形成している場所の多くは、白亜紀の堆積物で、現在のイングランド南岸地域の多くを形成している入り組んだ川谷であった。当時の沼地と池は、化石の宝庫で、現在ヨーロッパの恐竜の化石が見付かる最も重要な場所のひとつになっている(詳しくはワイト島の恐竜を参照のこと)。
ワイト島は最後の氷河期の終わりのある時期に島になったが、後氷期の隆起で沈降が起こったためにソレント海峡に海水が流れ込み島を形成した。島はローマ人にはVectisとして知られるケルト族の島となり、ローマ帝国のウェスパシアヌスに占領された。ローマ帝国の支配が終わると、アングロ・サクソン族の侵攻が始まる頃ゲルマン系のジュート族が開拓した。VectisがWihtに転化して(ラテン語のvは[w]と発音した)島名の語源になった。
ノルマンディー公ギヨームの侵攻でワイト島卿が設けられた。キャリスブルック修道院とキャリスブルック城の砦が造られた。ワイト島が完全に国王の支配を受けることになるのは、最後のノルマン卿イザベラ・ド・フォルトビュスが死んで1293年にエドワード1世に売られてからである。その後、ヘンリー6世が自ら戴冠したヘンリー・ド・ボーシャンがワイト島の王であった一時期を除いて、ワイト島卿は王の任命制になった。ヘンリーは1445年に22歳で没した。男子の王位継承者はなく、王統は途絶えた。
ヘンリー8世は海軍を発展させ、時に修道院を解体した物を建造物にしてヤーマス、東西カウ、サンダウンで島の防衛にあたれるようにポーツマスを母港とした。当時島の司令官だったリチャード・ワーズレー卿は、1545年のフランスの攻撃を凌ぐことができた。その後、1588年に無敵艦隊を撃破しても、スペインの脅威は残っていて、1597年から1602年にかけてキャリスブルック城の外塁が建造された。内戦の時代、チャールズ1世はワイト島に逃げたが、ロバート・ハモンド知事が同情してくれるものと思っていた。しかし、ハモンドは驚いて、王をキャリスブルック城に監禁した。
ヴィクトリア女王は長年ワイト島のオズボーン・ハウスで夏の休暇を過ごした。その結果、ワイト島はヨーロッパ王室の主要なリゾート地となった。女王の時代の1897年、マルコーニによって世界初の無線局が島の西端にあるニードルズ砲台に開設された。
1904年、未知の病気で島の蜜蜂が死に始め、1907年までに蜜蜂の群れはほとんど一掃されてしまうと、本土に飛び火し、ブリテン諸島で蔓延して行った。ワイト島病と呼ばれたこの奇病は、1921年になってアカリンダニが媒介する病気(アカリンダニ症)と判明した。この病気は蜂が多くの場合受粉に重要な役割を果たすことから多くの国に衝撃を与えた。蜜蜂の輸入を禁じる法律が可決されたが、形の上だけの効果しかなかった。
ワイト島音楽祭が数回行われているが、通常は1968年と1969年に小規模なコンサートが行われたのに続いて1970年に西ワイトのアフトンダウン近くで行われた非常に大きなロック大会のことを指している。1970年のコンサートは、ジミ・ヘンドリックスが公の場で行ったコンサートとしては晩年のものであると同時に約60万人もの[3]観客を集めた(チケットは5万枚しか売れなかったのに)コンサートであり、前年のウッドストックを上回る規模であった。このイベントは2002年に復活し、現在毎年行われると共に島の行政府が協賛して全島でさまざまな分野の音楽イベントが小規模ながらも行われている。
政治
ワイト島は地理上の州であり、行政上の州であり、地区別の議会がないことから(州議会しかない)、非公式ではあるが、事実上一階型の政治機構になっている。この点はイングランドでは珍しく、他の一階型の地域はワイト島とは形式が異なり、州議会がない政治機構となっている。下院議員も1名で、議員一人当たりの人口は、非常に高いものになっている(イングランドの選挙区平均を50%も超えている)。
庶民院(下院)の議席は、昔から保守党と自由民主党が争っている。現議員アンドリュー・ターナーは保守党で、前議員ピーター・ブランド博士は自由民主党であった。
2005年のワイト島議会選挙は、長らく掲げていた「ワイト島第一主義」を取り下げた保守党が地滑り的勝利を収め、自由民主党と無所属議員が院内会派を結成している。
言語と方言
ワイト島の特徴あるアクセントは、伝統的なハンプシャー方言を幾分強めに発音するもので、子音が脱落し母音が強調される点に特色がある。この発音はイングランド南西部と同様のものだが、南東部の河口域英語よりは脱落していない。英語の多くの方言やアクセントと同じように強い島国アクセントは現在では一般的でなく、高齢者には残っているものの、減少が続いている。
島にも島独自の単語がある。Grockel(訪問者)やnipper/nips(若者)などの単語は、今でも良く使われていて、近隣の地域でも耳にする単語である。例えばoverner(島に移住した本土人)やcaulkhead(島で生まれた人)というように島独自の単語も少数ある。他にもっと珍しい単語があり、現在ではmallishag(ケムシ)やnammit(食料)のように主に滑稽さを強調する目的で使われる単語がある。
出典
- Lavers, Jack (1988). The Dictionary of the Isle of Wight Dialect. Dovecote Press. ISBN 0946159637.
経済
この表は単位を100万ポンドとして国立統計局が発表した (pp.240-253)ワイト島の現況を表したものである。
年度 | 合計[1] | 農業[2] | 工業[3] | サービス業[4] |
---|---|---|---|---|
1995 | 831 | 28 | 218 | 585 |
2000 | 1,202 | 27 | 375 | 800 |
2003 | 1,491 | 42 | 288 | 1,161 |
工業と農業
ワイト島最大の産業は観光だが、羊、酪農、農業生産などの農業は、有力な産業である。古くからの農産物は、輸送コストが掛かるために島の外で売るのは難しくなってきているが、島の農民は、特産物の開発に成功している。現在最も成功しているのは、トマトや胡瓜といった特にサラダで使う作物である。ワイト島はイギリスの多くの地域より生産に適した時期が長く、こうしたこともこうした作物への恵みになっている。ニンニクは長年ニューチャーチ村の特産品になっていて、フランスにも輸出されている。ここからニューチャーチ村では毎年ニンニク祭が行われることになり、島最大の年中行事のひとつになっている。気象条件が良いために、サンダウン近くアッヂストーンの葡萄園ではブリテン諸島でも最古の葡萄園のひとつにまでなっている[4]。ラベンダーもそこから精油が取れることで成長している[5]。
帆の布、舟、その他の海洋関係の産業は、長く島との関係があったが、近年は減少傾向が見られる。場所などの規模は減少しているが、GKNグループは後にウエストランド・エアクラフトと名を変えることになる、嘗てはブリティッシュ・ホバークラフト会社を経営していた。ウエストランドが買収した最大の会社は、独立系だったサンダーズ・ロー社である。歴史上最も知られた会社であり、多くの飛行艇と世界最初のホバークラフトを製造したことで知られている。島の主要製造業は、今日風力タービンの羽根を作る大手(ヴェスタ社)のような複合素材産業である。
島のベンブリッジ飛行場は、世界でも有名なブリテン・ノーマン アイランダーやブリテン・ノーマン トライランダーを製造するブリテン・ノーマンの本拠地である。ここは間もなくヨーロッパを結ぶサイラス軽飛行機の飛行場になることになっている。
島が活気付くのは、世界でも有名な国際競技のセーリング、レガッタ、カウズ週間からで、毎年8月に開催され、10万人を超える観光客目当ての催し物が行われる。他にカウズでは隔年で7月と8月に行われるアドミラルズカップとコモドアズカップなどがある。
2005年に北海油田会社がポーチフィールドのサンドヒル2号堀の試掘を開始したが、十分な量が確保できず、この年の10月に中断した。
サービス産業
観光と自然遺産
昔ながらの島の景観は、島の主要な財産であり、長年経済発展を続けてきた。自然遺産を目当てにした休日は、野生生物と地形の両方を含めて、伝統的な海水浴場で過ごす休日に取って代わろうとしている。後者は他にも飛行機で行けるようになったことからイギリスの国内市場では衰退してきている。
観光は今も島で最大の産業である。伝統的な観光施設ばかりでなく、魅力的な施設を作って散策やサイクリングを楽しめるようにもしている。島のほとんどの村や町でホテルやユースホステル、キャンプ場を運営している。書き入れ時の夏を除けば、島は今もイギリス各地からバスツアーで訪れる人が多く、毎年ウォーキングフェスティヴァルを楽しみにしている人がいる。
運輸と通信
本土と島の間で運航しているフェリー会社が3社ある。
- レッドファネル - サウサンプトン・東カウズ間で車と旅客を運んでいる。高速旅客船のみは「レッドジェット」という名前で西カウズから運航している。
- ワイトリンク - ポーツマス・フィッシュボーン(ライド港近く)間とリンミングトン・ヤーマス間で車と旅客を運んでいる。旅客のみはポーツマス港駅とライドピア駅間を「ファストキャット」(土地の人は舟の色からヴォミットコメットと言っている)という名前の舟で運航していて、その舟は双胴船である。
- ホバートラヴェル - サウスシー・ライド間をホバークラフトで旅客運送を行っている。
運航路線拡張の申請が行われていて、カウズ週間には臨時便の運航が行われている(西カウズ・リミングトン間の高速双胴船が知られている)。
電気鉄道はかつてロンドン地下鉄で使われていた車両を利用して、ブレーディングとサンダウンを経由してライドピアヘッド・シャクリン間で運行している。
カーフェリーでフィッシュボーンに降りた観光客は、「島の道路は違います。運転には要注意。」という挨拶文を目にする。島の道路が違うという理由は、州議会が余り道路の維持に予算を使わないことに対する島の住民による冗談である。それでも交通量を抑え静かな道路環境とゆったりとした速度で通行させるために旅行客は届出の義務があり、島は今も慌ただしい本土からの旅行者には魅力的な土地であることがその理由のひとつである。
一般向けの小規模の飛行場が2つある。1つはサンダウンのワイト島空港[6]、もう1つはベンブリッジ空港[7]である。この2つは夏は日帰り旅行客でごった返している。
島の電話交換機は全てブロードバンドが可能で、さらにカウズやニューポートのような都市部はケーブルが敷かれている。アレトンのようにブロードバンドになっていない地区もある。
ワイト島カウンティプレス[8]は島では大手の新聞で、毎週金曜日か祝日の前日に発行している。地域向けのラジオ局ワイト島ラジオは[9]、FM放送局で(インターネットでも聴ける)、ソレントTVが[10]島から地域向けのテレビ放送を行っている。
刑務所
人口の密集したイングランド南部に近いことでワイト島には刑務所が3つ(アルバニ刑務所、キャンプヒル刑務所、カウズに向かうニューポート郊外のパークハースト刑務所)ある。アルバニ刑務所とパークハースト刑務所は、1990年代に格下げされるまでイギリスではA段階の刑務所であった。パークハースト刑務所が格下げされたのは、大脱走事件がきっかけで、囚人3人が(服役中の囚人では最も危険な殺人犯で知られていた)1995年1月3日に脱獄し、4日後に再逮捕された事件である。パークハースト刑務所は特にブリテン諸島で最も堅固な刑務所のひとつとして悪名高く、ヨークシャーの切り裂き魔ピーター・サトクリフや双子のクレイなどの有名な囚人を「住まわせていた」。
キャンプヒル刑務所はアルバニ刑務所とパークハースト刑務所の西1マイル(1.6km)(パークハーストの森の隅)にある。元々は南と東に向かって豪華な将校住宅の(階級によってその程度は違う)ある林道の小住宅を兼ねた兵舎であった。少年刑務所になり、その後重罪でない囚人を収監する刑務所になり、現在は個人の所有になっているとはいえ、周辺の住宅に今も制約を課している。綺麗な水が刑務所の中から今も供給されていて、住人は水道局に下水道料金だけ払えば良い。住宅地に入るには、門と私道の2つを通ることになる。この2つは公共物ではないことを示すために毎年1日間閉鎖されている。
観光名所
- アラム湾
- アプルドゥルコンビ宮殿 イングランドの文化遺産
- ブラックギャング渓谷
- キャリスブルック城 イングランドの文化遺産
- 恐竜島 Museum
- ゴールデンヒルフォート Country Park
- フォートヴィクトリア Country Park
- ワイト島蒸気鉄道 Heritage Railway
- オズボーン・ハウス イングランドの文化遺産
- ザ・ニードル ナショナル・トラスト
- ロビンヒル
- ヤーマス城 イングランドの文化遺産
- クォーアアビー
小説や音楽に出てくるワイト島
- ビートルズの「ホエン・アイム・シックスティー・フォー(原題:When I'm Sixty-Four)」(ポール・マッカートニー作)はワイト島の夏の貸し別荘を描いている。
- ビートルズの曲「涙の乗車券(原題:Ticket To Ride)」は、ワイト島北部のフェリー港「ライド港への乗車券」(Ticket to Ryde)の洒落である。
- ミッシェル・デルペッシュの曲、「ワイト・イズ・ワイト」は、1969年の第2回ワイト島音楽祭に捧げられたものである。
- フィクション化された名前でマクスウェル・グレイの1886年の小説『ディーンメイトランドの静寂』に[11]現れている。
- ジュリアン・バーンズの小説『イングランド、イングランド』に現れてくる。
- ジョン・ウィンダムの小説『トリフィド時代』とサイモン・クラークが書いた続編『トリフィドの夜』にも現れている。
- ロバート・ペニックはワイト島を舞台に「Fallen」などの探偵小説を書いている。
- ラジオ番組ネビュラスで、ネビュラス教授がワイト島を左側に移動させようとして偶然崩壊させてしまっている。
- ゲームspirit of the stonesでは護符がワイト島に隠されている。コンピューターゲームにもワイト島が場面として使われている。
- テレビドラマシリーズ『ドクター・フー』の「父の日」でドクターが「過去は別の国。1987年はまさにワイト島」と言っている。