ロベール家

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ロベール家(Robertiens)は、西フランク王国カロリング朝後期の9世紀末から三度王位に就き、987年フランスカペー朝を開いた家系。以後のヴァロワ朝ブルボン朝にも血脈を繋いでいるので、フランス革命期とナポレオン時代とを除いたルイ・フィリップまで、千年近くフランスの王権を握った。

歴史

現在のベルギー中東部のハスペンゴウ(エスベイ、Hesbaye)に発する豪族で、領主や聖職者を勤めた記録が、7世紀から残る。8世紀後半にはドイツヴォルムスに拠点を構えたという[1]

歴史の表舞台に顔を出すのは、ロベール豪胆公である。仕えるフランク王国ヴェルダン条約で三つに割れ、彼は西フランク王国へ移ってシャルル2世から、852年にトゥールのマルムーティエ修道院(Abbaye de Marmoutier)長を、853年にロワール川河口域の巡察使を命じられた。セーヌ川ロワール川の川口から繰り返し侵入するノルマン人に悩んでいた時期で、豪胆公は奮闘を続けた後、866年に戦死した。

長男のウードは、885年 - 886年にパリを包囲したノルマン人を撃退して888年西フランクの王に推され、898年に没した。この頃から王位は、カロリング家の世襲でなく、有力諸侯や聖職者の選挙で決めるようになっていた[2]

ウードの死後、王位はカロリング家のシャルル3世に戻ったが、ウードの弟のロベール1世は、反乱を主導してシャルルを逐い、922年王位に推された。ロベール1世が翌923年、廃位に応じぬシャルルとの戦いに死ぬと、娘エマの夫ラウールが王になり、936年に没した。

エマの弟のユーグ大公は、ロワール川とセーヌ川に挟まれる地域のほとんどを持つ大領主となり、943年フランス公の位を得た。936年、カロリング家のルイ4世イングランドからの帰国は歓迎したが、帰国後のルイ4世とは、954年のルイの没まで、争い続けた。ルイ4世の後を彼の子のロテールが継ぐのには賛成し、若い王を棚に上げて西フランク王国の実権を握り、自分の息子ユーグ・カペーカペー朝を開く道を開いた。

また、前述のヴォルムスに拠点を構えたことで、ドイツ貴族のバーベンベルク家もロベール家の支流である。

系譜

右に寄る毎に1世代下る。

脚注

  1. 佐藤賢一 『カペー朝』 講談社現代新書(2009)、p.17
  2. 柴田三千雄 『フランス史10講』 岩波新書(2006)、p.17

参考文献

関連項目

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