ロジェ・デュコ
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ピエール・ロジェ・デュコ(仏: Pierre Roger Ducos、1747年7月25日 - 1816年3月16日)は、フランスの第一共和政から第一帝政の政治家。国民公会では議員に選出され、総裁政府では5人の総裁のひとり(ラ・ルヴェリエールの後任)となった。
生涯
1747年、アキテーヌのモンフォール=アン=シャロッスで生まれる。ランド県で選出され国民公会の議員になる。議会内の派閥では平原派に属した。1793年、ルイ16世の処遇を決定するための投票が行われ、デュコは執行猶予なしの死刑に賛成票を投じたが、その後も国民公会内で目立たなかった。
1795年、国民公会は解散され、代わりに設立した上院にあたる五百人会で、デュコは議員に当選した。彼はフリュクティドール18日のクーデターを生き抜いて治安判事になり、さらにプレリアール30日のクーデターの後、味方を増やしたい総裁バラスの思惑で総裁に指名された。
1799年11月9日、ブリュメール18日のクーデターが起こった。総裁に指名されてからわずか半年後の出来事である。このクーデターで総裁政府が倒され、統領政府が成立した。1か月間臨時統領を務めたあと、ナポレオン・ボナパルトの第一統領就任に賛成した。この功績で護憲元老院の副議長に就任した。
その後、デュコは伯爵に叙されたが、1814年にナポレオンを裏切り、その廃位に賛成した。復古王政で引き続き政治家を務めたがったが、ルイ16世の処刑に賛成したため大逆罪で追放され、1816年に交通事故でウルムで亡くなった。
脚注
典拠レコード: