レオニード・ブレジネフ
レオニード・イリイチ・ブレジネフ(ロシア語: Леонид Ильич Брежнев、ラテン文字表記の例:Leonid Il'ich Brezhnev、1907年1月1日 - 1982年11月10日)は、ソビエト連邦の政治家。同国の第5代最高指導者。1964年のニキータ・フルシチョフの失脚により、ソビエト連邦共産党中央委員会第一書記(1966年、書記長に改称)に就任して最高指導者となり、閣僚会議議長(首相)のアレクセイ・コスイギン、最高会議幹部会議長(国家元首)のニコライ・ポドゴルヌイと集団指導体制を敷いた。1977年から、死去する1982年までの間は最高会議幹部会議長を兼任し、ソ連邦元帥にもなっている。
称号はブルガリア人民共和国英雄称号を3回、ドイツ民主共和国英雄の称号を3回、モンゴル人民共和国英雄を3回、同国労働英雄を3回、チェコスロバキア社会主義共和国英雄を3回授与されている。
また、国歌を編集したことでも知られる。
Contents
生い立ちから権力の掌握まで
ブレジネフは1906年12月19日、ウクライナのカメンスコエ(現在のカーミヤンシケ市)で生まれる。父イリヤは、祖父の代以来の地元の金属工場の労働者であった。彼はウクライナに於ける少数民族のロシア人だったが、生涯ウクライナ訛りと風習を保った。1921年に家族とともにクルスクへ転居。15歳で地元の製鉄所に勤務し、1923年には共産党青年組織であるコムソモール(Komsomol, 正式名称は全ソ連邦レーニン共産主義青年同盟 Vsesoyuznyi leninskii kommunisticheskii soyuz molodyozhi, VLKSMと略記)に加わった。共産党はコムソモールの若い労働者を大学で学ばせ指導者および専門家に育て上げるという方針を採り、彼はその方針下で育った「60年代ソ連指導者の典型」であった。ロシア革命後の多くの労働者階級青年のように彼は1924年から27年までクルスクの職業技術学校に学び初級農業技師となって土壌改良業務に就く。1930年にカメンスコエに戻り、翌年、共産党に入党。その後彼はドニエプロジェルジンスク冶金大学で冶金学を学び、1935年に卒業して東ウクライナの製鉄所技師になった。
1935年には赤軍(後のソ連地上軍)に入隊、戦車訓練校を修了すると戦車部隊の政治委員となった。1936年末にはドニエプロジェルジンスク冶金大学の校長になった。1937年にウクライナ共産党幹部、モルダビア(現モルドバ)党委員会第一書記、1939年にはドニエプロペトロフスク州党委員会書記になり、防衛産業の組織を行った。
彼はロシア革命前に成人していなかったソ連共産党員の最初の世代であった。また、1924年のレーニン死後の共産党の主導権争いには若すぎたため参加できなかった。ブレジネフが入党したとき、スターリンは絶対的な指導者であり、ブレジネフを含む多くの若い共産党員が純粋なスターリン主義者として成長した。スターリンの大粛清をまぬがれた者達は党および州の重要職に就くこととなった。
1941年6月、ドイツ軍はバルバロッサ作戦でソ連に侵入した。ドニエプロペトロフスクは8月26日にドイツ軍の手に落ちたが、ブレジネフは市の産業を待避させるために努力した。彼は戦争の始まりと同時に軍の政治委員として働いた。赤軍では専門の士官と政治委員による二重システムによって部隊が運用された。このシステムは非能率的であり、職業軍人にとっては不満の募るものであった。10月にブレジネフは旅団人民委員の階級と同時に南部方面軍政治指導部次長に就任した。
1942年にはウクライナが完全に失われた。ブレジネフはザカフカス正面の政治指導部次長としてカフカスに派遣された。1943年4月に彼は第18軍の政治部長になった。同年末に赤軍は主導権を回復し、第18軍は第1ウクライナ正面軍の一部となりウクライナを通り西方に進撃した。正面軍の上級政治委員は後にブレジネフの重要な後援者になるニキータ・フルシチョフだった。ヨーロッパ戦の終了時、ブレジネフは第四ウクライナ方面軍政治指導部部長としてプラハに入った。
1946年8月、ブレジネフは少将の階級で赤軍を去った。彼は軍司令官ではなく政治委員として大祖国戦争(独ソ戦)を戦った。ウクライナ共産党のザポロジエ州委員会で再建計画に携わった後、彼はドニエプロペトロフスク州委員会の第一書記になった。1950年にはソ連最高会議代議員となり、その年の終わりにモルダビア共産党中央委員会第一書記に就任した。1952年には共産党中央委員会および最高会議幹部会のメンバーになった。
ブレジネフはドニエプロペトロフスク州やモルダビア、後のカザフスタンなどの任地での人脈を後年の権力強化に大いに利用した。「ドニエプロペトロフスク・マフィア」、「モルダビア・マフィア」等と称される人々の中には、コンスタンティン・チェルネンコ、ディンムハメッド・クナーエフ、ニコライ・チーホノフ等も含まれている。
ブレジネフとフルシチョフ
スターリンが1953年3月に死去し、党幹部会が廃止されより小さな政治局が再構成された。ブレジネフは政治局のメンバーにならなかったが、その代りに中将の階級と共にソビエト軍政治総局長第一代理に任命された。これは恐らく彼の後援者フルシチョフによるものだった。1954年にカザフ・ソビエト社会主義共和国共産党中央委員会第二書記となり、1955年にはカザフ共産党中央委員会第一書記として、カザフスタンの開拓事業を指導した。
1956年2月、ブレジネフはモスクワへ呼び戻され共産党中央委員会政治局員候補兼書記として防衛産業、宇宙計画、重工業および首都建設指揮の任務を与えられた。彼はフルシチョフの側近となり、1957年6月にはヴャチェスラフ・モロトフ率いるスターリンの古老グループ、ゲオルギー・マレンコフ、ラーザリ・カガノーヴィチらとフルシチョフとの党の指導権争いに於いてフルシチョフを支持した。古老グループを排除後、ブレジネフは政治局の正式メンバーとなった。
1959年にブレジネフはソ連邦最高会議幹部会副議長となり、1960年5月には議長に就任、名目上の国家元首になった。実際の権力は党第一書記のフルシチョフのものであったが、議長のポストは外国への旅行を可能にした。彼は高価な西側の衣服や自動車に対する興味を深め、それは後に彼に対する悪評となった。
1962年までフルシチョフの党指導者としての地位は安泰だった。しかし彼が年老いると共に、その指導力の低下が他の指導陣の信頼を弱め、地位も不安定なものとなった。さらにソ連の経済問題の増加がフルシチョフのリーダーシップに対する圧力を増加させた。表面上ブレジネフはフルシチョフに忠実であったが、ニコライ・イグナトフやアレクサンドル・シェレーピンの働きかけで1963年にはフルシチョフの追放計画に加担することとなった。この年にはまたフルシチョフの後継者とされていたが、酒により健康を害したフロル・コズロフの後任(一時短期間ミハイル・スースロフが担当)として第二書記も兼ねたが、翌1964年7月に最高会議幹部会議長をフルシチョフと親しかったアナスタス・ミコヤンに譲らされ、第二書記に専念する事になる。その3か月後の10月13日および14日に開かれた臨時の中央委員会総会でフルシチョフは年金生活に入るために「自発的に」党中央委員会第一書記と閣僚会議議長(首相)の地位を辞任した。ブレジネフは党第一書記となり、アレクセイ・コスイギンは首相になった。ミコヤンは最高会議幹部会議長にしばらくはとどまったが、翌1965年12月に事実上失脚(政治局局員も1966年4月に解任される)し、後任にニコライ・ポドゴルヌイが就任する。
共産党指導者
ブレジネフはフルシチョフのスターリン個人崇拝批判、スターリンの大粛清による犠牲者の名誉回復およびソ連の知的・文化的政策の慎重な自由化、集団指導体制を支援した。しかし自らが指導者に就任すると直ちにこのプロセスを逆に行い始めた。対ドイツ戦勝20周年を記念する1965年5月のスピーチでブレジネフは初めてスターリンに言及した。1966年4月に彼は第一書記をスターリンの肩書きであった書記長へと改称した。1966年の作家ユーリ・ダニエルおよびアンドレイ・シニャーフスキーの裁判は、抑圧的な文化的政策への回帰の象徴だった。ユーリ・アンドロポフ指揮下のKGB(ソ連国家保安委員会)は、1930年代と40年代の粛清こそ行わなかったが、スターリンのもとで享受した力の多くを回復した。また、政治局の8割以上を自らと同じエンジニア出身者を選んでテクノクラシーを敷いた[1]。
プラハの春
ブレジネフ政権最初の危機は1968年のチェコスロバキア書記長アレクサンデル・ドゥプチェクによる改革によってもたらされた。ドゥプチェクは「人間の顔をした社会主義」のスローガンのもと、言論の自由化など「上からの改革」を推し進めた。それに呼応して様々な改革運動が展開していった。これは「プラハの春」と呼ばれている(音楽祭の名に由来する)。チェコスロバキアの改革運動が他の社会主義国にも波及し、ソ連の共産党体制の基盤を掘り崩すとの惧れ、さらにはソ連ブロック全体を揺るがす危険性からこれを座視することができず、ブレジネフは7月にドゥプチェクを「修正主義者」と批判、さらに8月20日、ワルシャワ条約機構軍を投入し、プラハの春は終わりを告げた。一方、中国共産党はドゥプチェクとソ連指導部の双方を修正主義と非難していた。
「『社会主義を保護する』ためには衛星国の国内問題にも関与せざるを得ない」とする主張は、フルシチョフが1956年にハンガリーで行ったようにソ連の既存の政策の再声明に過ぎなかったが、これは「ブレジネフ・ドクトリン(制限主権論)」として知られるようになった。
中国との紛争
同じく共産党による一党独裁国家である中華人民共和国とは、1960年代初めに対立が始まり悪化を続けた。西側とソ連の平和共存路線に中国が反修正主義を掲げて猛反発したためである。ヨシフ・スターリン時代のソ連は中国と中ソ友好同盟相互援助条約で軍事同盟を結び、ソ連は中国に対して多額の経済援助や技術援助を行っていた。
しかし、スターリン批判を行ったフルシチョフに代替わりすると、次第に挑戦的な態度を取り始める。さらに毛沢東は「銃口から政権は生まれる」と主張し、ソ連の掲げるマルクス・レーニン主義を独自に解釈した毛沢東思想を唱え始め、各国の共産党でソ連派と中国派が対立した。チベットのダライ・ラマ14世の亡命をインドが受け入れたことなどから、中国がパキスタンを支援してインドを敵視すると、ソ連はインドを支援し、ダライ・ラマもソ連を訪問している。1964年に周恩来がモスクワを訪れたものの、関係の改善には至らず、1969年にはウスリー川のダマンスキー島(中国名:珍宝島)において両国の軍隊による武力衝突が発生(中ソ国境紛争)。だが第一次インドシナ戦争からベトナム戦争まで両国とも、北ベトナム側を支持した。しかしベトナムの南北統一後は両国の対応が分かれる。ソ連の支援するベトナム社会主義共和国はカンボジア・ベトナム戦争でクメール・ルージュの民主カンプチアに侵攻してカンプチア人民共和国を樹立。カンプチア王国民族連合政府の時代からカンボジアを支援してきた中国は懲罰として中越戦争を行った。国交正常化で接近した中国と米国はノロドム・シハヌーク元国王とポル・ポトらによる三派連合政府を援助し、ソ連はベトナムとヘン・サムリン政権を支持する構図であった。同様にオガデン戦争やアンゴラ内戦、アフガニスタン紛争なども米中とソ連の代理戦争の様相を呈した。
アメリカとの関係
1971年の国際連合でのアルバニア決議にはソ連も賛成して中国が国際社会から承認を得るも、1972年2月のニクソン大統領の中国訪問に始まった中国とアメリカの関係改善を受け、ソ連に対する米中同盟を防ぐためにブレジネフはアメリカとの交渉の新ラウンドを開いた。同年5月にリチャード・ニクソン大統領がモスクワを訪問、米ソ両首脳は戦略兵器制限条約 (SALT I) に調印し、「デタント」(緊張緩和)の始まりとなった。1973年1月のパリ和平協定はベトナム戦争の公式な終了となり、米ソ関係の障害は取り除かれた。ブレジネフは5月に西ドイツを訪問し、6月にはアメリカへの公式訪問を行った。
「デタント」時代におけるブレジネフの功績は1975年7月のヘルシンキにおける全欧安全保障協力会議 (CSCE) でヤルタ体制を認めさせたことであった。引き替えにソ連は「参加国は思想、良心、宗教、信仰の自由を含む人権および基本的自由を人種、性別、言語あるいは宗教に関する区別無く尊重する」ことに合意した。しかし、これらの成果は国民からは尊敬されなかった。また、アメリカ国内ではデタント・プロセスを「緊張の弛緩」に関する楽観的なレトリックだとして政治的な反対が募り、ソ連とその衛星国での国内自由化とは一致しなかった。第三次中東戦争で高まったソ連国内のユダヤ人迫害からの移住問題[2][3][4]は米ソ関係の障害となり、1974年11月、ウラジオストクにてブレジネフとジェラルド・R・フォードが会談を行ったが、これらの問題の解決には至らなかった。 1970年代のソ連とアメリカは、政治的、戦略的パワーのピークに達した。SALT I 条約は両超大国間の核兵器バランスを確立した。ヘルシンキ条約は東ヨーロッパに於けるソ連の覇権を合法と認めた。また、アメリカのベトナム戦争での敗北およびウォーターゲート事件はアメリカの影響力低下を招き、ソ連海軍はセルゲイ・ゴルシコフのもと、積極的に海洋進出して初めて世界的な力を持つことになり、ソ連は南イエメンのアデン湾、ベトナムのカムラン湾、シリアのタルトゥース、イラクのウンム・カスルなどに不凍港を得て中東およびアフリカやインド洋に進出し、1971年の第三次印パ戦争ではインドを支援して軍艦まで派遣し、1974年の第四次中東戦争でもアラブ諸国側を物資支援して実戦部隊の展開準備を行い、キューバを代理として1975年のアンゴラ内戦および1977年から1978年のエチオピア・ソマリア戦争への軍事的介入にも成功した。
米ソ関係は、核拡散防止条約が締結されたことに象徴されたときは良好であった。リンドン・ジョンソンのモスクワ訪問が予定されていたが、チェコスロバキアへの軍事介入に対する抗議として訪問は中止された。しかし、アメリカおよびNATO諸国は、口頭での非難以外に具体的な行動を採らなかった。このことは、ヨーロッパにおけるソ連の勢力圏には干渉しないという暗黙のルールが承認されていることを意味した。
日本との関係
1972年に田中角栄首相と発表した日ソ共同声明では、北方領土問題で四島の問題を含めることを認め、ヤクートの天然ガス開発やチュメニ油田、サハリン大陸棚の開発など共同プロジェクトによる日本との経済協力を打ち出した。
権力の強化
その間にブレジネフはソ連内での自らの地位を強化した。1977年6月、ポドゴルヌイに引退を強要し、ソ連邦最高会議幹部会議長の地位を党書記長と同等にして議長職に復帰、名実ともにソ連邦最高指導者となった。コスイギンは1980年の死の直前まで首相として留まったものの、ブレジネフはコスイギンの担当していた経済政策分野に容喙するなど、その影響力を拡大していった。
1974年3月には中将から大将を経ずに上級大将に昇進していたが、さらに1976年5月にはソ連邦元帥となった。それはスターリン時代以来初の「政治的な元帥」だった。ブレジネフは実際に軍の指揮経験がなく、職業軍人の間で彼の元帥就任に対して不満が募ったが、彼らの権力と名声はブレジネフ政権下での持続的な支援として保証された。
また国内外からの数多くの勲章授与など、ブレジネフ自身の権威付けも強められた。ソ連共産党の党員証を作り直し、党員第1号たるレーニンの党員証にサインするといった「演出」もおこなわれた。
政権の危機・経済の停滞
国際社会におけるソ連の力とブレジネフの国内的な権力は、1970年代後半から始まったソ連経済の停滞に起因して衰退し始めた。
ソ連経済が停滞に陥った原因は、二つの根本的な要因があった。先ず、ソ連経済はスターリンの工業化政策にもかかわらず、依然として農業に極度に依存していたことが挙げられる。小麦や大麦やライ麦の生産量は世界一だったものの、1970年代前半の大旱魃により国際市場で大量の穀物買い付けを行って大穀物強盗と呼ばれた[5][6]。スターリンが強制的に進めた農業集産化は独立した自営農民を無くしていた。
加えて1930年代および第二次世界大戦後にスターリンによって復興、構築されたソ連の産業経済は国家によって管理され市場の反応に応えられず、技術革新が出来なかったことも影響した。大粛清は組織革新のための人的資源を多く失わせることとなり、その後を継いだ党官僚、国家や産業における官僚もジェロントクラート化して世代交代が進まなかった。ブレジネフ時代のソ連経済はオイルショックでは世界最大の産油国[7]として西側より繁栄した側面はあるものの[8][9]、天然資源に依存して外貨の殆どを西側からのハイテク機器や穀物、奢侈品などの輸入に浪費して重工業が中心の産業構造の転換は遅れた。
この二つの要因は互いに組み合わさって悪化した。冷戦で対抗し得る軍事力を維持するための軍備や宇宙開発計画のような国威発揚プロジェクトやパイプライン、コンビナートの建設などの重厚長大産業には莫大な支出が投じられ、国内で不足した食料も市場価格より高く輸入された皺寄せから、生活水準向上に向けられた投資額は減少した。この問題は後のゴルバチョフ政権によるコンベルシアの政策化の原因となった。また、アパラチキやノーメンクラトゥーラが需要者となった「非公式経済(闇市場)」には限定された消費財やサービスが優先的に供給され、ソ連構成初期には見られなかった大規模な汚職を促すことにもなった。
何よりブレジネフ自身が、イギリス製のロールス・ロイス[10]、西ドイツ製のメルセデス・ベンツ[11]、フランス製のシトロエン[12]、米国製のリンカーン・コンチネンタル[13]など西側の高級な外車や洋服を好む趣味がある汚職体質の持ち主で、身内にもスキャンダルが絶えなかった。娘ガリーナの交友関係や派手な私生活が噂された他、息子のユーリーも横領の疑いで取り調べを受けている。こうした一族をめぐる醜聞は側近でイデオロギー担当書記のミハイル・スースロフが揉み消すことで明るみにならなかったが彼が死ぬと隠し様が無く、スースロフ後継のイデオロギー担当(第二書記)で国家保安委員会 (KGB) 議長としてブレジネフに仕えていたユーリ・アンドロポフさえもこれには看過出来ず、ブレジネフの死後に彼が最高指導者となるとブレジネフの親族や遺族も汚職容疑で逮捕・摘発した。
アフガニスタン侵攻
ブレジネフの支配は1976年12月の70歳の誕生日でピークに達した。スターリンの支配とは異なりブレジネフ支配は尊敬も恐れも集めることが出来なかった。このことにブレジネフ自身がどれくらい気づいていたかは、彼が1979年6月にジミー・カーターと調印したSALT II 条約のような国際的首脳会談の運営に夢中になり、国内問題を無視したため不明確である。国内問題は彼の部下、農業担当書記のミハイル・ゴルバチョフのように根本的な改革が必要だとますます確信するようになった者達に残された。しかしながらゴルバチョフはブレジネフに対する指導権で策略を講じなかった。ブレジネフは彼の健康が低下すると共に指導力も弱まっていった。
ブレジネフの後継者に対する最終および致命的な遺産は、アフガニスタンに干渉する1979年12月の決定だった。アフガンへの介入はデタントの終焉を招き、アメリカが課した穀物取引停止などの経済制裁や1986年のサウジアラビアの石油増産による原油価格下落[14]と同時にソ連の経済問題を急速に悪化させた。アメリカはカーター政権下で再軍備プログラムを開始し、後任のロナルド・レーガンの下で加速された。アメリカとの軍拡競争における大きな経済負担はソ連の経済状態をより一層の悪化に導き、後のゴルバチョフによるペレストロイカ更にはソ連崩壊に結びついた。加えて侵攻行為は国際的非難を招き、1980年に挙行されたモスクワオリンピックでは日本を含めた西側を中心とした国々からボイコットされる結果となった。
死去
1982年1月、ブレジネフをかばい続けた実力者スースロフが死去した。3月にブレジネフは心臓発作を起こし、健康状態の悪化の中、あくまで権力維持をはかった。しかし、同年11月10日の午前8時30分、モスクワで心臓発作によって死去した。赤の広場の元勲墓に埋葬される際にはブレジネフの亡骸が見えるように棺の蓋が開いた状態で運ばれ、ソ連国歌が流れる中、関係者によって埋葬された。
評価
- ブレジネフはスターリンに次ぐ長期間ソ連を統治した。彼は基本的経済問題の無視とソ連の政治体制の衰退を黙認し、「沈滞の時代」を長引かせたことで非難されている。彼の貪欲な虚栄心はさらに非難された。ただ経済問題は、スターリンから受け継いだ社会主義体制が本質的に保有するものでもあった。社会体制改良の試みは、彼よりはるかに若く最終的な後継者であるミハイル・ゴルバチョフに引き継がれた。しかし、ソ連崩壊後の現在のロシアではブレジネフ時代を安定した福祉と生活が保証された時代と評価する向きも少なくない[15]。
- その一方の功績として、ソ連が彼の指導の下、前例のない国力と国威を得たことが挙げられる。彼は外交における熟練したネゴシエーターでもあった。ゴルバチョフへの評価がロシア国内で低いのは、ブレジネフ時代の国威を貶めたとされるのが一因である。
- 晩年のブレジネフについては、「頭が完全に老化し、ろれつが回らず、体はむくみ、足もふらつきながら、服のいたるところに勲章を飾り付けて、権力だけは手放さない人物」というイメージが定着した。現在のロシアのテレビ番組でも、そのようなモノマネが披露され、笑いを誘うネタとなっている。1980年ころに流行ったジョーク(いわゆるアネクドート)に、以下のようなものがある。
表彰
死去時の追悼文(「プラウダ」1982年11月12日号掲載)によれば、以下などを授与されたという。
- ソ連邦英雄の称号4回、社会主義労働英雄の称号、勝利勲章、レーニン勲章8個、10月革命勲章2個、赤旗勲章2個、ボグダン・フメリニツキー2級勲章、祖国戦争1級勲章、赤星勲章、ソ連栄誉剣とメダル、カール・マルクス記念金メダル、レーニン賞、
- ブルガリア人民共和国英雄の称号を3回、ドイツ民主共和国英雄の称号を3回、モンゴル人民共和国英雄の称号を3回、同国労働英雄の称号を3回、チェコスロバキア社会主義共和国英雄の称号を3回、キューバ共和国英雄、ベトナム社会主義共和国労働英雄の称号、ポーランド人民共和国、ハンガリー人民共和国、ルーマニア社会主義共和国、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国、朝鮮民主主義人民共和国、ラオス、その他の国の最高の賞
- 国際レーニン賞とディミトロフ賞、フレデリク・ジョリオ=キュリー記念「平和金メダル」
顕彰
- タタールスタン自治共和国にある自動車工業都市ナーベレジヌイェ・チェルヌイは、ブレジネフの死から1988年まで「ブレジネフ市」に改称されていた。
- アルクティカ級砕氷船1番船「アルクティカ」は、ブレジネフの死から1988年まで「レオニード・ブレジネフ」の船名で運用されていた。
- 1982年に起工された空母「アドミラル・クズネツォフ」は、建造中に「レオニード・ブレジネフ」に改名されていた時期があった。
著作邦訳
- 『ソ連共産党第24回大会にたいする党中央委員会の活動報告 L.I.ブレジネフ同志の報告』アジア書房, 1971.
- 『緊張緩和への道 ソ連の政策と国際情勢に関するブレジネフ演説集』新時代社, 1973.
- 『社会主義と友情の道 ウランバートルにおける演説(1974・11・26)』アジア書房, 1974.12
- 『ブレジネフ選集 平和と社会進歩のために 演説論文集』1-2 ブレジネフ選集翻訳委員会訳 プログレス出版所, 1978 *『マーラヤ・ゼムリヤ ブレジネフ回想録』加藤弘作訳. 国際ビジネス情報センター, 1978.12
- 『処女地 ブレジネフ回想録第三部』加藤弘作訳. かとうしんくたんく, 1979.7.
- 『わたしの平和論』川内光訳. 国際文化出版社, 1979.12.
- 『ソ連邦の国内政策』浜野道博訳. カトー・シンクタンク, 1980.11.
- 『回想 ブレジネフ回想録第4部』泉清訳. カトー・シンクタンク, 1982.12.
関連書籍
- 『科学的共産主義の実践 ブレジネフ=コスイギン体制』上巻 刀江書院編集部 編訳. 刀江書院, 1966.
- 『ブレジネフ体制のソ連 テクノクラート政治の権力構造』中沢孝之 サイマル出版会, 1975.
- 『平和・民主主義・社会主義とともに ブレジネフ小伝』ソ連邦共産党中央委員会附属マルクス・レーニン主義研究所編 近江谷左馬之介日本語訳監修. 現代の世界社, 1977.11.
- 『ブレジネフ』ジョン・ドーンバーグ 木村明生監訳. 朝日イブニングニュース社, 1978.5.
- 『「ブレジネフ時代」論』木村明生 教育社 1978.11. 入門新書. 時事問題解説
- 『L.I.ブレジネフ 人生のページから』ソ連邦科学アカデミー ノーボスチ通信社訳. 月光荘, 1979.12.
- 『ブレジネフのクレムリン』古本昭三 教育社, 1979.8. 入門新書. 時事問題解説
- 『ブレジネフの秘密 ソ連集団独裁制の身上調査書』A.アフトルハーノフ 鈴木博信訳 サイマル出版会, 1981.11.
- 『ブレジネフ時代の終り 曲り角のソヴィエト』大蔵雄之助 ティビーエス・ブリタニカ, 1982.11.
- 『赤の広場 ブレジネフ最後の賭け』E.トーポリ,F.ニェズナンスキイ 原卓也訳 中央公論社, 1983.4.
- 『モスクワ発至急電 ブレジネフの死は暗殺だった』山田日出夫 山手書房新社, 1990.7.
出典
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- ↑ Communiqué: Investigation regarding communist state officers who publicly incited hatred towards people of different nationality. Institute of National Remembrance, Warsaw. Publication on Polish site of IPN: July 25th, 2007.
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- ↑ Trager, James (1975). The Great Grain Robbery. New York: Ballantine, 233. ISBN 0345241509.
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- ↑ Brezhnev and his Citroën SM
- ↑ “President Richard Nixon presents a car to Soviet leader Leonid Brezhnev at Camp David during his visit to United States”. CriticalPast. . 2018閲覧.
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- ↑ "Советская экономика в эпоху Леонида Брежнева" [The Soviet economy in the era of Leonid Brezhnev]. RIAノーボスチ. 8 November 2010.
関連項目
外部リンク
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- ソビエト連邦共産党中央委員会書記長
- ソビエト連邦の国家元首
- 第3回ソビエト連邦最高会議の代議員
- 第4回ソビエト連邦最高会議の代議員
- 第5回ソビエト連邦最高会議の代議員
- 第6回ソビエト連邦最高会議の代議員
- 第7回ソビエト連邦最高会議の代議員
- 第8回ソビエト連邦最高会議の代議員
- 第9回ソビエト連邦最高会議の代議員
- 第10回ソビエト連邦最高会議の代議員
- ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国最高会議の代議員
- ウクライナ共産党ドニエプロペトロフスク州委員会第一書記
- ウクライナ共産党ザポロージエ州委員会第一書記
- カザフスタン共産党中央委員会第一書記
- カザフスタン共産党中央委員会第二書記
- モルダビア共産党中央委員会第一書記
- ソビエト連邦元帥
- 第一次アフガニスタン紛争期の政治家
- コムソモールの人物
- 勝利勲章受章者
- ソビエト連邦英雄
- 社会主義労働英雄
- レーニン勲章受章者
- 十月革命勲章受章者
- 赤旗勲章受章者
- 赤星勲章受章者
- ボグダン・フメリニツキー勲章受章者
- 祖国戦争勲章受章者
- レーニン賞受賞者
- レーニン平和賞受賞者
- ゲオルギ・ディミトロフ勲章受章者
- カール・マルクス勲章受章者
- スフバートル勲章受章者
- エカテリノスラフ県出身の人物
- カーミヤンシケ出身の人物
- モンゴル人民共和国英雄
- 1907年生
- 1982年没