ルビーの指環

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ルビーの指環」(ルビーのゆびわ)は寺尾聰の6枚目のシングル1981年2月5日発売。発売元は東芝EMI。なお、「ルビーの指」は誤記である。

解説

寺尾聰の歌手としての出世作であり、オリコン調べでは、寺尾のシングルで最大の売上を記録している。

ヨコハマタイヤ(横浜ゴム)『ASPEC』のCMソングとなり、翌1982年春開催の第54回選抜高等学校野球大会の入場行進曲にも採用されている。他に音楽活動再開とも重なった2006年にはキリンラガー』のCMソングにも使われた。「ルビーの指環」がヒットした後に建てられた溜池山王の東芝EMIのビルは「寺尾ビル」の異名を取っている。

寺尾は所属していた石原プロモーションの社長・石原裕次郎や専務・小林正彦に聴いてもらうが、小林は「こんなお経みたいな曲が売れるわけがない」と否定する[1]。しかし石原には「いいんじゃないの」と好感触をもらい、レコード化が決定した[1]

発売当初はさほど売れていなかったが、発売から約1ヶ月程経った後から徐々に売上を伸ばしていき[1]、同年3月30日付のオリコンシングルチャートで自身初の1位を獲得。同時期に、TBS系『ザ・ベストテン』でも1位を記録し、12週連続1位という同番組の最長記録を樹立し、この記録は放送終了まで破られなかった。また、連続1位の最長記録が更新されるたびに、同番組からはプレゼントが贈られていた。このことは、同番組の総集編やスペシャル放送などで、話題の一つとして必ず触れられている。また、日本テレビ系ザ・トップテン』では放送第1回の第1位かつ10週連続1位という同番組の最長記録を樹立している。

本作のヒットにより、発売当初はヒットしていなかった3rd、4thシングルの「SHADOW CITY」、「出航 SASURAI」も「SHADOW CITY」は、発売から約9ヵ月後にオリコンシングルチャートで3位を記録(この時「ルビーの指環」が1位、「出航 SASURAI」が14位)。また、『ザ・ベストテン』では本作と「SHADOW CITY」、「出航 SASURAI」の3曲が同時トップ10以内にランクインした。

1981年12月時点でのシングルの公称売上枚数は160万枚[2]

同年12月31日には第23回日本レコード大賞を受賞。また、作詞者の松本隆は同賞の作詞賞、作曲者の寺尾は作曲賞、編曲者の井上鑑編曲賞を受賞し、楽曲製作者に贈られる3タイトルを総なめにしている。更に寺尾は同日の『第32回NHK紅白歌合戦』にも出場。2007年末の『第58回NHK紅白歌合戦』にも出場しており、どちらも「ルビーの指環」を披露している。

当時寺尾が音楽番組で同曲を歌唱する際は、レコード音源よりもキーを上げて歌うことが多かった。

B面の「CINEMA HOTEL」は、2003年の『GOLDEN☆BEST 寺尾聰』にてCD音源化された。

収録曲

  1. ルビーの指環
  2. CINEMA HOTEL

カバー

関連項目

  • 風街図鑑〜松本隆 作詞活動30周年記念 - 作詞家活動30周年記念CD-BOX、「ルビーの指環」収録。
  • イニシエーション・ラブ - 2004年に発表された乾くるみの小説。12章から成り立っており、各章のタイトルに70年代から80年代にかけてヒットした楽曲のタイトルがつけられている(本作は第11章に用いられている)。2015年公開の同名映画の劇中歌としても使用されている。
  • 牧野良幸-「僕の音盤青春記PERT2」で寺尾のアルバムを聴き洋楽一辺倒だったけどいい曲がルビーの指環だと記述している。

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 柏木純一 [1997-11]. 渡哲也 俺. 毎日新聞社. ISBN 978-4620311982. 
  2. 週刊朝日』1981年12月18日号、23頁。(「忘年会で恥をかかないための'81歌謡情報 『ギンギラギン』に『ひとり旅』熟年泣かせの『ルビーの指環』」22-25頁)

外部リンク


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