ルイ5世 (西フランク王)
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ルイ5世(フランス語:Louis V、967年 - 987年5月21日)は、カロリング朝最後の西フランク王(在位:986年 - 987年)。西フランク王ロテールとイタリア王ロターリオ2世の娘エンマの間の息子。怠惰王(le Fainéant)[1]と称された。
生涯
979年、父の在位中に共同統治王として戴冠された[2]。986年、父が死去すると単独統治を開始する。しかし翌987年5月、ユーグ・カペーと連携したランス大司教アダルベロンの懲罰のため出陣したが、狩猟中の事故が原因で死去[3]。コンピエーニュのサン=コルネイユ修道院(Abbaye Saint-Corneille)に埋葬された。継嗣が無く、ここにカロリング朝は断絶し[4]、国王選挙によって新たにユーグ・カペーが国王に選出され、カペー朝が創始されることとなった。これ以後、西フランク王国はフランス王国と呼ばれる。
982年にアンジュー伯フルク2世の娘で、トゥールーズ伯レーモン(5世)の寡婦であったアデライード・ブランシュ[5][6]と結婚したが、1年後に解消した[7]。アデライード・ブランシュはその後、プロヴァンス伯ギヨーム1世、さらにブルゴーニュ伯オット=ギヨームに嫁いだ。フランス王ロベール2世の王妃コンスタンスは、アデライード・ブランシュとプロヴァンス伯ギヨーム1世との娘である[5]。
脚注
- ↑ 下津、p. 215
- ↑ 瀬原、p. 105
- ↑ 佐藤、p. 53
- ↑ ルイ5世には叔父シャルルがいたが、兄ロタールと仲が悪く、皇帝オットー2世により下ロートリンゲン公を与えられていた(瀬原、p. 97)。国王選出で主導権を握ったランス大司教アダルベロンは、血気盛んなシャルルを国王とするのを避けた(瀬原、p. 105)。
- ↑ 5.0 5.1 柴田他、p. 184
- ↑ ルゴレエル、p. 17-19
- ↑ Bernard S. Bachrach, Fulk Nerra the Neo-Roman Consul, 987-1040 (University of California Press, 1993), p. 15
参考文献
- 下津清太郎 編 『世界帝王系図集 増補版』 近藤出版社、1987年
- 瀬原義生 『ドイツ中世前期の歴史像』 文理閣、2012年
- 佐藤彰一『世界史リブレット人 カール大帝 ヨーロッパの父』山川出版社、2013年
- 柴田三千雄、樺山紘一ほか 『世界歴史大系 フランス史1』 山川出版社、1995年
- アンリ・ルゴレエル 『プランタジネット家の人びと』 白水社、2000年
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