マルクス・アントニウス
マルクス・アントニウス(ラテン語: Marcus Antonius、紀元前83年1月14日 - 紀元前30年8月1日)は、共和政ローマの政治家・軍人。第二回三頭政治の一頭として権力を握ったが、その後はガイウス・ユリウス・カエサルの姪の息子オクタウィアヌス(後の初代ローマ皇帝アウグストゥス)に敗北した。ウィリアム・シェイクスピアの戯曲『アントニーとクレオパトラ』でも知られている。
Contents
生涯
出自・青年期
マルクス・アントニウスの祖父マルクス・アントニウス・オラトルは執政官や監察官を歴任した実力者であったが、ルキウス・コルネリウス・スッラの党派(オプティマテス)へ属したとしてアントニウスの生まれる前の紀元前87年にガイウス・マリウス派に殺害された。父マルクス・アントニウス・クレティクスは紀元前74年に法務官を務めたが、地中海での海賊征討の任務で失態を犯し、挽回が叶わないまま失意の内に死去した(紀元前72年頃)。
母はルキウス・ユリウス・カエサルの娘で、後に独裁官となるガイウス・ユリウス・カエサルの従姉にあたるユリア・アントニアであったが、ユリアは夫アントニウスの死去した後、プブリウス・コルネリウス・レントゥルス・スラと再婚した。レントゥルスは紀元前71年に執政官となったが、ルキウス・セルギウス・カティリナ一派による国家転覆の陰謀へ加担したとして、紀元前63年にマルクス・トゥッリウス・キケロらの主導で処刑された。
多難な青年期を過ごしたアントニウスであったが、彼がどの時点から政界へ登場したかははっきりしない。ただ、ガイウス・スクリボニウス・クリオと徒党を組んだり、キケロと敵対したプブリウス・クロディウス・プルケルの一派に属していた時期もあったと伝わっている[1]。
アントニウスはその後ギリシアへ渡り、紀元前57年よりグナエウス・ポンペイウスの党派でシュリア属州総督であったアウルス・ガビニウスの配下へ入り、騎兵隊長となった。紀元前55年、ファラオの座を追われていたプトレマイオス12世の復位の為にエジプトへ侵攻した。この時にアントニウスは当時18歳のクレオパトラ7世に魅了されたと、アッピアノスが『ローマ史』の中で記している。
カエサルの部下
その後、ガリア総督ユリウス・カエサルのレガトゥス(総督代理)としてガリア戦争に従軍。アレシアの戦い(紀元前52年やコンミウス相手の戦い(紀元前51年)で活躍した。
紀元前49年、カエサルがルビコン川を渡った際には護民官の職にあった。ローマ内戦でカエサルがギリシアへ先行した際には、後続隊を率いて困難な情勢下で合流、紀元前48年のファルサルスの戦いで活躍した。
カエサルが東方へ遠征している間、イタリア本国での政務を託されたが、十分な働きが出来なかった。紀元前46年にカエサルが独裁官に就任した際には、マギステル・エクィトゥム(騎兵長官)に指名された。キケロはアントニウスを「肉体が頑丈なだけが取り柄の無教養人で、酒に酔いしれ下品な娼婦と馬鹿騒ぎするしか能のない、剣闘士並みの男」と評した。
カエサルが共和派に暗殺された年には、その同僚コンスル(執政官)であった(カエサルは終身独裁官とこの年の執政官を兼任)。暗殺後は、コンスルとして国庫を掌握し、旧カエサル派を代表する形で共和派といったん和を結び、カエサルの葬儀挙行を認めさせる。そしてその葬儀の場で民衆を煽動して共和派を追放した。しかし、カエサルは遺言状でカエサルの姪の息子オクタウィアヌスを後継者に指名していた。オクタウィアヌスが元老院と結ぶと、アントニウスはガリアにいたカエサルの副官であったマルクス・アエミリウス・レピドゥスらと同盟しオクタウィアヌスに対抗した。
第2回三頭政治
当初は対立した両派であったが反共和派、反元老院で一致しアントニウス、オクタウィアヌス、レピドゥスの三者による同盟が成立。その勢力によってローマの支配権を掌握した。三人は国家再建三人委員に就任しローマを支配した(第2回三頭政治)。このとき三人委員会によるプロスクリプティオで、アントニウスの長年の政敵であったキケロが殺害された。
その後、マケドニア属州へ逃れていたマルクス・ユニウス・ブルトゥス、ガイウス・カッシウス・ロンギヌスら共和派をオクタウィアヌスと共にフィリッピの戦いで破った。三頭政治はもともと権力争いの一時的な妥協として成立していたため、各人は同盟関係にありながらも自らの勢力強化に努めた。アントニウスはローマを離れ、共和派に組していた東方の保護国王らと会見し関係を強化した。このときブルトゥスらを支援したプトレマイオス朝(エジプト)の女王クレオパトラ7世をタルソスへ出頭させ、出会った。クレオパトラ7世はアントニウスに頼んでエフェソスにいたアルシノエ4世を殺害させた[2]。
こうしたなか紀元前41年の冬にアントニウスの弟ルキウス・アントニウスと妻フルウィアはイタリアでオクタウィアヌスに反抗しペルシア(現:ペルージャ)で蜂起した(ペルシアの戦い)。この戦争にはオクタウィアヌスが勝利したが、ここで改めて三人の同盟の確認が行なわれた。アントニウスは死亡した妻フルウィアの後妻にオクタウィアヌスの姉オクタウィアを迎え、婚姻関係によって同盟は強化された。同時に三頭官はイタリア以外の帝国の領土を三分割し、東方はアントニウス、西方はオクタウィアヌス、アフリカはレピドゥスとそれぞれの勢力圏に分割した。
カエサルの果たせなかったパルティア征服を成し遂げることで、競争者であるオクタウィアヌスを圧倒することを目論んだアントニウスは、紀元前36年にパルティアに遠征した。この遠征の後背地としてアントニウスは豊かなエジプトを欲し、女王クレオパトラとの仲を再び密接にしていた。しかしこの遠征は失敗しローマ軍団のシンボルである鷲旗もパルティアに奪われた(第2次パルティア戦争)。
オクタウィアヌスとの対決
アントニウスは、パルティア遠征でローマを裏切ってパルティアへ味方したアルメニア王国を攻撃し、国王アルタウァスデス2世を捕虜とした。そしてその凱旋式をローマではなくアレクサンドリアで挙行した。その際に自らの支配領土をクレオパトラや息子らへ無断で分割したことやオクタウィアヌスが公開させた遺言状の内容、貞淑な妻オクタウィアへの一方的離縁などでローマ人の神経を逆撫でした。ローマ市民の中に「エジプト女、しかも女王に骨抜きにされ、ローマ人の自覚を失った男」といったイメージができた。
こうしたアントニウスの失策を見たオクタウィアヌスは、アントニウスとの対決を決断し、プトレマイオス朝に対して宣戦布告した。オクタウィアヌスの軍とアントニウス派およびプトレマイオス朝などとの連合軍はギリシアのアクティウム沖で激突。このアクティウムの海戦で敗北したアントニウスとクレオパトラはエジプトへ敗走した。
この敗戦により趨勢は決し、オクタウィアヌスはエジプトの首都アレクサンドリアへ軍を進めた。アントニウスはクレオパトラが自殺したとの報を聞き、自らも自刃した。クレオパトラ自殺は誤報であったので、アントニウスはクレオパトラの命で彼女のもとに連れて行かれ、彼女の腕の中で息絶えたとされる。
アントニウス死後のアントニウス家
アントニウスの死から約10日後にクレオパトラも自殺した。クレオパトラは生前にアントニウスと同じ墓に入れるよう遺言していたが、オクタウィアヌスはそれを認めた。
アントニウスの子供の内、クレオパトラ・セレネなどの女子は長生きし、クレオパトラ・セレネはマウレタニア王ユバ2世と結婚した。一方で男子に関しては義理の息子に当るカエサリオンとマルクス・アントニウス・アンテュッルス(Marcus Antonius Antyllus)はオクタウィアヌスに殺害され、アレクサンデル・ヘリオスやプトレマイオス・フィラデルフォスはアントニウスの死から数年も立たない内に病死した。フルウィアとの次男・ユッルス・アントニウスはアウグストゥスの義理の甥として重用され執政官・アジア属州総督にまで登ったが、アウグストゥスの娘・ユリアとの密通により自死を強いられた。なおカリグラ、クラウディウス、ネロといった皇帝はアントニウスの血筋を引いている。
ユリウス・クラウディウス朝の家系図
アントニウスが登場する作品
歴史書
- 『クレオパトラ』(クリスティアン=ジョルジュ・シュエンツエル(北野徹訳))
- 『クレオパトラ 古代エジプト最後の女王』(エディット・フラマリオン(高野優訳))
戯曲
- 「アントニーとクレオパトラ」 − ウィリアム・シェイクスピア作。
- 「ジュリアス・シーザー」 − シェイクスピア作。第三幕第二場の「アントニーの演説」は劇中で重要な位置を占める。
映画
- ジュリアス・シーザー(1953年) − MGM。アントニー役はマーロン・ブランド。ジョーゼフ・L・マンキーウィッツ監督。
- クレオパトラ(1963年) − 20世紀フォックス。アントニー役はリチャード・バートン。ジョーゼフ・L・マンキーウィッツ監督。
- ジュリアス・シーザー(1970年) − コモンウェルス・ユナイテッド・エンターテインメント。アントニー役はチャールトン・ヘストン。スチュアート・バージ(英語版)監督。
- アントニーとクレオパトラ(1971年) − J・アーサー・ランク・フィルム。アントニー役はチャールトン・ヘストン。チャールトン・ヘストン監督。
ドラマ
参考文献
- プルタルコス 『プルタルコス英雄伝』下、村川堅太郎編、ちくま学芸文庫
- ガイウス・ユリウス・カエサル 『内乱記』 国原吉之助訳、講談社学術文庫
- ガイウス・ユリウス・カエサル 『ガリア戦記』 国原吉之助訳、講談社学術文庫
脚注
- ↑ プルタルコス「英雄伝」アントニウス 1-2
- ↑ フラウィウス・ヨセフス『ユダヤ古代誌』15巻