マリー・アントワネット
マリー=アントワネット=ジョゼフ=ジャンヌ・ド・アブスブール=ロレーヌ・ドートリシュ(フランス語: Marie-Antoinette-Josèphe-Jeanne de Habsbourg-Lorraine d'Autriche, 1755年11月2日 - 1793年10月16日)は、フランス国王ルイ16世の王妃。
フランス革命中の1793年10月16日に刑死した。
Contents
生涯
幼少期・結婚まで
1755年11月2日、神聖ローマ皇帝フランツ1世とオーストリア女大公マリア・テレジアの十一女としてウィーンで誕生した。ドイツ語名は、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン。イタリア語やダンス、作曲家グルックのもとで身に付けたハープやクラヴサンなどの演奏を得意とした。3歳年上のマリア・カロリーナが嫁ぐまでは同じ部屋で養育され、姉妹は非常に仲が良かった。オーストリア宮廷は非常に家庭的で、幼い頃から家族揃って狩りに出かけたり、家族でバレエやオペラを観覧した。また幼い頃からバレエやオペラを皇女らが演じている。
当時のオーストリアは、プロイセンの脅威から伝統的な外交関係を転換してフランスとの同盟関係を深めようとしており(外交革命)、その一環として母マリア・テレジアは、自分の娘とフランス国王ルイ15世の孫ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)との政略結婚を画策した。当初はマリア・カロリーナがその候補であったが、ナポリ王と婚約していたすぐ上の姉マリア・ヨーゼファが1767年、結婚直前に急死したため、翌1768年に急遽マリア・カロリーナがナポリのフェルディナンド4世へ嫁ぐことになった。そのため、アントーニアがフランスとの政略結婚候補に繰り上がった。
1763年5月、結婚の使節としてメルシー伯爵が駐仏大使としてフランスに派遣されたが、ルイ・オーギュストの父で王太子ルイ・フェルディナン、母マリー=ジョゼフ・ド・サクス(ポーランド王アウグスト3世兼ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世の娘)がともに結婚に反対で、交渉ははかばかしくは進まなかった。
1765年にルイ・フェルディナンが死去した。1769年6月、ようやくルイ15世からマリア・テレジアへ婚約文書が送られた。このときアントーニアはまだフランス語が修得できていなかったので、オルレアン司教であるヴェルモン神父について本格的に学習を開始することとなった。1770年5月16日、マリア・アントーニアが14歳のとき、王太子となっていたルイとの結婚式がヴェルサイユ宮殿にて挙行され、アントーニアはフランス王太子妃マリー・アントワネットと呼ばれることとなった。このとき『マリー・アントワネットの讃歌』が作られ、盛大に祝福された。
宮廷生活
デュ・バリー夫人との対立
結婚すると間もなく、ルイ15世の寵姫デュ・バリー夫人と対立する。もともとデュ・バリー夫人と対立していた、ルイ15世の娘アデライードが率いるヴィクトワール、ソフィーらに焚きつけられたのだが、娼婦や愛妾が嫌いな母・マリア・テレジアの影響を受けたアントワネットは、デュ・バリー夫人の出自の悪さや存在を憎み、徹底的に宮廷内で無視し続けた。当時のしきたりにより、デュ・バリー夫人からアントワネットに声をかけることは禁止されていた。宮廷内はアントワネット派とデュ・バリー夫人派に別れ、アントワネットがいつデュ・バリー夫人に話しかけるかの話題で持ちきりであったと伝えられている[1][2]
ルイ15世はこの対立に激怒し、母マリア・テレジアからも対立をやめるよう忠告を受けたアントワネットは、1771年7月に貴婦人たちの集まりでデュ・バリー夫人に声をかけることになった。しかし、声をかける寸前にアデライード王女が突如アントワネットの前に走り出て「さあ時間でございます! ヴィクトワールの部屋に行って、国王陛下を御待ちしましょう!」と言い放ち、皆が唖然とする中で、アントワネットを引っ張って退場したと言われている。
2人の対決は1772年1月1日に、新年の挨拶に訪れたデュ・バリー夫人に対し、あらかじめ用意された筋書きどおりに「本日のヴェルサイユは大層な人出ですこと」とアントワネットが声をかけることで表向きは終結した。その後、アントワネットはアデライード王女らとは距離を置くようになった。
結婚生活
マリー・アントワネットとルイとの夫婦仲は、極めて良かったと言われる。鍵遊びをよく一緒にしたらしい。新婚生活はラ・ミュエット宮殿(現在のパリ16区ラ・ミュエット地区)でも送ったが、子供が生まれず性生活を疑った母親マリア・テレジアより、1777年4月、マリー・アントワネットの長兄ヨーゼフ2世がこの地の新婚夫妻の元に遣わされ、夫妻それぞれの相談に応じた。翌1778年、結婚生活7年目にして待望の子供マリー・テレーズ・シャルロットが生まれた。
母マリア・テレジアは娘の身を案じ、度々手紙を送って戒めていたが、効果は無かった(この往復書簡は現存し、オーストリア国立公文書館に所蔵されている)。時にパリのオペラ座で仮面舞踏会に遊び、また賭博にも狂的に熱中したと言われる。だが賭博に関しては子供が生まれた事をきっかけに訪れた心境の変化からピッタリと止めている。
但し、ただの向こう見ずな浪費家でしかないように語られる反面、自らのために城を建築したりもせず、宮廷内で貧困にある者のためのカンパを募ったり、子供らにおもちゃを我慢させることなどもしていた。母親としては良い母親であったようで、元々ポンパドゥール夫人のために建てられるも、完成直後に当人が死んで無人だったプチ・トリアノン宮殿を与えられてからは、そこに家畜用の庭を増設し、子供を育てながら家畜を眺める生活を送っていたという。
フランス王妃として
1774年、ルイ16世の即位によりフランス王妃となった。王妃になったアントワネットは、朝の接見を簡素化させたり、全王族の食事風景を公開することや、王妃に直接物を渡してはならないなどのベルサイユの習慣や儀式を廃止・緩和させた。しかし、誰が王妃に下着を渡すかでもめたり、廷臣の地位によって便器の形が違ったりすることが一種のステータスであった宮廷内の人々にとっては、アントワネットが彼らが無駄だと知りながらも今まで大切にしてきた特権を奪う形になり、逆に反感を買った。
こうした中で、マリー・アントワネットとスウェーデンの貴族アクセル・フォン・フェルセン伯爵との浮き名が、宮廷では専らの噂となった。地味な人物である夫のルイ16世を見下している所もあったという。ただしこれは彼女だけではなく大勢の貴族達の間にもそのような傾向は見られたらしい。一方、彼女は大貴族達を無視し、彼女の寵に加われなかった貴族達は、彼女とその寵臣をこぞって非難した。
彼らは宮廷を去ったアデライード王女や宮廷を追われたデュ・バリー夫人の居城にしばしば集まっていた。ヴェルサイユ以外の場所、特にパリではアントワネットへの中傷がひどかったという。多くは流言飛語の類だったが、結果的にこれらの中傷がパリの民衆の憎悪をかき立てることとなった。
1785年にはマリー・アントワネットの名を騙った詐欺師集団による、ブルボン王朝末期を象徴するスキャンダルである首飾り事件が発生する。このように彼女に関する騒動は絶えなかった。
フランス革命
1789年7月14日、フランスでは王政に対する民衆の不満が爆発し、革命が勃発した。ポリニャック公爵夫人(伯爵夫人から昇格)ら、それまでマリー・アントワネットから多大な恩恵を受けていた貴族たちは彼女を見捨てた恰好で国外に亡命してしまう。彼女に最後まで誠実だったのは、王妹エリザベートとランバル公妃だけであった。国王一家はヴェルサイユ宮殿からパリのテュイルリー宮殿に身柄を移されたが、そこでマリー・アントワネットはフェルセンの力を借り、フランスを脱走してオーストリアにいる兄レオポルト2世に助けを求めようと計画する。
1791年6月20日、計画は実行に移され、国王一家は庶民に化けてパリを脱出する。アントワネットも家庭教師に化けた。フェルセンは疑惑をそらすために国王とマリー・アントワネットは別々に行動することを勧めたが、マリー・アントワネットは家族全員が乗れる広くて豪奢な(そして、足の遅い)ベルリン馬車に乗ることを主張して譲らず、結局ベルリン馬車が用意された。また馬車に、銀食器、衣装箪笥、食料品など日用品や咽喉がすぐ乾く国王のために酒蔵一つ分のワインが積み込まれた。このため元々足の遅い馬車の進行速度を更に遅らせてしまい、逃亡計画を大いに狂わせてしまうこととなった。結局、国境近くのヴァレンヌで身元が発覚し、6月25日にパリへ連れ戻される。このヴァレンヌ事件により、国王一家は親国王派の国民からも見離されてしまう。
1792年、フランス革命戦争が勃発すると、マリー・アントワネットが敵軍にフランス軍の作戦を漏らしているとの噂が立った。8月10日、パリ市民と義勇兵はテュイルリー宮殿を襲撃し、マリー・アントワネット、ルイ16世、マリー・テレーズ、ルイ・シャルル、エリザベート王女の国王一家はタンプル塔に幽閉される(8月10日事件)。
タンプル塔では、幽閉生活とはいえ家族でチェスを楽しんだり、楽器を演奏したり、子供の勉強を見るなど、束の間の家族団らんの時があった。10皿以上の夕食、30人のお針子を雇うなど待遇は決して悪くなかった。
革命裁判
1793年1月、革命裁判は夫ルイ16世に死刑判決を下し、ギロチンによる斬首刑とした。7月3日、王位継承者のルイ17世と引き離される。タンプル塔の階下に移され、ルイ17世は後継人となったジャコバン派の靴屋であるアントワーヌ・シモンをはじめとする革命急進派から虐待を受けた。
マリー・アントワネットは8月2日にコンシェルジュリー監獄に移送され、その後裁判が行われた。しかし、アントワネットは提示された罪状についてほぼ無罪を主張し、裁判は予想以上に難航。業を煮やした裁判所はジャック・ルネ・エベールやアナクサゴラス・ショーメット等にルイ17世の非公開尋問を行い「母親に性的行為を強要された」とアントワネットが息子に対して無理矢理に近親相姦を犯した旨を証言させた。しかし、アントワネットは裁判の傍聴席にいた全ての女性に自身の無実を主張し、大きな共感を呼んだ。
しかし、この出来事も判決を覆すまでには至らず、10月15日に彼女は革命裁判で死刑判決を受け、翌10月16日、コンコルド広場において夫の後を追ってギロチン送りに処せられることとなった。
処刑の前日、アントワネットはルイ16世の妹エリザベート宛ての遺書を書き残している。内容は「犯罪者にとって死刑は恥ずべきものだが、無実の罪で断頭台に送られるなら恥ずべきものではない」というものであった[3]。この遺書は看守から後に革命の独裁者となるロベスピエールに渡され、ロベスピエールはこれを自室の書類入れに眠らせてしまう。遺書は革命後に再び発見され、革命下を唯一生き延びた第一子のマリー・テレーズがこの文章を読むのは1816年まで待たなければならなかった。
ギロチン処刑
遺書を書き終えた彼女は、朝食についての希望を部屋係から聞かれると「何もいりません。全て終わりました」と述べたと言われ、そして白衣に白い帽子を身に着けた。斬首日当日、マリー・アントワネットは特別な囚人として肥桶の荷車でギロチンへと引き立てられて行った。コンシェルジュリーを出たときから、髪を短く刈り取られ両手を後ろ手に縛られていた。19世紀スコットランドの歴史家アーチボルド・アリソンの著した『1789年のフランス革命勃発からブルボン王朝復古までのヨーロッパ史』などによれば、その最期の言葉は、死刑執行人シャルル=アンリ・サンソンの足を踏んでしまった際に発した「お赦しくださいね、ムッシュウ。わざとではありませんのよ。Pardonnez-moi, monsieur. Je ne l'ai pas fait exprès [4]」だとされている。
通常はギロチンで処刑の際に顔を下に向けるが、マリー・アントワネットの時には顔をわざと上に向け、上から刃が落ちてくるのが見えるようにされたという噂が当時流れたとの説もある。
12時15分、ギロチンが下ろされ刑が執行された。処刑された彼女を見て群衆は「共和国万歳!」と叫び続けたという。
死後
遺体はまず集団墓地となっていたマドレーヌ墓地[注釈 1]に葬られた。後に王政復古が到来すると、新しく国王となったルイ18世は私有地となっていた旧墓地[注釈 2]を地権者から購入し、兄夫婦の遺体の捜索を命じた。その際、密かな王党派だった地権者が国王と王妃の遺体が埋葬された場所を植木で囲んでいたのが役に立った。発見されたマリー・アントワネットの亡骸はごく一部であったが、1815年1月21日、歴代のフランス国王が眠るサン=ドニ大聖堂に夫のルイ16世と共に改葬された。
評価
マリー・アントワネットの名誉回復には、結局死後30年以上を要した。現在では、後述の「パンがなければ」の発言をはじめとする彼女に対する悪評は、そのほとんどが中傷やデマだということが判明している。
マリー・アントワネットに対するフランス国民の怒りは、むしろ革命が始まってからの方が大きかったと言われている。フランスの情報を実家であるオーストリア皇室などに流し、革命に対する手立てが取れない夫ルイ16世に代わって反革命の立場を取ったことが裏切り行為ととられた(外敵通牒)。
「パンがなければ…」の発言
マリー・アントワネットは、フランス革命前に民衆が貧困と食料難に陥った際、「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」と発言したと紹介されることがある(ルイ16世の叔母であるヴィクトワール王女の発言とされることもある)。原文は、仏: “Qu'ils mangent de la brioche”、直訳すると「彼らはブリオッシュを食べるように」となる。ブリオッシュは現代ではパンの一種の扱いであるが、かつては原料は小麦粉・塩・水・イーストだけのパン(フランスパン)でなく、バターと卵を使うことからお菓子の一種の扱いをされていたものである。お菓子ではなくケーキまたはクロワッサンと言ったという変形もある。なおフランスを代表するイメージであるクロワッサンやコーヒーを飲む習慣は、彼女がオーストリアから嫁いだ時にフランスに伝えられたと言われている。
しかし、これはマリー・アントワネット自身の言葉ではないことが判明している[5]。ルソーの『告白[6]』(1766年頃執筆)の第6巻に、ワインを飲むためにパンを探したが見つけられないルソーが、家臣からの「農民にはパンがありません」との発言に対して「それならブリオッシュを食べればよい」とさる大公夫人が答えたことを思い出したとあり、この記事が有力な原典のひとつであるといわれている。庇護者で愛人でもあったヴァラン夫人とルソーが気まずくなり、マブリ家に家庭教師として出向いていた時代(1740年頃)のことという。
アルフォンス・カーは、1843年に出版した『悪女たち』の中で、執筆の際にはこの発言は既にマリー・アントワネットのものとして流布していたが、1760年出版のある本に「トスカーナ大公国の公爵夫人」のものとして紹介されている、と書かれている。実際はこれは彼女を妬んだ他の貴族達の作り話で、彼女自身は飢饉の際に子供の宮廷費を削って寄付したり、他の貴族達から寄付金を集めるなど、国民を大事に思うとても心優しい人物であったとされる。トスカーナは1760年当時、マリー・アントワネットの父である神聖ローマ皇帝フランツ1世が所有しており、その後もハプスブルク家に受け継がれたことから、こじつけの理由の一端になった、ともされる。
人物
音楽
上記の通りウィーン時代にグルックらから音楽を教わっていた。また彼女が7歳だった1762年9月、各国での演奏旅行の途上、シェーンブルン宮殿でのマリア・テレジアを前にした御前演奏に招かれたモーツァルト(当時6歳)からプロポーズされたという音楽史上よく知られたエピソードも持つ。
後年、ルイ16世の元に嫁いでからもハープを愛奏していたという。タンプル塔へ幽閉された際もハープが持ち込まれた。歌劇のあり方などをめぐるオペラ改革の折にはグルックを擁護し、彼のオペラのパリ上演の後援もしている。
なおマリー・アントワネットは作曲もし、少なくとも12曲の歌曲が現存している。彼女の作品の多くはフランス革命時に焼き捨てられ、ごく一部がパリ国立図書館に収蔵されているのみである。近年では“C'est mon ami”(それは私の恋人)などの歌曲がCDで知られるようになった。
2005年には漫画『ベルサイユのばら』の作者でソプラノ歌手の池田理代子が、世界初録音9曲を含む12曲を歌ったCD「ヴェルサイユの調べ~マリー・アントワネットが書いた12の歌」をマリー・アントワネットの誕生日である11月2日に発売し、この曲が2006年上演の宝塚歌劇『ベルサイユのばら』で使用された。
このマリー・アントワネットの曲集は日本で世界初の楽譜[7]も出版された。
入浴・香水
マリー・アントワネットが幼少期を過ごしたオーストリアには当時から入浴の習慣があった。母マリア・テレジアも幼い頃から彼女に入浴好きになるよう教育している。入浴の習慣がなかったフランスへ嫁いだ後も彼女は入浴の習慣を続け、幽閉されたタンプル塔にも浴槽が持ち込まれたという記録がある。
入浴をする習慣は、体臭を消すという目的が主だった香水に大きな影響をもたらした。マリー・アントワネットは当時のヨーロッパ貴族が愛用していたムスクや動物系香料を混ぜた非常に濃厚な東洋風の香りよりも、バラやスミレの花やハーブなどの植物系香料から作られる軽やかな香りの現代の香水に近い物を愛用し、これがやがて貴族達の間でも流行するようになった。もちろん、このお気に入りの香水もタンプル塔へ持ち込まれている。
家具
家具に非常に興味を持っており、世界中から沢山の木材を取り寄せた。マホガニー、黒檀、紫檀、ブラジル産ローズウッドなどを使い家具を作らせた。珊瑚や銀も家具の装飾用として使われた。ドイツ人家具職人を多く抱えルイ16世様式の家具を多く貴族に広めている。また日本製や中国製の家具や漆工芸品をとても好んでおり、マリア・テレジアからも贈られている。これらは現在もルーブル美術館に展示されている。
ファッション・リーダー
当時の貴族女性は、相手が驚くようなヘア・スタイルを競っていた[8]。アントワネットも王妃になってまもなく、ローズ・ベルタンという新進ファッション・デザイナーを重用する。ベルタンのデザインするドレスや髪型、宝石はフランス宮廷だけでなく、スペインやポルトガル、ロシアの上流階級の女性たちにも流行し、アントワネットはヨーロッパのファッションリーダーとなっていった。
何より女性達の視線を集めたのがその髪型で、当初は顔の1.5倍の高さだった盛り髪スタイルは徐々にエスカレートし、飾りも草木を着けた“庭ヘアー”や船の模型を載せた“船盛りヘアー”など、とにかく革新的なスタイルで周囲の目を惹きつけた。
即位後最初の数年間を過ぎてからは、簡素なデザインのものを好むようになった[9]。
この頃ベルタンはアントワネットのために袖や長い裳裾を取り払ったスリップドレスをデザインしている。
容姿
身長は154cm[10]。 裁縫師のエロフ夫人の日誌によると、ウエストは58〜59cm、バストが109cmで、当時のモードに合った体型であった[11]。
顔は瓜実顔で額が広すぎ、鼻は少し鷲鼻気味で、顎がぼってりし、『ハプスブルク家の下唇』と言われる特徴があった。しかし、輝くばかりの真珠のような白い肌と、眩い金髪を持つ魅力的な容姿であった。
教育係であったド・ヴェルモン神父は、「もっと整った美しさの容姿を見つけ出すことはできるが、もっとこころよい容姿を見つけ出すことはできない」、王妃の小姓であったド・ティリー男爵は、「美しくはないが、すべての性格の人々をとらえる眼をしている」「肌はすばらしく、肩と頸もすばらしかった。これほど美しい腕や手は、その後二度とみたことがない」、王妃の御用画家であったルブラン夫人は、「顔つきは整っていなかったが、肌は輝かんばかりで、すきとおって一点の曇りもなかった。思い通りの効果を出す絵の具が私にはなかった」と述べている[12]。
身のこなしの優雅さでも知られ、前述のド・ティリー男爵は「彼女ほど典雅なお辞儀をする人はいなかった」、ルブラン夫人は「フランス中で一番りっぱに歩く婦人だった」と述べている[13]。
子女
- マリー・テレーズ・シャルロット - アングレーム公爵夫人(1778年12月19日 - 1851年10月19日)
- ルイ・ジョゼフ・グザヴィエ・フランソワ - 王太子(1781年10月22日 - 1789年6月4日)
- ルイ・シャルル - ノルマンディー公爵、王太子、ルイ17世(1785年3月27日 - 1795年6月8日)
- ソフィー・エレーヌ・ベアトリクス(1786年7月29日 - 1787年6月19日)
4人の子供のうち3人は夭逝。長女マリー・テレーズは結婚して夫と添い遂げ、子女の中で唯一、天寿を全うした。マリー・テレーズは結婚13年目の1813年1月に懐妊したが、流産。その後は妊娠することがなく子供を残していないため、直系の子孫はいない。
女官・侍女
- ノアイユ伯爵夫人
- カンパン夫人
- 1786年に部屋付き第一侍女に就任(第一侍女は数人いた。なお、侍女長ないし女官長だったノワイユ伯爵夫人、さらに侍女総監ないし女官総監だったランバル公妃やポリニャック公爵夫人らとは別の役職)。父は外交官ないし高級官僚。帝政下に開いた学校にてナポレオン・ボナパルトの子女を教育した事を理由に、王世復古後はマリー・テレーズから絶縁される。その後マリー・アントワネットの回想録を出版した[14]。
- ルイーズ・ケット・ド・ラボルド ("Louise Marguerite Émilie Henriette Quetpée de Laborde")
- カンパン夫人と同じ部屋付き第一侍女。ジャルジャイュ伯爵フランソワ・レーニエ将軍は再婚相手。
- トゥルゼール公爵夫人
- ポリーヌ・ド・トゥルゼール
- トゥルゼール公爵夫人の娘。母と共にテュイルリー宮殿で国王一家に付き従っていた。結婚後はベアルン伯爵夫人。マリー・テレーズとは生涯友情関係にあり[16]、復古王政期にマリー・テレーズの侍女になった。
参考文献
- (アリソン 1855)Sir Archibald Alison (1855). Histoire de l'Europe depuis le commencement de la Révolution française en 1789 jusqu'à nos jours, V. F. Parent.
- (カストロ 1972a)カストロ, アンドレ 『マリ=アントワネット』1、村上光彦訳、みすず書房、1972-04。ISBN 978-4-622-00507-0。
- (カストロ 1972b)カストロ, アンドレ 『マリ=アントワネット』2、村上光彦訳、みすず書房、1972-06。ISBN 978-4-622-00508-7。
- (佐伯 2010)『マリー・アントワネット曲集 王妃様の作った愛の歌』 中央アート出版社、2010-06。ISBN 978-4-8136-0586-7。
- (藤本 2006)藤本ひとみ 『王妃マリー・アントワネット 青春の光と影』 角川書店、2006-10。ISBN 978-4-04-873734-0。
- (藤本 2010)藤本ひとみ 『マリー・アントワネット物語 中 恋する姫君』 講談社〈講談社青い鳥文庫 284-2 歴史発見!ドラマシリーズ〉、2010年11月。ISBN 978-4-06-285171-8。
- (堀ノ内 & 千明 1992)堀ノ内雅一(シナリオ) 『マリー・アントアネット 革命に散った悲劇の王妃』 集英社〈学習漫画 世界の伝記 集英社版 20〉、1992-03。ISBN 978-4-08-240020-0。
関連書籍
日本語で発行された書籍のみを記す。
- シュテファン・ツヴァイクによる評伝
- 「マリー・アントアネット」(シュテファン・ツワイク/高橋禎二、秋山英夫共訳、青磁社、上・下、1948年11月、NCID BN12899211)
- のち、三笠書房で刊行(三笠書房〈世界文學選書〉、上・下、1950年-1951年、NCID BN12662096)
- のち、岩波書店で文庫化(岩波書店〈岩波文庫〉、上・中・下、1952年-1953年、NCID BN0045547X)
- のち改版、(『マリー・アントワネット』、秋山英夫改訳版、岩波文庫、上・下、1980年6月、NCID BN01521004)
- 「マリー・アントワネット 或る月並な女人の肖像」(ツヴァイク/山下肇訳、角川書店〈角川文庫〉、上・下、1958年-1959年、NCID BN11369369)
- のち、角川文庫で再版(『マリー・アントワネット』ツヴァイク/山下肇訳、角川書店〈角川文庫 名著コレクション〉、上・下、1984年、ISBN 978-4-04-208205-7{{#invoke:check isxn|check_isbn|978-4-04-208205-7|error={{#invoke:Error|error|{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。|tag=span}}}}、978-4-04-208206-4{{#invoke:check isxn|check_isbn|978-4-04-208206-4|error={{#invoke:Error|error|{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。|tag=span}}}})
- 新訳版「マリー・アントワネット」(シュテファン・ツヴァイク/中野京子訳、角川書店〈角川文庫〉、上・下、2007年1月)
- 「マリー・アントワネット」(藤本淳雄、森川俊夫訳、『ツヴァイク全集 11・12』、みすず書房、全2巻、1962年、NCID BN01029932)
- のち、新装版(『ツヴァイク全集 13・14』、みすず書房、全2巻、1974年、NCID BN01940277)
- のち、改訂版(『ツヴァイク伝記文学コレクション 3・4』、みすず書房、全2巻、1998年9月、NCID BA37769305)
- 「マリー・アントワネット」(関楠生訳、河出書房新社〈第3集 世界文学全集 第15巻 ツワイク〉、1965年5月、NCID BN07302116)
- のち、河出文庫で改訂再刊(河出書房新社〈河出文庫〉、上・下、1989年6月 、新装版2006年11月、NCID BA80965908)
- 伝記・評伝
- 「マリー・アントワネット」(フランク・W.ケニョン/岡田真吉訳、潮書房、1956年10月、NCID BN1543575X)
- 「マリー・アントワネット」(アレクサンドル・デュマ/木村毅、大倉燁子訳、小山書店新社、1957年10月)
- 「物語マリー・アントワネット」(窪田般彌(窪田般弥)、白水社、1985年1月/白水社〈白水Uブックス 1007〉、1991年6月)。新書判
- 「デュバリー伯爵夫人と王妃マリ・アントワネット ロココの落日」(飯塚信雄、文化出版局、1985年3月)
- 「マリー・アントワネットの生涯」(藤本ひとみ、中央公論社、1998年7月/中央公論新社〈中公文庫〉、2001年6月)
- 「マリー・アントワネット」(ジョーン・ハスリップ/櫻井郁恵訳、近代文芸社、1999年6月)
- 「王妃マリー・アントワネット」(エヴリーヌ・ルヴェ/塚本哲也監修、遠藤ゆかり訳、創元社〈「知の再発見」双書〉、2001年11月)
- 「マリー・アントワネットとマリア・テレジア 秘密の往復書簡」(パウル・クリストフ編/藤川芳朗訳、岩波書店、2002年9月)
- 「マリー・アントワネットとヴェルサイユ-華麗なる宮廷に渦巻く愛と革命のドラマ」(新人物往来社〈別冊歴史読本〉、2003年8月)
- 「ロココの花嫁マリー・アントワネット ベルサイユへの旅路」(ケーラー・鹿子木美恵子、叢文社、2005年5月)
- 「マリー・アントワネット」Marie Antoinette: The Journey(アントニア・フレイザー/野中邦子訳、ハヤカワ文庫、上・下、2006年12月)
- 「マリー・アントワネット38年の生涯 断頭台に散った悲運の王妃」(新人物往来社〈別冊歴史読本〉、2008年1月)
- 「王妃マリー・アントワネット 華やかな悲劇のすべて」(藤本ひとみ、角川書店、2008年6月)
- 「マリー・アントワネットとフランスの女たち 甘美なるロココの源流」(堀江宏樹、春日出版、2008年8月)
- 「マリー・アントワネットの「首飾り事件」」(アンタール・セルプ/リンツビヒラ裕美訳、彩流社、2008年10月)
- 「王妃マリー・アントワネット」(新人物往来社編〈ビジュアル選書〉、2010年4月)
- 「王妃マリー・アントワネット 美の肖像」(南川三治郎写真、世界文化社、2011年3月)
- 「マリー・アントワネット運命の24時間 知られざるフランス革命ヴァレンヌ逃亡」(中野京子、朝日新聞出版、2012年2月)
- のち、文藝春秋で文庫化(文藝春秋〈文春文庫〉、2014年8月、ISBN 978-4-16-790165-3)
- 「マリー・アントワネット ファッションで世界を変えた女」(石井美樹子、河出書房新社、2014年6月、ISBN 978-4-309-22612-5)
- 「マリー・アントワネット フランス革命と対決した王妃」(安達正勝、中央公論新社〈中公新書〉、2014年9月、ISBN 978-4-12-102286-8)
- 「マリー・アントワネット 華麗な遺産がかたる王妃の生涯」(エレーヌ・ドラレクス、アレクサンドル・マラル、ニコラ・ミロヴァノヴィチ/岩澤雅利訳、原書房、2015年3月、ISBN 978-4-562-05141-0)
マリー・アントワネットを扱った作品
小説
- 「SOSタイム・パトロール」- 光瀬龍著、朝日ソノラマ、1972年。ジュブナイル小説)
- 「王妃マリー・アントワネット」 - 遠藤周作著、朝日新聞社、1979年-1980年。のち新潮文庫)
- 「王妃に別れをつげて」 - シャンタル・トマ著、白水社、2012年11月13日刊行。翻訳:飛幡祐規 *2002年フェミナ賞受賞 (映画化題『マリー・アントワネットに別れをつげて』)
- 「マリー・アントワネット物語」 - 藤本ひとみ著、K2商会絵、青い鳥文庫 歴史発見!ドラマシリーズ、2010年。上「夢みる姫君」、中「恋する姫君」、下「戦う姫君」の全3巻。ジュブナイル小説)
映画
- 『マリー・アントアネットの生涯』 - W・S・ヴァン・ダイク監督、ノーマ・シアラー主演のマリー・アントワネットを主人公にした原作シュテファン・ツヴァイク『マリー・アントワネット』の映画化。
- 『マリー・アントワネット』 - ジャン・ドラノワ監督、ミシェル・モルガン主演のフランス映画。
- 『愛と欲望の果てに』(1)<6回シリーズ> ―フランス革命200周年記念映画― 「マリー・アントワネット」』(NHK-BS放映) Les Jupons de la Révolution: Marie-Antoinette[1] - フランスのテレビ映画。キャロリーヌ・ユペール監督。主演エマニュエル・ベアール。VHS発売題『愛と欲望の果てに/ドレスの下のフランス革命』より「マリー・アントワネット」
- L'Autrichienne ウテ・レンパーがオーストリア女の最後を演じた、フランス映画。
- 『ジェファソン・イン・パリ』 - ジェームズ・アイヴォリー監督。1785年から1789年までトマス・ジェファソンの駐フランス公使時期を描くことで、マリー・アントワネット(シャルロット・ド・トゥルケーム)が断頭台に送られる前後も描いた(アントニオ・サッキーニ作曲のオペラ《ダルダニュス》の再現や、舞台、会食、謁見なども)。
- 『マリー・アントワネット (映画)』 - ソフィア・コッポラ監督、キルスティン・ダンスト主演のマリー・アントワネットを主人公に、80年代の音楽なども混ぜて創作した青春映画。
- 『王妃マリー・アントワネット』 - 2006年に放映された、フランス・カナダ合作のテレビ映画作品。カリーヌ・ヴァナッス主演。
- 『マリー・アントワネットに別れをつげて』 - ブノワ・ジャコ監督、レア・セドゥ主演、2012年のフランス歴史映画。革命発生時のマリー・アントワネット(ダイアン・クルーガー)を朗読係の目から描く。
舞台作品
- ベルサイユのばら (宝塚歌劇)
- ミュージカル『マリー・アントワネット』 - 原作:遠藤周作『王妃マリー・アントワネット』
- ミュージカル『1789 -バスティーユの恋人たち-』
- 舞台劇『首のない王妃・マリーアントアネットのその後』 - 博品館劇場2012年9月舞台、武田光太郎主演。
- オペラ『ヴェルサイユの幽霊』 - ジョン・コリリアーノ作曲
ラジオドラマ
- 『フランツ・ルフレルの天使たち』 - 杉崎智介のle Salon テレビ東京InterFM - フランス革命前後のマリー・アントワネットを描いたラジオドラマ。(声:ReeSya)、脚本・杉崎智介
漫画
- 池田理代子『ベルサイユのばら』 - ルイ15世末期からフランス革命前後までのベルサイユ宮殿を舞台とした漫画。
- 森園みるく『欲望の聖女 令嬢テレジア』 - フランス革命初期からロベスピエール処刑までを舞台とした漫画。他の作品と違い、この作品ではアントワネットの悪行をメインに描いている。
- にしうら染『踊る! アントワネットさま』 - マリー・アントワネットの親友となった女流画家を主人公に、2人の友情を描いた作品。
- 惣領冬実『マリー・アントワネット』 - 「週刊モーニング」(講談社)で連載された漫画。史上初のヴェルサイユ宮殿による監修。
- 高橋美由紀『エル』 - 海をまもる者エルの使命と名を受け継ぎ、人間の母親との間に生を受けた主人公エルと彼を助ける龍の魂を宿したエルの母親の一族の末裔の少女エリアンヌが平和の犠牲にしたオーストリア皇女にしてフランス最後の王妃マリー・アントワネットが「モスリン」と名乗り、そう呼ばれたエピソードがコミックス第6巻に収録されている。
- 原作:池田悦子 / 作画:あしべゆうほ『悪魔の花嫁』 - コミックス10巻に収録された「ギロチンが招いた女」で、アントワネットと彼女によく似た娼婦が神のお告げの言い伝えのある洞窟で出会い、その後、2人の運命が入れ替わって娼婦はフェルセンの良心と引き換えに王妃として死ぬ代償として彼に抱かれ、ギロチンで処刑される。そのため、アントワネットは名もない幽霊となってさ迷う。
アニメーション
- 『ラ・セーヌの星』 - フランス革命の頃のパリが舞台のテレビアニメ。アントワネットは知らなかったが、彼女の父君ロートリンゲン公フランツ1世がフランスのオペラ座の歌姫との間に設けたシモーヌ・ロランという異母妹がいるという設定。
ゲーム
- 『Fate/Grand Order』 - サーヴァントとして登場。
- 『ワールドチェイン』- レブナントとして登場。
- 『グリムノーツ』- 英雄として登場。
関連項目
- マリア・ルイーザ (パルマ女公) - 兄レオポルト2世の孫で、相手は皇帝ナポレオン・ボナパルトと、やはりフランスへ嫁いだ。
- ロラン夫人 - ジロンド派の黒幕的存在。同時代に生きたアントワネットとは対照的な"女王"だった。
- 首飾り事件
- プチ・トリアノン
- ル・アモー・ドゥ・ラ・レーヌ - プチ・トリアノンにあった"王妃の村里"。
- トリアノンの幽霊 - マリー・アントワネットの亡霊を小トリアノン宮殿で目撃したとされる事件
- ホープダイヤモンド
- ウビガン - 香水
- 森永製菓 - 同社のマリービスケットは、アントワネットが宮殿で初めて高級ビスケットを作らせ、自分の名マリーと名付けて常に愛用したという伝から創業者が命名[17]。
脚注
注釈
出典
- ↑ 藤本 2006, p. 126「はみ出し者」- p. 159「元旦のできこと」
- ↑ 藤本 2010
- ↑ マリー・アントワネットの遺言書
- ↑ アリソン 1855, p. 157.
- ↑ 堀ノ内 & 千明 1992 p.89およびp.135
- ↑ Jean-Jacques Rousseau. Les Confessions (Rousseau). - ウィキソース.
- ↑ 佐伯 2010
- ↑ 『ビジュアル百科 世界史1200人 1冊で丸わかり』145頁。
- ↑ カストロ 1972a, p. 211.
- ↑ マリー・アントワネット 154cm? 山梨の歴史研究家 肖像画から身長解析『読売新聞』2010年8月18日29面
- ↑ カストロ 1972b, p. 298.
- ↑ カストロ 1972b, pp. 5, 185-187.
- ↑ カストロ 1972b, p. 186.
- ↑ 『マリー・テレーズ』恐怖政治の子供、マリー・アントワネットの娘の運命 スーザン・ネーゲル著 2009年 近代文学社 P268
- ↑ ネーゲル P122,124,171
- ↑ ネーゲル p106,138,333
- ↑ 同志社英学校と森永西洋菓子製造所─創始者たちの帰国より死に至るまで森永長壹郎、同志社大学『新島研究』103号、2012-02-28
外部リンク
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