マリア・フョードロヴナ (アレクサンドル3世皇后)
テンプレート:基礎情報 君主の正配 マリア・フョードロヴナ(ロシア語: Мария Фёдоровнаマリーヤ・フョーダラヴナ / Maria Fyodorovna、1847年11月26日 - 1928年10月13日)は、デンマーク王クリスチャン9世と王妃ルイーゼの次女で、ロシア皇帝アレクサンドル3世の皇后。ミニーの愛称で呼ばれた。姉にイギリス王エドワード7世の妃アレクサンドラ、長兄にデンマーク国王フレゼリク8世、次兄にギリシャ国王ゲオルギオス1世、妹にハノーファー王国の元王太子エルンスト・アウグストの妃テューラがいる。
幼いうちに早世した第二皇子アレクサンドルを除き、3男2女が成人した。第一皇女クセニアの娘イリナの夫がグリゴリー・ラスプーチンを暗殺したフェリックス・ユスポフである。また姉アレクサンドラとは毎年パリで会っていて、互いにプレゼントを交換し合うほどの仲の良い姉妹だった。
生涯
デンマーク王女
1847年11月26日にコペンハーゲンで誕生したマリー・ダウマーは家族からミニーという愛称で呼ばれた。姉アレクサンドラ王女とは3姉妹のなかで歳が近く同じ部屋で育ったため、大の仲良しだった。父が1852年の王位継承法で嗣子のいないデンマーク国王フレゼリク7世の継承者に選ばれるまではシュレースヴィヒ・ホルシュタイン・ゾンデルブルグ・グリュックスブルグ公であったが、財力がなかったためにデンマーク王室から無料で借りたコペンハーゲン市内の小さな家で暮らしていた。家庭教師を雇う金銭的余裕もなかったためにミニーは姉弟ともに両親から教育を受け、英語はイギリス人看護婦とイギリス人牧師から習った。アレクサンドラがイギリス王太子アルバート・エドワードと結婚し、イギリスへ旅立った時、ミニーは涙を流してコペンハーゲンの王宮から見送った。
ミニーと姉アレクサンドラは美貌の王女であり、結婚年齢になると姉アレクサンドラと共にヨーロッパ諸王室から縁談が舞い込んだ。父クリスチャン9世は経済的窮地に追い込まれているデンマークを立て直すため、経済力のあるイギリス王室にアレクサンドラを嫁がせ、ミニーをヨーロッパ一の富豪と言われたロマノフ家に嫁がせる事にした。
1864年にロシア皇太子ニコライ大公と婚約した。婚約後、ニコライ大公はミニーに会いにデンマークを訪れ、コペンハーゲンの王宮でミニーと初めて対面した。対面後すぐ、愛嬌のあるミニーはニコライ大公を笑わせていたという。ニコライ大公の両親アレクサンドル2世・マリア・アレクサンドロヴナ皇后夫妻、ミニーの両親クリスチャン9世・ルイーセ王妃夫妻は2人の様子を侍従から聞いて安心したという。1865年、ニコライ皇太子はミニーと結婚間近に肺結核を患い、弟アレクサンドル大公にミニーと結婚するように伝えて逝去した。
婚約者の死はミニーだけでなく、デンマーク国王夫妻にも大きなショックを与えた。クリスチャン9世は婚約者の死で悲しみに暮れるミニーに、話しかける事もできなかったという。そんなミニーにアレクサンドル2世は手紙を送り、ニコライ大公が逝去してもミニーをロマノフ家の一員に迎えたいという気持ちには変わりはなく、代わって皇太子となったアレクサンドル大公との婚約をミニーに申し出た。ミニーは初め躊躇したが、母ルイーセと姉アレクサンドラの説得により、アレクサンドル大公と婚約する事を決めた。
ロシア皇太子妃
1866年9月1日にミニーはコペンハーゲンからサンクトペテルブルクに向けて出発した。この時、ミニーを見送るデンマーク群衆の中にハンス・クリスチャン・アンデルセンがいた。彼はミニーを「慈悲深い心の清らかな王女」と評した。
ミニーはロシア王室に嫁ぐため、正教に改宗し、名前をマリー・ソフィー・フレデリケ・ダウマーからロシア風にマリア・フョードロヴナと改めた。
サンクトペテルブルクの冬宮に到着すると、婚約者アレクサンドル皇太子とその父アレクサンドル2世、皇后マリア・アレクサンドロヴナや他の皇族、貴族たちに温かく迎えられた。そして婚配式は1866年11月9日に冬宮で盛大に行われた。アレクサンドル2世は皇太子妃の身分に相応しいロシアの称号「大公妃」の称号をマリアに与えた。アレクサンドル大公との生活は、ほとんどクリミア半島の宮殿で営まれた。マリアの明るさや気転の良さはマリア・アレクサンドロヴナ皇后にも気に入られ、嫁と姑の確執はなかった。アレクサンドル大公もマリアに非常に優しく、政略結婚であったが二人は非常に幸せな結婚生活を送った。かなり小柄だったが愛嬌があり、どんな階級の者とも話せる明るい女性でロシア国民に人気があった。
1873年、ミニーは夫のアレクサンドル大公とともにイギリスを訪れた。美しい二人の姉妹はお揃いのドレスを着てハイドパークを散歩したり、舞踏会に現れた。社交界の人々は二人の美しさやミニーが身につけている美しく大きな宝石に目を奪われたという。ミニーとアレクサンドラは毎年パリで落ち合い、互いに結婚後も姉妹の仲の良さは変わらなかった。二人の一家は家族ぐるみで付き合いを続け、夏の休暇には二人の故国デンマークで過ごすようになる。
1881年3月13日の朝、義父アレクサンドル2世が冬宮へ向う途中、爆弾を投げつけられた。宮殿に運ばれた瀕死の状態の皇帝を見たマリアは、日記に「皇帝陛下は手足が押しつぶされていて、足が裂けていた」と記している。アレクサンドル2世は医師団の治療も甲斐なく、崩御した。
ミニーの美貌は姉アレクサンドラと同様、オーストリア皇后エリーザベトの美貌と比べられた[1]。そのためエリーザベト本人がマリアに興味を持ったが、長らく対面することはなかった。ヴィクトリア女王の晩餐会でエリーザベトはマリアに対面したことがあったが、話すことはなかった。
ロシア皇后
1883年5月27日にモスクワのクレムリンで重々しい警備の中で戴冠式が行われ、夫アレクサンドルがロシア皇帝アレクサンドル3世として即位し、マリアは皇后となった。戴冠式にはアレクサンドラとアルバート夫妻も招待され、3000人もの王侯貴族が訪れた。式典は何時間も5メートルもあるアーミンの毛皮のマントと重たいダイヤモンドの王冠をつけていなければならず、小柄なマリアの足はむくんでしまい、靴が入らないのでこっそりとスリッパを履いていた。マリアは戴冠式の最中、いつものようにアレクサンドル皇帝をそっと抱きしめ、儀式の最中にキスをした。
ロシア国民は「あなたは本当の皇后陛下です、美貌の皇后陛下万歳!」とマリアを敬慕し、ロシア帝国の国歌「神よツァーリを護り給え」を合唱した。アレクサンドル3世の即位後、反帝政派の運動者は帝国内各地の都市に雲隠れしたため、ロシア国内の政情はやや安定した。
ニコライ皇太子がヘッセン大公女アレクサンドラとの結婚を両親である皇后マリアと皇帝アレクサンドル3世に願い出た時、2人は反対した。アレクサンドラの非社交的な性格もヒステリーを起こす事も知っていたため、未来のロシア皇后には不適格だと思っていたからである。またマリアはドイツ人嫌いでニコライ皇太子の妃にはベルギー、オランダ、姉・アレクサンドラの嫁ぎ先のイギリス王室などの王室から迎えたかった。
マリアの姉アレクサンドラもこの結婚には反対した。アレクサンドラはヘッセン大公家の不吉な災いがロシア帝室にも影響を及ぼすのではないかと心配していた。
ニコライ皇太子は結婚に反対するマリアにアレクサンドラを対面させた。しかし、強圧的な母親であったマリアはアレクサンドラに対して素っ気ない態度を取った。マリアはアレクサンドラが「アリックス」と呼ばれているのが気に入らなかった。この愛称はマリアの姉アレクサンドラの愛称でもあったからである。そのため、マリアだけは「ヘッセン大公女アレクサンドラ」と呼んだ。そんな中、アレクサンドル3世は病に倒れ、ニコライ皇太子の結婚話はうやむやになった。
ロシア皇太后
1894年11月1日、アレクサンドル3世が49歳で崩御したため、長男のニコライがニコライ2世としてロシア皇帝に即位し、マリアは皇太后になった。
アレクサンドル3世の崩御から数日後に姉アレクサンドラとその夫、イギリス王太子アルバート・エドワードがロシアに到着し、アレクサンドル3世の葬儀に参列、またニコライ2世とヘッセン大公女アレクサンドラ(アルバート・エドワードの姪)の結婚式の日取りを決めた。マリアとアレクサンドラは最後まで結婚に反対したが、結局ニコライ2世はアレクサンドラと婚約し、アルバート・エドワード王太子と日取りを決めて結婚した。最後まで反対したマリアとアレクサンドラはこの結婚を心から喜べなかった。息子に「アレクサンドラは子供です。皇后の責務をちゃんとこなせるか心配です。」と言っている(後にこの心配は現実のものとなる)。
1894年11月14日、ニコライ2世はアレクサンドラと結婚した。アレクサンドラは結婚と同時に皇后になったが、マリアは新皇后に対しては冷たい態度を取った。自分の誕生会や式典でわざと招待状をアレクサンドラに送らなかったり、アレクサンドラの挨拶に冷たい態度を示したりし、アレクサンドラとマリアの溝はますます深まった。しかし、孫に対しては優しい祖母であった。
1912年、レナ虐殺事件が起こると、マリアやセルゲイ・ヴィッテ伯爵などの上流階級がシベリアのイギリス系企業レナ金鉱株式会社の株主となっていたことから、ロシア民衆の憎悪がロマノフ朝へも向けられるようになった。
ロシア革命
1917年にロシア革命が勃発し、息子ニコライ2世が皇帝から退位してロマノフ朝が打倒された。多くの皇族・貴族が迫害される中、マリアと娘一家、一部の皇族・貴族はクリミア半島のヤルタに幽閉された。妹が幽閉されている事を知った姉アレクサンドラがマリアとその一家の救出に奔走し、甥のジョージ5世も戦艦マールバラを差し向けて、皇太后マリアと娘一家らをクリミアから黒海を経て救い出した。
マリアは最初のうちはロシアからの出国を拒んだが、周囲の説得でイスタンブールに向けて出発した。その途中、ニコライ2世一家の殺害を公式文書で知らされたが、マリアはその公式文書の受け取りを拒否し、息子一家は生存していると信じた。その後、一行を乗せたマールバラは安全なイスタンブールに無事帰着し、彼らの内多くはイギリスやフランス、そしてのちにはアメリカなどへ逃れた。
マリアは姉とロンドンで再会した後、故国デンマークに亡命した。マリアはアレクサンドラ一家と休暇を楽しむために二人で購入したコペンハーゲン近郊の別荘で暮らした。当時の国王は甥のクリスチャン10世であったが、王室からは厚遇され、手当も多かった。社交的なマリアの元には多くの人々が集まり、訪れる人の絶える事が無かったという。ニコライ2世一家の写真を手元に置いて余生を過ごした。後に孫娘のアナスタシア皇女だと名乗る女性が現れても、マリアは面会を拒んだ。一家の死を認めようとせず、それどころか息子も嫁も子供達も無事に生きているのを自分は「知っている」と言い張った[2]。
亡命の際にマリアは多くの宝石類を持ち出していた。マリアの生活費とするため、。その宝石類はマリアの死後、ジョージ5世の妃メアリー・オブ・テックが手に入れたが、なぜかその代金は1968年まで支払われなかった。
2005年、デンマーク・ロシア両政府の合意により、マリアの棺をロシアへ運ぶことが決定した。翌2006年、ロスキレ大聖堂に葬られていたマリアの棺は、サンクトペテルブルクの夫の隣に改葬された。
補記
- シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国を巡って故国デンマークとドイツが争ったことから、生涯を通じてドイツ嫌いだった。
- 1921年に全ロシア帝国議会から臨時皇帝就任を打診されたが、マリアはこれを断っている。
- 2007年現在、マリアとアレクサンドル3世の血を引く子孫は50人ほどいる。その子孫のほとんどがデンマークに住んでいる。
- マリアは当時の王族としては珍しい喫煙者であった。しかし、喫煙の習慣を他人に知られることを非常に嫌がり、突然彼女を訪ねた人間はマリアが慌てて消したタバコの煙に驚いたという。
子女
- ニコライ2世(1868年 - 1918年)
- アレクサンドル大公(1869年 - 1870年)
- ゲオルギー大公(1871年 - 1899年)
- クセニア大公女(1875年 - 1960年)
- ミハイル大公(1878年 - 1918年)
- オリガ大公女(1882年 - 1960年)
脚注
関連項目
外部リンク
- ダグマリア [Dagmaria]—デンマークの歴史文化団体(英語)