マクシミリアン・フォン・バーデン
プリンツ・マクシミリアン・アレクサンダー・フリードリッヒ・ヴィルヘルム・フォン・バーデン (ドイツ語: Prinz Maximilian Alexander Friedrich Wilhelm von Baden, 1867年7月10日 - 1929年11月6日)は、バーデン大公家家長。マックス・フォン・バーデン(ドイツ語: Max von Baden)の短縮形の名で知られる。最後のバーデン大公フリードリヒ2世の従弟にあたる。
生涯
プロイセンの将軍であったバーデン大公子ヴィルヘルムとその妻であるロイヒテンベルク公女マリア・マクシミリアノヴナの長男として、バーデン=バーデンで生まれた。
第一次世界大戦前から自由主義者として知られ、1918年10月にドイツ帝国宰相に任命され連合国との休戦交渉を担ったが、ドイツ政府は既に軍部に掌握されており、マクシミリアンの行動の余地は狭かった。彼はヴィルヘルム2世が帝位を保持することはできないと悟っており、ホーエンツォレルン家を救うために退位を促した。彼は事態はもはや一刻ではなく分や秒を争うと皇帝に迫ったという[1]。パウル・フォン・ヒンデンブルクやヴィルヘルム・グレーナーらも同調したが、ヴィルヘルム2世は退位を拒絶した。
やがて、ヴィルヘルム2世は「帝位は退くがプロイセン王位は保持する」という苦肉の案に飛びついたが、マクシミリアンは皇帝の同意なしにドイツ皇帝位(およびプロイセン王位)の退位を発表した。しかし時すでに遅く、1918年11月9日、ドイツ共和国成立の宣言がされた。マクシミリアンはフリードリヒ・エーベルトに後を託し、辞職した。マクシミリアンは退役して余生を過ごし、1928年に従兄のフリードリヒ2世よりバーデン大公家家長を継いだが、翌年にコンスタンツで死去した。
家族
ハノーファー王太子エルンスト・アウグスト(2世)の長女マリア・ルイーゼと結婚。1男1女を儲けた。
- マリー・アレクサンドラ(1902年 - 1944年) - ヘッセン=カッセル公子ヴォルフガングと結婚。第二次世界大戦中、連合国によるフランクフルト空爆の犠牲となって死去。
- ベルトルト(1906年 - 1963年) - ギリシャ・デンマーク王女テオドラと結婚。
出典・脚注
- ↑ 『世界の歴史・第一次世界大戦』(中央公論社 1966年)による。なお、当書ではマックスを「バーデン大公」としているが、彼が家長位を継ぐのはその10年後のことであるから、正確な記述ではない。
参考文献
関連項目
公職 | ||
---|---|---|
先代: ゲオルク・フォン・ヘルトリング |
ドイツ帝国宰相 第8代:1918年 |
次代: フリードリヒ・エーベルト |
先代: ゲオルク・フォン・ヘルトリング |
プロイセン王国首相 1918年 |
次代: フリードリヒ・エーベルト |
ドイツの爵位 | ||
先代: フリードリヒ2世 |
バーデン大公家家長 1928年 - 1929年 |
次代: ベルトルト |