ポストモダン

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ポストモダン(postmodern)[1]ポストモダニズム (: Postmodernism) とは、進歩主義や主体性を重んじる近代主義啓蒙主義を批判し、そこから脱却しようとする思想運動のこと[1]。またはモダニズム(近代主義)に行き詰まりを見出し、そこから逃れようとする芸術などの文化的諸分野上の潮流[2]脱近代主義[2]

成り立ち

ポスト・モダニズムという用語自体は1960年代にも確認することができるが、ポスト・モダニズムという用語が今日的な意味で使用されるようになったのは、チャールズ・ジェンクスの『ポスト・モダニズムの建築言語』(1977年)が最初であり、建築・デザインの分野で盛んに用いられた。ジャン=フランソワ・リオタールが『ポストモダンの条件』(1979年)を著すと、フランス現代思想界に大きな影響を与え、その影響はアメリカを中心に広がりを見せ、やがて分野を超えて大きな時代の潮流を形成するに至った[3]

建築・デザイン

参照: ポストモダン建築

建築においては、装飾を排して「禁欲的な四角い箱」とも評される機能主義・近代合理主義に基づくモダニズム建築に対する反動として現れた。多様性、装飾性、折衷性、過剰性などを特徴とする建築のことで、1980年代はポスト・モダンの時代であると盛んにいわれ、それらの手法を顕著に具現し内・外観を特徴づけられて多くが建設された。とくに日本では「バブル景気」とも呼ばれた好景気に支えられて、ふんだんな建設費を背景に様々な実験とも見られる建築デザインが試みられ、長期にわたる企画と工期を要求される建設事業においてはバブル崩壊後の1990年代にまでその後遺は及んだ。一般に、現代人が外見的に見て特異な印象をうけるその時代の建築物は、ポスト・モダンの影響を受けたデザインのものであることが多い。

当初、「ポスト・モダニズム」という言葉も使われたが、「イズム (-ism)」とするほどの方法論構築もかなわず、のちには「ポスト・モダン」として定着し、単なる流行現象として扱われ、現在では余り用いられることはない。元来は近代建築の合理的画一性や単調さに対しての反省や批判からおこった建築スタイルではあるが、あまりの過剰性・奇異性などのあおりを受けて次の時代への可能性に至らず、模索の範囲に留まった一過的な建築表現として片付けられようとしている。一部には近代直前のアール・デコアール・ヌーボー様式などの装飾性への参照も見られたり、あるいは脱構築主義建築のように破壊的な挑戦もあったが、建築の商業的ファッション性やセンセーショナリズムの枠の中だけに留められ、外観や内装の表面的な部分だけが情報化の渦に飲み込まれてしまっている。また、この時代の洗礼を受けた当時の若手が中堅設計家となった現代に至っては、次代の明確なデザイン理論を模索する途上で、設計の場面あるいは実際に竣工した建築において「ポスト・モダン」の影響を受けた傾向もしばしば見られる。

ポスト・モダンのプロダクト・デザインには、イタリアのデザイン集団「メンフィス」 (Memphis) がある。デザイナーのエットレ・ソットサスを中心に1981年に結成され、当初はミケーレ・デ・ルッキらイタリア人で構成され、後にインターナショナルになった。独自の形態、明るい色彩に特徴があり、家具・生活用品などにその無国籍なデザインと才能が評価され、世界的に知名度が高まった。好景気に沸いた1980年代の東京には世界中からポスト・モダンデザインの建築物やインテリア什器などの商品が押し寄せ、溢れた。

哲学・思想

フランスを中心に興った思想で、多かれ少なかれドイツ圏のニーチェフロイトハイデッガーらの思想を源泉とし、近代的な「主体」概念に対して構造主義によって提起された批判が背景にある。構造主義以後に構造主義を批判しつつ継承して出てきた思想傾向をポスト構造主義と呼ぶが、ポストモダニズムはポスト構造主義を下位概念として含む[4]

フランス現代思想の文脈では、サルトルは、その著書『弁証法的理性批判』(1960年)において、実存主義マルクス主義の内部に包摂することによって、史的唯物論を再構成し、ヘーゲル‐マルクス的な歴史主義とデカルト‐フッサール的な人間主義との統合を主張していた時代であったが、構造主義は、無意識的・潜在的な構造的規定要因によって主体そのものやその判断およびその可能な選択肢が構成され、あるいは少なくとも制約されているとして、マルクスの上部構造/下部構造、生産力/生産関係といった構造的な諸概念が実体化されていること、また、デカルト - フッサール的な近代的な主体を思想の前提として実体視していることを批判していた[5]

構造主義の祖とされるソシュール自身は構造という用語を用いておらず、自身の理論を言語学以外の分野に拡張することにも慎重であったが、クロード・レヴィ=ストロースは、これを人類学に応用し、近代的な知と異なる野生の思考があることを示したのであった。サルトルの実存主義は、レヴィ=ストロースとの論争を通じて急速に衰退し、構造主義が勃興していった。構造主義によれば、現象の背後にある構造を分析することによって、あるシステムの内的文法をとりだすことができ、各システムはそれにしたがって作用する。そこでは、あらゆるものが予想可能になり、偶然性や創造性といったものが排除されてしまうのである。いわゆるポスト構造主義の論者とされる者たちは、構造主義のもつ、構造を静的で普遍的なものとし、差異を排除する傾向に対して、それは西洋中心のロゴス中心主義であるとして異議を申し立てたのである。

そのような状況下において、『ポストモダンの条件』(1979年)を著したリオタールによれば、「ポストモダンとは大きな物語の終焉」なのであった。「ヘーゲル的なイデオロギー闘争の歴史が終わる」と言ったコジェーヴの強い影響を受けた考え方である。例えばマルクス主義のような壮大なイデオロギーの体系(大きな物語)は終わり、高度情報化社会においてはメディアによる記号・象徴の大量消費が行われる、とされた。この考え方に沿えば、“ポストモダン”とは、民主主義科学技術の発達による一つの帰結と言える、ということだった。

このような文脈における大きな物語、近代=モダンに特有の、あるいは少なくともそこにおいて顕著なものとなったものとして批判的に俎上に挙げられたものとしては、自立的な理性的主体という理念、整合的で網羅的な体系性、その等質的な還元主義的な要素、道具的理性による世界の抽象的な客体化、中心・周縁といった一面的な階層化など、合理的でヒエラルキー的な思考の態度に対する再考を中心としつつも、重点は論者によってさまざまであった。したがって、ポスト・モダニズムの内容も論者や文脈によってそうとう異なり、明確な定義はないといってよいが、それは近代的な主体を可能とした知、理性、ロゴスといった西洋に伝統的な概念に対する異議を含む、懐疑主義的、反基礎づけ主義的な思想ないし政治的運動というおおまかな特徴をもつということができる[6]

様々な“ポストモダニスト”

“ポストモダニスト”と言っても、人が自らを指して“ポストモダニスト”だ、と言っているのではないことに注意する必要がある。あくまで一部の評論家が“ポストモダニスト”と形容しただけのことである。

それでも参考までに“ポストモダニスト”を挙げるならば以下のようになる可能性はある。

この人々のなかで自らの概念として「ポストモダン」を引き受けたのはリオタールだけである。フーコーやドゥルーズなどは、この言葉に強い嫌悪を表明した。

文学

参照: ポストモダン文学

社会学

社会学では、ポストモダン哲学の影響を強く受け、従来の部分/全体の二元論的発想、近代的自我に根ざした社会分析を離れつつも、難渋かつ抽象的な哲学論議に深入りすることなく、「主体の脱中心化」のテーマに則った経験的記述の方法論が彫琢されている。

代表的には、「アクターネットワーク理論」のブルーノ・ラトゥール、「移動と場所の社会学」のジョン・アーリ、「非表象論」のナイジェル・スリフト、そして、レジス・ドブレに始まるメディオロジーを挙げることができる。

法学

法学では、ポストモダン哲学の影響を受けて、懐疑主義的なポストモダン法学がある。そこでは、従来の法学ではその前提を疑われることはほとんどなかった、法の中立性や自由にも重大な疑問が向けられる。

批判

ポストモダンに対しては、それ自体はプロパーな科学の領域にあった構造主義を哲学や思想が継承した経緯をさして、アナロジー類推)で一部借用したにすぎない、との批判がなされた。また、物理学者ソーカルによって、いわゆるポストモダニストやカルチュラル・スタディーズを標榜する人々が、衒学的であり(読者がわからないことをいいことにデタラメな数式で根拠づけており)、行き過ぎた相対主義である、として非難された(ソーカル事件参照)。

社会学者の富永健一は、『近代化の理論』(講談社学術文庫)で、産業化、民主主義化といった近代を成立させる条件は、いかなる意味でもなくなっておらず、ポストモダンという時代はまったく到来してはいないと批判している。

  • 『「知」の欺瞞―ポストモダン思想における科学の濫用』アラン・ソーカル著(岩波書店、2000年)
  • 『アナロジーの罠―フランス現代思想批判』ジャック・ブーヴレス著(新書館、2003年)
  • 福田和也と“魔の思想”―日本呪詛(ポスト・モダン)のテロル文藝』中川八洋著(清流出版、2005年)

ポストモダンの思想家(評論家)は、ポストコロニアリズムカルチュラル・スタディーズから、非西洋文化圏への強い偏見が残っていると指摘され、批判された。

なお、ヨーロッパ史では、1989年東欧革命ベルリンの壁崩壊を境に「近代」と「現代」に分けるべきだという議論が行われており、この議論に従えば、「近代」に対する批判から発生した1960年代以降のポストモダンが「近代」の事象の1つになるという一種の矛盾が生じることになる。

脚注

注釈

出典

  1. 1.0 1.1 「ポストモダン」 - 大辞林 第三版、三省堂。
  2. 2.0 2.1 「ポストモダニズム」 - デジタル大辞泉、小学館。
  3. 平野和彦「ポスト・モダニズム」
  4. スチュアート・シム『ポストモダニズムとは何か』pp.5-6
  5. 足立和浩「構造主義」
  6. スチュアート・シム『ポストモダニズムとは何か』pp.21-27

参考文献

関連項目

外部リンク