ヘンリー1世 (イングランド王)

提供: miniwiki
移動先:案内検索

ヘンリー1世Henry I, 1068年 - 1135年12月1日)は、ノルマン朝第3代イングランド(在位:1100年 - 1135年)。ノルマンディーアンリ1世(Henri I, 在位:1106年 - 1135年)でもあった。通称は碩学王(せきがくおう:Henry I, Beauclerc)。

イングランド王ウィリアム1世(征服王)とフランドル伯ボードゥアン5世の娘マティルダアルフレッド大王マーシアオファの子孫)の四男。ロベール2世ウィリアム2世の弟。子にマティルダ等。後にプランタジネット朝を開くヘンリー2世外孫に当たる。

生涯

即位前の活動

父の死後、長兄のロベール2世(英語ではロバート、短袴公(curthose)というあだ名を持つ)がノルマンディー公領を、三兄のウィリアム2世がイングランド王国を相続したが、ヘンリーは金銭のみを相続した。領地を持たない王子として、兄2人の争いを助長したり、金に困ったロベール2世からノルマンディーの領地を購入したりし、影響力の増大を図ったが、ヘンリーの行動を警戒した兄2人が和解して共同でヘンリーを攻撃したため、これに屈服した。以降ウィリアム2世の家臣として隠忍自重していたが、1100年にウィリアム2世が狩猟場で亡くなると、直ちに王宮に戻って即位した[1]

長兄との抗争

第1回十字軍に参加して不在中であったロベール2世は、ノルマンディーに戻ると王位を主張してイングランドに侵攻したが、ヘンリー1世はこれを防ぎロベール2世に王位を承認させた。1106年には逆にノルマンディーに侵攻し、ロベール2世を捕らえると、ウェールズカーディフ城に幽閉してその目を刳り貫き、ノルマンディー公領を手に入れた。海峡の両岸を押さえたことにより、イングランドを不在にすることが多くなり、王不在のイングランドを統治するための行政機構を整備したとされる。

政策

ヘンリー1世は有能な支配者で、即位すると大憲章(マグナ・カルタ)の祖とも言われる戴冠憲章(Charter of Coronation (Liberties))を定め、巡回裁判を広く行い「公正の獅子」(Lion of Justice)と呼ばれるように領内を良く治めたとされる。良く治めたという評価は、兄の急死を受けて即位した彼の立場の弱さが、大貴族に対する妥協を生んだ結果、彼等と対立しなかった(むしろ対決できなかった)だけであり、議会重視の立場を取る歴史家達の評価である(逆に大貴族と対立することが専制の証となり無能の烙印を押されがちである)。また、彼の学究的な態度からボクレール(beauclerc、碩学王)の渾名を持つ。

さらにサクソン王エドワード懺悔王の姪の娘マティルダスコットランドマルカム3世の娘:幼名イーディス)と結婚するとノルマン人アングロ=サクソン人の和解を目指し、エドワード懺悔王時代の法の復活を宣言した。また、カンタベリー大司教アンセルムスと和解し、ウィリアム2世の代から続いていた教会との聖職叙任権問題を解決した[2]

外交では、神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世に娘のマティルダ(通称「モード」)を、長男ウィリアムにアンジューフルク5世の娘をそれぞれ結婚させ、これらと同盟を組み、ロベール2世の息子ギヨーム(ウィリアム)・クリトー(クリトーはラテン語で貴公子・王族・王子を意味する)を支援するフランスルイ6世に対抗した。また、ウェールズに侵攻し、これを臣従させている。

グレゴリウス改革に対して

聖職者妻帯(ニコライムス)と聖職売買(シモニア)をとりしまろうとしたグレゴリウス改革に関して、聖職者妻帯に関しては、罰金を課しその罰金を対ノルマンディー戦に流用するつもりだったらしく、厳しく取り締まろうとしなかった。ヘンリー1世の側近ソールズベリ司教ロジャーなども妻帯していた。

聖職売買に関して、俗人による聖職叙任が問題となった大陸諸国の様子を踏まえて、司教叙任の際に国王の同意が必要と言う条件だけを確保した。以前の王達と違い、修道士出身の司教よりも在俗聖職者を司教にすることが多く、特に、自らの詔書局(大抵は宮廷礼拝堂付き司祭)で働いた聖職者達をノルマンディーやイングランドの司教に転出させ、その働きに報いた。

後継者問題

このような施策により、イングランド王権は強化され、国内は安定したが、晩年には王位継承問題に苦しんだ。

ヘンリー1世には20人を超える庶子がいたが[3]、相続権を持つ嫡子はマティルダとウィリアムの2人きりだった。1120年、ウィリアムを船の遭難事故(ホワイトシップの遭難)で失い[4]、最初の妃マティルダは1118年に死去していたので、新たな世継ぎを儲けるためにアデライザ・オブ・ルーヴァン(娘のマティルダより1歳年下)と再婚したが、結局若い王妃は妊娠しなかった。

このため、ハインリヒ5世に先立たれていたマティルダを1127年にイングランドに呼び戻して後継者に指名したが、ヘンリー1世の死後マティルダは夫のアンジュー伯ジョフロワ4世、異母兄のグロスター伯ロバート(ヘンリー1世の庶子)と共に従兄のスティーブン(ヘンリー1世の姉の子)と王位を争い、イングランドを無政府状態(アナーキー)に導くことになる。

系図

テンプレート:イングランド王室ノルマン朝以降

伝承

ビタミンAを大量に含むことから、度を超えて摂取すると健康を害しうる、ヤツメウナギの料理の食べ過ぎで死亡したとされる伝説[5]がある。

子女

マティルダ・オブ・スコットランドとの間に1男1女があった。

1121年に結婚したアデライザ・オブ・ルーヴァンとの間には子がいなかった。

以下を含め20人以上の庶子を儲けた。

  • ロバート(1090年頃 - 1147年) - グロスター伯
  • レジナルド(? - 1175年) - コーンウォール伯
  • シビラ(1092年頃 - 1122年) - スコットランド王アレグザンダー1世と結婚
  • マティルダ(1090年? - 1120年) - ペルシュ伯ロトルー2世と結婚、ホワイトシップの遭難に遭い死去。
  • マティルダ - ブルターニュ公コナン3世と結婚
  • コンスタンス - メーヌ子爵ロスラン・ド・ボーモン(fr)と結婚。孫エルマンガルド・ド・ボーモンはスコットランド王ウィリアム1世と結婚
  • アリス - フランス軍総司令官マチュー・ド・モンモランシーと結婚

脚注

  1. 森、p. 28
  2. 森、p. 30
  3. 森、p. 32
  4. 森、p. 34
  5. 『アングル人の歴史(Historia Anglorum)』,12世紀,ヘンリー・オブ・ハンティングドン

参考文献

  • 森護 『英国王室史話』 大修館書店、1986年
  • Alison Weir, Britain's Royal Families, Vintage, 2008.

関連項目


テンプレート:ノルマンディー公