フリードリヒ・ヨシアス・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト
フリードリヒ・ヨシアス・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト(ドイツ語: Friedrich Josias von Sachsen-Coburg-Saalfeld、1737年12月26日 - 1815年2月26日)は、オーストリア帝国の軍人。最終階級は陸軍元帥。
ベルギー王レオポルド1世の大叔父に当たり、イギリス女王ヴィクトリアはヨシアスの子孫である。
経歴
幼少期
ヨシアスは1737年12月26日にザクセン=コーブルク公国のエレンブルク宮殿に生まれる。父はザクセン=コーブルク=ザールフェルト公爵フランツ・ヨシアス、母はアンナ・ゾフィア・フォン・シュヴァルツブルク=ルードルシュタットであり、彼は末子だった。
軍歴
1759年にオーストリア軍へ陸軍大佐として入隊し、七年戦争などに従軍した。1787年からの露土戦争ではエルンスト・ギデオン・フォン・ラウドンの軍団の指揮にあたり、モルダヴィア公国やベッサラビアのホトィンを占領、またフォクシャニの戦いではアレクサンドル・スヴォーロフとともにオスマン帝国の大宰相コジャ・ユスフ・パシャ率いるオスマン軍を破るなどの活躍を見せた。また、ルムニクの戦いではオスマン軍を壊滅させ、ブカレストを含むワラキアの大部分を占領し、ハプスブルク君主国側に併合させた。
フランス革命戦争が勃発すると、ヨシアスは1793年からオーストリア領ネーデルラント陸軍の司令官に就任し、第一次対仏大同盟軍に合流した。彼は1793年3月のネールウィンデンの戦いで勝利をおさめ、ネールウィンデンをオーストリアの支配下に置いた。フランス入城後はヴァランシエンヌなどの都市を押さえたが、地理上の制約により彼の軍は大同盟軍と切り離されてしまった。そのためフランス革命軍の反撃を受け、1794年のフルーリュスの戦いで大敗北を喫した。これを機に彼はオランダを去り、同時に陸軍元帥を退位した。
ヨシアスはワラキアにおいて一般人であるテレーゼ・ヴェッティンと出会った。1789年9月24日、彼女はロマンで彼との子を出産し、フリードリヒと名付けた。コーブルクに帰った後、二人は結婚している。1808年8月25日、オーストリア皇帝によってフリードリヒは貴族に列せられ、1853年2月17日にはザクセン=コーブルク=ゴータ公エルンスト2世からフライヘア・フォン・ローマンの名が贈られている。しかし、フリードリヒは貴賤結婚によって生まれた子であることを理由に、ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公の跡を継ぐ道が閉ざされてしまった。
系図
参考文献
- Meyers Konversations-Lexikon of 1888–89. In turn, it cites:
- A. von Witzleben, Prinz Friedrich J. von Koburg-Saalfeld, Herzog zu Sachsen, Berlin, 1859