フェニックス通り (大阪府堺市)
フェニックス通り(フェニックスどおり、英:Phoenix Street)は、大阪府堺市堺区にある幅員約50メートル(m)の大通り。別名:「宿院通り」、「宿院大通り」。住吉橋以西は「住吉橋通り」ともよばれる。日本の道100選のひとつ。
概要
堺市中心街の国道26号と国道310号のうち、大浜北町(大浜北町交差点) - 翁橋町(一条通交差点)間の全長約1.5キロメートル(km)[1]、6車線の道路の愛称で、安井町交差点以西は国道26号、以東は国道310号のそれぞれ一部区間、また、重複して全線大阪府道2号大阪中央環状線の一部区間である。中央分離帯に植栽されたフェニックス125本が通行者や市民らに親しまれたことから、「フェニックス通り」と呼ばれるようになった。1日の交通量は5万8000台に上り、臨海地区の堺旧港と市中心部にある仁徳天皇陵とを結ぶ[1]。
1986年(昭和61年)8月10日の道の日に、旧建設省と「道の日」実行委員会により制定された、「日本の道100選」にも選ばれており[2]、1994年(平成6年)には、読売新聞社選定の「新・日本街路樹100景」(1994年)のひとつに選定されている[3]。
歴史
もとは、大小路を除く他の横筋と同じく3間幅の細い道路で、東西双方向から宿院頓宮に突き当たる(境内に入る)ため、現在のように貫通していなかった。1912年(明治45年)に阪堺電気軌道大浜支線敷設によって、宿院停留場 - 川尻停留場間がやや拡幅されたが、南側の専用軌道へ迂回する川尻停留場以西および宿院停留場以東はほとんど旧態依然であった。
第二次世界大戦中にあった1945年(昭和20年)の堺大空襲により、5次にわたる空襲を受けて沿道は壊滅的な被害を受けたが、戦後に戦災都市の指定を受け、戦災復興都市計画によって、道路は東西南北の碁盤の目状に整備されることとなり[1]、フェニックス通りは、東西の幹線道路として防災に主眼を置いた幅員50 mの大通りへ拡幅される運びとなった。1946年(昭和21年)に着工されて、1959年(昭和34年)には全線開通して、当時は50 mの幅員を持つ道路として話題となった[1]。
亜熱帯植物のフェニックスは、敗戦で消沈していた堺市民の気持ちを明るくしようと、1955年(昭和30年)9月に堺ロータリークラブが寄付金を集めて[1]、1956年(昭和31年)3月に復興の象徴としてフェニックスの苗木126本を宿院 - 住吉橋間に植樹し、その後、東西方向へ植栽が続けられたものである。1956年の植栽を祝って、堺市出身の詩人である安西冬衛の詩が刻まれた記念碑が建てられており、碑には「ここに緑なす火の鳥の樹を栽えます 万人の生命のために 千年至福の希い われらの善意と愛情をこめて」と記されている[1]。
街路樹の成長に合わせて「フェニックス通り」の愛称が定着するようになった。1970年(昭和45年)頃から大阪中央環状線や第二阪和国道が建設され、堺市街の東西幹線道路としての価値が向上した。1989年(平成元年)に市制100周年記念事業の一環として、フェニックス通りの道路愛称が堺市から与えられた。