ピウス11世 (ローマ教皇)
ピウス11世(Pius PP. XI、1857年5月31日-1939年2月10日)はローマ教皇(在位:1922年2月6日-1939年2月10日)、カトリック教会の司祭。本名 アキッレ・ラッティ(Achille Ratti)。二つの世界大戦のはざまの時期にあって、19世紀以来とだえていた諸国と教会の関係正常化をはかった。ピオ11世とも表記される。
生涯
オーストリア帝国のロンバルド=ヴェネト王国デージオで工場経営者を父に生まれたアキッレ・ラッティは、第一次世界大戦中の1917年から18年、教皇訪問使節としてポーランドとロシアに派遣された[1]。1919年には駐ワルシャワ大使として赴任したが、同年2月にポーランド・ソビエト戦争が勃発すると、危険を冒して大使館に留まり、教皇のメッセンジャーとしてカトリック国ポーランドを支援した[2]。後に要職であるミラノ大司教を経て、1922年2月に教皇に選出された。長く外交分野で働いたが、本来は学者で、諸言語に通じ、古代以来のさまざまな神学的著作に精通していた。ピウス11世を名乗るラッティは、教皇として文化と政治の両面で目覚しい働きをしている。バチカンの絵画館、ラジオ局、そしてローマ教皇庁科学アカデミーは、すべてピウス11世のもとでつくられたものである。
政治的にはラテラノ条約をはじめとする政教条約の締結で知られる。19世紀以来、バチカンはイタリア政府と断絶状態であったが、ピウス11世はこれを解決すべくムッソリーニと交渉し、1929年2月11日ラテラノ条約が結ばれた。これはバチカンがイタリア政府を認め、同時にイタリア政府もバチカンを独立国として認めるというものであった。これによって「ローマの囚人」状態が解消され、世界最小の国家バチカン市国が成立した。それは同時に、かつてよりバチカンが求めていた広大な教皇領の返還をあきらめるということを意味していた。このとき、教皇領の代償として7億リラが支払われ、以後の教皇庁の財源となったという。ムッソリーニ政権下のイタリアとバチカンの関係は必ずしも良好ではなく、1931年には回勅『ノン・アビアモ・ビゾーニョ』(『我々は必要としない』)で公式にファシスト党を非難している[3]。
ナチス台頭以前のドイツではカトリック系のドイツ中央党が政治に大きな影響を与えており、ドイツ・カトリックの関係者が国政に参加することも珍しくなかった。そのため、ナチスとカトリックは対立関係にあり、ドイツの司教はナチス関係者の洗礼を拒否することもあった[4]。しかしナチス台頭後、ドイツ中央党党首フランツ・フォン・パーペンがナチスに接近、33年にナチスが政権を握った時、フォン・パーペンは副首相に就任し、ピウス11世は正式にナチス政権を認めた。そして、ドイツ中央党はいわゆる全権委任法に賛成し、ナチスとカトリックの協力関係が築かれた。1933年7月にはドイツとバチカンでライヒスコンコルダートが結ばれ、ナチス政権はカトリックの保護を約束し、教会は聖職者の政治活動を禁じた。カトリック教会がナチスを容認した理由は反共産主義で一致していたこと、ドイツ領内のカトリック教徒の保護とバチカンの保護などがあげられる。
しかしナチスは政教条約を無視し、カトリック教会による青年運動などを禁止し、カトリック教会との対決姿勢を鮮明にした。これに対して教皇は1937年の回勅『ミット・ブレネンダー・ゾルゲ』(『とてつもない懸念とともに』)で、ナチスが人種・民族・国家を神格化していると非難し、その非人道的行動を非難した[5]。また、社会主義に対しても批判的な態度をとり、1937年の回勅『ディヴィニ・レデンプトーリス』(『聖なるあがない主』)では共産主義を容認できないものとして弾劾している。
ピウス11世は、超世俗的位置を堅持していたカトリック教会の壁を破って、現実社会に関心を持ち続けた。これは上記のファシスト諸国とのかかわりだけでなく、労働者の尊厳を訴えた回勅『クアドラジェジモ・アンノ』(1931年)にもあらわされている。
教会的には「王であるキリスト」の祝日を定めた。これはキリストの支配が国家や主義を超えて世界と人間の全生活に及ぶと宣言することで、政治的な次元を超えるキリスト教の精神を再確認したものであった。
中世以来のバチカンの世俗国家的姿勢を捨てて、現代世界におけるカトリック教会のありかたを模索したピウス11世は第二次世界大戦が約7ヶ月後に迫る1939年2月10日に世を去った。
脚注
参考文献
- 松本佐保 『バチカン近現代史』 中公新書、2013年