パラマウント映画

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パラマウントピクチャーズコーポレーション(Paramount Pictures Corporation)は、アメリカ映画会社映画スタジオのひとつ。

概要

1912年にアドルフ・ズーカーが設立した「フェーマス・プレーヤーズ」を源流とし、その後「フェイマス・プレイヤーズ・ラスキー・スタジオ」と呼称して、1927年に「パラマウント」に社名を変えた。ただしパラマウントはもともと1914年にW・W・ホドキンスンが設立した映画配給会社[1]の社名であり、アドルフ・ズーカーのフェーマス・プレーヤーズが製作した映画の多くを配給していた会社であった。そして1916年にズーカーがこの配給会社の実権を握り、同じ年に1913年に設立された「ジェシー・L・ラスキー・フィチャー・プレイ・カンパニー」と「フェーマス・プレーヤーズ」と合わせて3社が合併して「フェイマス・プレイヤーズ・ラスキー・スタジオ」となり、その後社名を「パラマウント」にしたものである。

アメリカ映画界で設立当初から大手メジャー会社として君臨し、製作と配給部門を掌握したズーカーがやがて劇場の買収を進め、アメリカの映画史上初めて製作・配給・興行の垂直統合を実現して、徹底したスターシステムと豪華主義でサイレント時代から映画界をリードしていたが、大恐慌時には破産宣告を受ける。しかし1935年頃に再建して後には都会派コメディーに力を入れて復活した。1966年には石油資本のガルフ-ウェスタンの傘下となり、1994年には大手ケーブル会社バイアコム(現・CBSコーポレーション)に買収されて今日に至っている。大型画面が盛んとなった1950年代に独自にワイドスクリーンのビスタビジョン(ビスタサイズ)を開発したことでも知られる[2]

沿革

  • 1912年 - アドルフ・ズーカーが「フェーマス・プレーヤーズ」を設立する。
  • 1916年 - 映画製作会社「ジェシー・L・ラスキー・フィチャー・プレイ・カンパニー」(1913年に設立)と合併し、「フェイマス・プレイヤーズ・ラスキー・スタジオ」となる。
  • 1927年 - 社名を「パラマウント」に改称する。
  • 1933年 - 財政難で破産宣告。
  • 1935年 - 会社再建。
  • 1948年 - 最高裁から独占禁止法に触れるとする判決を受ける。
  • 1949年 - 前年の最高裁判決を受けて興行部門を分離する。
  • 1957年 - 1948年以前の大部分のトーキー作品の版権(『我輩はカモである』、『誰が為に鐘は鳴る』、『失われた週末』等)をEMKAMCAレコードの子会社)に売却。これらの版権は現在、ユニバーサル映画が保有する。
  • 1966年 - コングロマリットのガルフ-ウェスタン社に買収される。
  • 1994年 - バイアコム(現・CBSコーポレーション)に買収される。
  • 2003年 - 福岡市の遊戯施設運営会社・日本トレイドが、福岡県久山町にパラマウント・ムービー・スタジオ・パーク・ジャパンの建設計画を発表。しかし、立ち消えとなる。
  • 2005年 - バイアコムは会社分割により、パラマウントやMTVなどを新しいバイアコムとして分離。この際、テレビ番組製作会社のCBSパラマウントテレビジョン(旧:パラマウントテレビジョン)はCBSコーポレーション傘下に残る。
  • 2009年 - 大阪の不動産ファンドがパラマウント・ピクチャーズと共同で、吹田市エキスポランド跡地にリゾート施設「パラマウント・リゾート大阪」を構想する計画を発表(但しこの土地は三井不動産[3]が落札したため計画は白紙となった)。
  • 2015年 - 第33回ゴールデングロス賞・全興連特別賞(外国映画部門)を受賞。

創業者アドルフ・ズーカーの逸話

東欧系ユダヤ人としてハンガリーで生まれたアドルフ・ズーカーen:Adolph Zukor)は移民労働者からハリウッドのタイクーンになった人物である[4]

彼は若くして新大陸に渡り、モップ拭きからスタートして毛皮商として成功し、そして後に劇場王となる同業者の親友、マーカス・ロウ[5]に触発され、ボードビル会社を設立[6]。次いでニッケルオデオン興行から映画配給、映画製作へと進出した。

1912年、製作プロダクションの乱立で作品の質の低下に行き詰まりを感じたズーカーは、1906年頃にフランスに起こった、文学や戯曲の名作を当時の人気舞台俳優たちに演じさせて映画を作る芸術映画運動(フィルム・ダール)[7]に注目して、フランスに行き、当時舞台での大女優サラ・ベルナールを口説き落として全財産を注ぎ込んで製作したのがサイレント映画の大作「エリザベス女王」で、これをアメリカに逆輸入して大ヒットさせた。ズーカーはこれに力を得て同年映画スタジオを設立、「・・有名な戯曲を有名な俳優によって映画に・・」(あるいは「・・名優を名作で・・」[8])をキャッチフレーズにフェーマス・プレーヤーズと名付けた[9]

この時ボードビリアンのジェシー・ラスキー、手袋商のサミュエル・ゴールドフィッシュ[10](後にゴールドウィンと改名)、当時脚本家で後に大プロデューサーとなるセシル・B・デミルらと組んで、翌1913年にハリウッド初の長編映画「スクォー・マン」を製作する[11]

さらには、D・W・グリフィスが『國民の創生』(1915年)、『イントレランス』(1916年)を次々発表。ズーカーの経営手腕は凄まじいもので、人気スターの出演作を次々購入・製作し、市場を奪われた興業者たちの間では「ズーカーを止めろ!」が合言葉になる程であった。20年半ばでの収益はフォックスの2倍、ユニバーサルの3倍、ワーナーの5倍に及んだ[12]。やがて、ズーカーとラスキーはそれぞれの会社と新興の配給会社パラマウントを併合して、フェイマス・プレイヤーズ・ラスキー・スタジオとなり、それが今日のパラマウント・ピクチャーズとなった。

オープニングロゴ

ファイル:DarioCampanile.Paramount.jpg
パラマウントスタジオが75周年を迎えた際、画家のDario Campanile(写真右)によって、ロゴが手直しされた。この原画はパラマウントスタジオに展示されている。

パラマウントといえば、映画の冒頭に映し出される山と星のオープニングロゴを創業以来一貫して使用していて、雪が残るピラミッド形の山頂(マジェスティック・マウンテンと呼ばれている)を、22個の五芒星蹄鉄形に囲んだものである。

  • パラマウントとはカリフォルニア州ロサンゼルス近郊のハリウッドの地名からきているが、「最高」「至上」の意味もあり、マウント(山)をパラ(超えて)の意味を込めて会社マークの図案が作られたと言われている[13]
  • この星マークはかつて専属スターの数を表して、当初は24個[14]だったが、1974年に現在の22個となった。「まさに綺羅星のごとく輝く星を山の上に並べて、1年12か月常に男優女優を合わせたオールスターが山の頂点にいる、満天の夜空にかがやく星の数だけ世界の頂点に立つスターがいる」[15]という意味である。しかしなぜ24個が22個に減らされたのか詳らかではない。
  • 描かれている山は実在するものではない。パラマウントの社名の元となった配給会社を作ったウィリアム・ホドキンソン (en:William Wadsworth Hodkinson) が、ユタ州の山をイメージして描いたため、ワサッチ山脈のベン・ローモンド山 (en:Ben Lomond Mountain (Utah)) がモデルと言われている。[16]
  • 以前は山に雲が通り過ぎ、ブルーの絵に変わる平面アニメーションであったが、現在は3DCGアニメーションとなっている(CGアニメーション版は1984年頃にピクサー・アニメーション・スタジオが製作したとされる)。また、ロゴ中の文字も以前は「A Paramount Picture」もしくは「A Paramount Release」が同一書体で書かれていたが、現在は「Paramount」のみが残され、その下に「A VIACOM COMPANY」の文字が配されている。
  • 空から星が降臨し、「Paramount」の文字がフェードイン、その後星が山を囲い、その下に「A VIACOM COMPANY」の文字がフェードインする。

パラマウント訴訟

アメリカの映画史を語る場合に、1948年の「パラマウント訴訟」[17]を外すことはできない。パラマウントの創業者のズーカー、フォックスの創業者ウイリアム・フォックス、ユニバーサルの創業者カール・リームル、MGMの創業者のルイス・B・メイヤーとマーカス・ロウ、そしてワーナー兄弟らは最初は映画興行者としてこの世界に入った。そして彼らはやがて映画興行の分野から配給業者として配給の分野を抑えて、やがて映画製作の分野に進出した。そして製作・配給・興行の三部門をいずれも自社で賄い、特に映画館をそれぞれが自社の傘下に入れて、ほぼ市場を独占して寡占化の状態となった。

こうした製作・配給・上映を垂直に統合した構造的連携は前例のない競争力を発揮して、製作者は作っても上映されない不安はなく、映画館は毎週のプログラムに穴があくような作品不足を心配することはなく[18]、配給者は製作側と上映側との調整で効率的に宣伝活動が行える体制が出来上がった。こうした製作・配給・上映を連結させた垂直統合構造[19]が主流となり、これに最も尽力したのがアドルフ・ズーカーでパラマウントは早い時期からアメリカの映画会社のメジャーとなった[20]

1940年代にはアメリカ映画界のメジャー会社としてパラマウント、MGMワーナー・ブラザースRKO20世紀フォックス[21]のビッグ5と、ユニバーサルコロンビアユナイトのリトル3を合わせて8社が挙げられていた。この当時パラマウントは破産と再建を経て筆頭会社に挙げられていたのである[22]。それは一方で、ビッグ5と呼ばれた各社が独自の配給網を使って傘下の映画館には自社のA級作品を優先的に卸して独立系の映画館には人気の無い作品を高額で卸し、また独立系プロの製作した作品は自社の映画館には卸さない差別的な商法[23]でもあったので、このことで苦情や抗議が相次ぎ、1938年に司法省がビッグ5のメジャー5社に対して独占禁止法に触れるとして訴えを起した。これが筆頭会社の名をとって「パラマウント訴訟」[24]と今日では呼ばれているものである。

訴訟は第1次と第2次の訴訟で裁判が長引き、地裁、高裁を経て最高裁が差し戻し、1948年に地裁で独占禁止法に触れるとする判決が出されて、まずRKOが同年11月、パラマウントは1949年3月に判決に同意した[25]結果、この判決のため、各社とも自社で抑えていた劇場網である映画館を手放さざるを得なくなった[26]。これによってメジャー各社は最大の収益源であった劇場を手放すことになり、興行側が自由に競争できるフリー・ブッキング制に移り、またテレビの登場で観客数の減少傾向になったことで、映画会社は余裕があった時代には製作できた「B級映画」を削減せざるを得なくなり、1本の作品にかける大作主義をとるようになった。それは当然製作本数の激減を生み、監督やスタッフ、俳優の需要が減り、やがて映画製作の本拠地であったハリウッドのスタジオが閑古鳥に泣く事態となり、ハリウッドが生まれてから続いた「スタジオシステム」を崩壊させて、映画の都ハリウッドの変貌をもたらすことになった。

「次世代DVD」への対応

HD DVDBlu-ray Disc(以下“Blu-ray”)がDVDの後継フォーマットを巡って争った、いわゆる当時の「 次世代ディスク(次世代DVD)戦争 」では、パラマウントは、当初HD DVDのみを支持していた[27]が、Blu-rayの生産コストがDVDとほとんど変わらなくなったことを受け、2005年10月には、ワーナー・ブラザースと共に両フォーマットを支持する方針に転換して、Blu-ray版ソフトのリリースを開始。その結果もあり、フォーマット争いはBlu-ray有利で進んでいた。

2007年8月20日、パラマウントは突如として再びHD DVD版のみをリリースする方針に転換する事を発表、発売を控えていた複数のBlu-rayタイトルが発売中止。既発売のBlu-ray版ソフトも出荷が停止された[28]。俗に“パラマウントショック”などと呼ばれた本件に対して、当時パラマウントのヒット作である『トランスフォーマー』の監督・マイケル・ベイなどを筆頭とした各クリエーターや識者は、パラマウントの方針を強く非難した。[29] また、規格争い終結後、ドリームワークスのCEOが、「皆さんがご存知のように、我々はHD DVDのみを独占的にサポートすることで多額の補償を受けていた」と、ロイターの取材で公言している。[30][31]

その後、2008年1月4日に、ワーナーがソフトリリースをBlu-rayに限定すると発表したことで、HD DVD市場が急速に終息化、2月19日には、東芝がHD DVD事業を全て終了すると発表。パラマウントも、2月21日にBlu-ray Discに再参入することを発表し[32]、“ パラマウントショック ”から始まった迷走は、終焉を迎えた。

日本市場でもパラマウント本社の意向を受ける形で日本法人が動いた事もあり、概ね同じ経緯でHD DVD/Blu-ray版ダブルリリース → 既発売Blu-ray版ソフトのリリース停止 → HD DVD版生産終了 → Blu-ray版ソフトリリース復活、という流れになった。
2008年7月25日には、BOXを含む6タイトル、8作品のBlu-ray版ソフトが再リリースされ、HD DVDのみで発売されていたタイトルも相次いでBlu-ray化された。

日本法人

戦前に日本法人のパラマウント映画日本支社(初代)を設立し、「パラマウント映画チェーン」という独自の洋画興行チェーンなどで上映していたが、1931年に興行部門を同業他社の松竹の洋画興行部門「松竹座チェーン」と合併、松竹パ社興行社とし、共同で「SPチェーン」を営業していたが、1933年に興行を撤退。以降も日本支社は存続し、各映画館に配給していたが、1941年12月8日真珠湾攻撃によって太平洋戦争が開戦したため、解散。

1946年セントラル映画社の設立によって映画配給を再開、同社が解体された1951年末にパラマウント映画日本支社(2代目)を設立。その後、日本支社は解散。

日本支社解散後、米国外ではユニバーサルと提携関係にあったことから、日本では、映画配給はユナイテッド・インターナショナル・ピクチャーズ(UIP)、ビデオソフト販売はユニバーサル、日本ビクターとの合弁会社として1984年1月20日に設立されたCIC・ビクター ビデオ株式会社によって行われてきた。

しかし、ユニバーサルがユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン(UPJ、現NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン)を設立、ビデオソフト部門を移管したため、2002年にパラマウントがCIC・ビクターを子会社化。さらにUIP日本法人の解散(2007年12月末)に伴い、2008年より再び自社による映画配給を開始した。

ビデオソフト部門は「パラマウント ジャパン ホームメディアディストリビューション部門」(PHMDJ)、映画配給部門は「パラマウント ピクチャーズ ジャパン」の名称を用いる。

2015年10月8日、東宝東和とパラマウントが新たに劇場配給契約を締結。これまでの自社配給に代わり、2016年2月1日から東宝東和の新子会社「東和ピクチャーズ」がパラマウント作品の劇場配給を行うことを発表した。映像ソフトの販売も2016年1月1日からNBCユニバーサル・エンターテイメントジャパンに移管した。それに伴い、パラマウント・ジャパン合同会社は解散した。

沿革

  • 不明 - パラマウント映画日本支社(初代)設立。
  • 1941年12月8日 - 日本支社(初代)解散。
  • 1951年末 - パラマウント映画日本支社(2代目)を設立。
  • 不明 - 日本支社(2代目)解散。
  • 1984年1月20日 - CIC・ビクター ビデオ株式会社を設立。
  • 2002年6月 - パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン株式会社(PHEJ)に社名変更。パラマウント作品のコンテンツ配給・ビデオソフトの製造、販売に特化。
  • 2007年9月1日 - 映画配給部門を設立。社名をパラマウント ジャパン株式会社に再度変更。
  • 2008年1月 - 映画配給を開始。
  • 2010年11月13日 - 初の日本映画配給作品『ゴースト もういちど抱きしめたい』が公開される。
  • 2012年10月 - 社名をパラマウント・ジャパン合同会社に変更。
  • 2015年10月8日 - 東宝東和とパラマウントが劇場配給契約を締結し、2016年2月1日から東宝東和の新子会社「東和ピクチャーズ」がパラマウント作品の劇場配給を行うことを発表した。
  • 2016年1月1日 - 上記の事態を受け、NBCユニバーサルの日本法人(NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン)へ同作品の映像ソフト発売・販売権を委譲、会社解散。

主な映画

主なテレビドラマ

脚注

  1. 「世界映画大事典」680P 日本図書センター 2008年6月発行
  2. MOOK21「20世紀の映画」7P 長谷川正ほか著 共同通信社 2001年1月発行
  3. 万博記念公園に日本最大級の観覧車計画 三井不動産 - msn産経ニュースwest 2012年6月26日 [1] [2]
  4. MOOK21「20世紀の映画」8P 長谷川正ほか著 共同通信社 2001年1月発行
  5. 後にメトロ社を買収して、その後にサミュエル・ゴールドウィンのゴールドウィン社とメイヤー社の2社と合併してメトロ・ゴールドウィン・メイヤー即ちMGMを創立する。
  6. 当時は映画専門館はなく、演芸のボードビリアンの興行の合間に映画を上映する形態が普通で、したがって映画は屋外のテントや芝居小屋で上映されていた。そしてこのボードビル興行を請け負った人々がやがて映画興行に移り、ニッケルオデオンと呼ばれる映画小屋の経営に乗り出すことが多かった。
  7. この当時まで映画は娯楽であって庶民や移民労働者に支えられて、芸術とは見なされていなかった。1908年2月にフランスで芸術家による映画製作を目指すフィルム・ダール社が設立されて、その名の通り映画芸術を高めることを目的として同年「ギーズ公の暗殺」を製作して、出演はコメディーフランセーズの俳優たちで、この映画の伴奏音楽を当時の大作曲家サン・サーンスが作曲した。結局1年で会社は解散となったがフィルム・ダールの運動はその後も続いた。「映画史を学ぶクリティカル・ワーズ」54P フィルム・ダールの項 参照 村山匠一郎 編 フィルムアート社 2013年7月発行
  8. 「映画の夢、夢のスター」296P 山田宏一著 幻戯書房 2011年1月発行
  9. MOOK21「20世紀の映画」47P 長谷川正ほか著 共同通信社 2001年1月発行
  10. 後にゴールドウィン社を設立し、やがて合併してMGMとなる。
  11. MOOK21「20世紀の映画」9P 長谷川正ほか著 共同通信社 2001年1月発行
  12. MOOK21「20世紀の映画」8P 長谷川正ほか著 共同通信社 2001年1月発行
  13. 「映画の夢、夢のスター」298P 山田宏一著 幻戯書房 2011年1月発行
  14. 記念映画と思われるが特定の一時期に30個の星を使ったことがある。
  15. 「映画の夢、夢のスター」296P 山田宏一著 幻戯書房 2011年1月発行
  16. Paramount Film Preservation / STUDIO HISTORY / THE HISTORY OF THE PARAMOUNT LOGO
  17. あるいは「パラマウント判決」「パラマウント同意判決」とも呼称されている。
  18. こうした同じ製作会社からの作品を一手に引き受けて上映する固定したシステムをブロック・ブッキングという。これとは違って別の会社の作品をも上映するシステムをフリー・ブッキングといい、要は映画館側の興行者が自由に作品を選べる選択権の有無の違いである。日本はずっとブロック・ブッキング制が続いている。
  19. 日本は現在でもこの構造は残っている。
  20. 「ハリウッド100年史講義」81〜83P 北野圭介著 平凡社新書 2001年10月発行
  21. 創業者のウイリアム・フォックスはその後大恐慌で破産して会社を離れ、やがてワーナー・ブラザースから独立したダリル・F・ザナックが作った20世紀映画と1935年に合併して20世紀フォックスとなった。
  22. 「ハリウッド100年史講義」130P 北野圭介著 平凡社新書 2001年10月発行
  23. MOOK21「20世紀の映画」13P 長谷川正ほか著 共同通信社 2001年1月発行
  24. 資料によってはリトル3を含め8社が訴えられているとする資料もある。また第1次訴訟と第2次訴訟があり、1948年に第2次訴訟の決着がついた。
  25. そのため、これを「パラマウント同意判決」とも呼ばれている。なお他社もその後順次に判決に同意に、1952年2月に最後まで粘っていたMGMも同意して裁判は終わった。
  26. 「ハリウッド100年史講義」130P 北野圭介著 平凡社新書 2001年10月発行
  27. パラマウントの代表的コンテンツ製作子会社であるドリームワークス社も当時パラマウントと同時にHD DVD支持の意向を示した。
  28. スティーヴン・スピルバーグ監督作品は対象外となったが、限定的なBlu-ray発売はされなかった。
  29. この直後、「HD DVDのリーダーメーカーであった東芝がパラマウントと18ヶ月間の独占供給契約を結び、同時に1.5億ドルの“ 奨励金 ”が東芝から支払われた」との報道もあった。[3][4]
    独占契約について、東芝及びパラマウントは、現在に至るまで公式にコメントしていないが、東芝のHD DVD撤退後に、当時のドリームワークス社CEOが「東芝との間で結んだHD-DVD方式のみのDVDを販売する契約に依然拘束されている[5]とコメントしている事や様々な事象から、これらの契約や報奨金の授受はあったとの見方が一般的である。
  30. HD DVDに縛られるドリームワークス2008年2月26日 IT+media(日本語版・期限切れ)
  31. DreamWorks waiting for cue from Toshiba on Blu-ray2008年2月26日ロイター(元記事・英語)
  32. この時点でHD DVDソフトの去就は未定であったが、最終的にはHD DVDソフトは全て生産終了となった。

関連項目

外部リンク