ハンク・アーロン
ヘンリー・ルイス・アーロン(Henry Louis Aaron, 1934年2月5日 - )は、アメリカ合衆国のアラバマ州モービル出身の元プロ野球選手(外野手)。愛称は「ハマー(Hammer)」。
通算本塁打755本は、ベーブ・ルースを超え、2007年にバリー・ボンズに抜かれるまで33年間MLB歴代1位だった。ベジタリアンとしても有名である。
Contents
経歴
プロ入り前
子供時代は近くに野球チームが無く、道具もソーダの栓やぼろ布、ブリキの蓋などを使い、野球のまねごとをしていた。ジャッキー・ロビンソンの所属したブルックリン・ドジャースが2軍のチームと試合をするためにモービルを訪れた時、幼いアーロンは野球や人生について話すのを聞いた[1]。弟のトミー・アーロンも後にメジャーリーガーとなったが[2]、ハンクが殿堂入りした2年後(1984年)に白血病により亡くなっている。
ブレーブス時代
エド・スコットの仲介でニグロリーグのインディアナポリス・クラウンズに入団して、最初は遊撃手として力をつけ、ルーキー・イヤーの1952年に早速ボストン・ブレーブス(現・アトランタ・ブレーブス)のスカウトの目にとまり、契約を結ぶこととなる。この時、アーロンのバットの持ち方がクロスハンド(右打者の場合、構えたとき左手が右手より上になるバットのグリップ)なのに、凄いパワーの持ち主だと周囲を驚かせた。
ブレーブス入団後、チームはミルウォーキーにフランチャイズを移転したため、アーロンの所属チームの1年目は「ミルウォーキー・ブレーブス」である。
1954年にニューヨーク・ジャイアンツから移籍し左翼手のレギュラーと目されていたボビー・トムソン(1951年のナショナルリーグ優勝決定プレイオフ最終戦でサヨナラ3ランを放った選手)が、春季キャンプの練習試合で2塁へのスライディングの際に足首を骨折するアクシデントが発生。翌日の試合で左翼手で先発出場したアーロンは、本塁打を放ち、これをきっかけにメジャー契約を勝ち取った。当時は通算363勝の大エースウォーレン・スパーンや通算512本塁打の主砲エディ・マシューズを擁したチームだった。
1957年にはフレッド・ヘイニー監督に率いられ、ボストンマラソントレーニングのような地獄のキャンプを経て、「ミルウォーキーの奇跡」と呼ばれるナショナルリーグ優勝、ワールドシリーズ制覇を果たす。9月23日ミルウォーキーでのカージナルス戦、スコア2対2で迎えた延長11回裏、一死でジョニー・ローガンを一塁に置き、午後11時34分にアーロンはビリー・マフェットのカーブボールを叩くと、打球は中堅手ウォーリー・ムーンの頭上を越え、カウンティ・スタジアムのセンター後方にある「ペリニの森」に飛んでいくサヨナラ2ラン本塁打となり、チームは8連勝してリーグ優勝を決めた。9月24日にはシーズン44号満塁弾(通算110号)を放ち、本塁打と打点の二冠王となり、シーズンMVPを獲得。
同年のワールドシリーズはケーシー・ステンゲル監督率いる、ミッキー・マントルらを擁する強豪ニューヨーク・ヤンキースと対決。ニューヨークで対戦を開始し、ニューヨークでの第7戦までもつれこむ激戦となり、アーロンは3本塁打、7打点、11安打、22塁打、打率.393の活躍を見せ、チームはヤンキースを4勝3敗で破ってワールドチャンピオンとなり、ニューヨークでは「ド田舎が勝った」と評された。これがアーロンの唯一体験したワールドチャンピオンとなった(シリーズMVPはルー・バーデット投手)。なお、10月6日ミルウォーキーでの第4戦の4回裏、ローガン3塁、マシューズ2塁の場面、ステンゲルは「この強風ではベーブ・ルースでも本塁打を打てないだろう」とトム・スターディバント投手にアーロンと勝負させるも、アーロンは3ラン本塁打を放ち、ステンゲルは「奴はベーブ・ルースではなかった」とコメントしている[3]。
その後ブレーブスは1966年にアトランタに移転するが、アーロンの存在は実績に比べてさほど注目されておらず、注目されはじめたのは1970年代に入ってウィリー・メイズの本塁打数を塗り替えた頃であった。
1973年、ルースの記録に追いつくまであと1本のところでシーズンを終える。しかしこのシーズンオフは、アーロンにとって長いものとなった。ルースの記録を信奉する者や、白人のルースの記録を黒人のアーロンが破ろうとしていることに反感を抱く白人至上主義者による執拗な嫌がらせや、身の危険となる脅迫が相次いだのである。アーロンは当初、この事実を隠していたが、ある時ふとした事がきっかけでこれに触れたところ、今度は全米中からアーロンを支持する激励の手紙が届いた。「貴方への嫌がらせの手紙を処分するいい物を送りましょう」と、マッチを送ってきた白人もいた。当時アーロンは「ベーブ・ルースを忘れてほしいとは思っていない。ただ、私を覚えてもらいたいのです」と訴えている[4]。
1974年4月4日シンシナティでのシンシナティ・レッズとの開幕戦の初回一死でラルフ・ガーとマイク・ラムを走者に置いて、ジャック・ビリンガム投手がカウント3ボール1ストライクで投じた5球目の低めの直球をシーズン最初のスイングで叩いて714号3ラン本塁打を放ち、ルースの記録に並ぶ[5]。その4日後の月曜日、4月8日午後7時7分、本拠地フルトン・カウンティ・スタジアム(当時ブレーブス本拠地)での第3打席、4回二死一塁にダレル・エバンスを置いて、ロサンゼルス・ドジャースのアル・ダウニング投手のカウント1ボールでの2球目の真ん中低めのスライダーを叩いたラインドライブの打球は715号2ラン本塁打となり、ルースの記録を破り、試合成立前ではあったが試合を一時中断してセレモニーが行われた。アーロンは「Thank God it's over.(すべてが終わりました。神様に感謝します)」とコメントした[6]。ホームランボールはレフトフェンスとスタンドの間にあったブレーブスのブルペンに飛び、リリーフ投手トム・ハウスが直接グラブでキャッチした。なお、セレモニー途中から一時的な降雨があったが、試合とアーロンの記録は成立し、ブレーブスが7対4で勝利している。
同年の秋には日米野球で来日し、読売ジャイアンツの王貞治と本塁打競争を行い、10対9でアーロンが勝っている。また王に手土産としてスパイクとグラブをプレゼントした。スパイクは王の足には大きすぎたり、グラブも右利き用(王は左利き)だったりしたが、王は喜んで受け取ったというエピソードがある。王が後にアーロンの通算本塁打記録を塗り替えた時、米メディアの多くは日本の球場の狭さや投手レベルを引き合いに出したが、アーロン自身は王の記録達成に心から敬意を表し、紳士的に祝福した。そしてフラミンゴのはく製を記念にと王に贈っている。以降、王とは長い親交があり、1990年にはアサヒビール飲料(現・アサヒ飲料)の缶コーヒー「JO」のCMでも共演している。
ブルワーズ時代
1975年からミルウォーキー・ブルワーズに移籍して、2年間をそこで過ごして現役引退した。
755号本塁打は、1976年7月20日ミルウォーキーでエンジェルスのディック・ドラゴーを打ったシーズン10号であり、グラウンド・クルーのディック・アーンドがキャッチ[7]。本塁打数755本はメジャーリーグ歴代2位(右打者では1位)。また通算安打数も3771本で、引退した当時はタイ・カッブに次ぐ記録であった。
引退後
引退後はブレーブスの球団副会長などを務め、ほかにも王と共に世界少年野球大会を提唱し、野球の普及、発展に努める。2006年、ワールド・ベースボール・クラシックの決勝において始球式を務めた。その際、日本代表監督を務めていた王と肩を寄せ軽い談笑をしているシーンが放送された。ちなみに王は「尊敬する野球選手は?」という問いには必ずアーロンの名を入れる。
1982年にアメリカ野球殿堂入り。アトランタ・ブレーブス、ミルウォーキー・ブルワーズの背番号44はそれぞれ永久欠番に指定されている。ブレーブス入団当初の背番号は5であったが、アーロンが2桁の数字の背番号を希望し、1955年から44となった。1955年にアーロンはニューヨークのポロ・グラウンズの二階席の外壁まで打球を飛ばし、ニューヨークのある新聞が「ぶっ叩きのハンク(ハマリング・ハンク)」と評し、ハマリングを開始。アーロンは「フォーティフォーはベルが鳴ってるような響きがあり、ゾロ目であり、好き」とコメント。シーズン本塁打44本を4回記録。
2007年8月7日、バリー・ボンズが通算756本の本塁打を放ちアーロンの通算本塁打記録を抜いたが、薬物疑惑もあるボンズの式典に出席しないと表明していた。ボンズの記録達成時にはVTRでコメントを球場に流している。
2009年8月7日、共同通信によると、2003年に匿名で行われたドーピング検査の陽性反応を示した選手のリストを公表すべきだとAP通信のインタビューに答えている。アーロンは「私は長年野球をしていたから、シーズン70本以上の本塁打を放つのは無理ということが分かる」と述べており、薬物疑惑のある選手の記録にはアスタリスクを付けるべきだとしている。
選手としての特徴
本塁打数が注目されるが、1960年から1968年まで盗塁数は二桁を数え、特に1963年には30-30(打率3割も記録しているため、トリプルスリーでもある)を達成するなど、俊足と盗塁術も持ち合わせていた。アーロンは自分自身をホームランバッターでなく万能の選手ととらえ、他の人たちにもそう思ってほしいとコメントしている[8]。また、自身のバッティングスタイルを、自分の打撃動作の錬磨に重点を置くテッド・ウィリアムズ型ではなく、相手投手の配球(球種・コース)の解析に重点を置くスタン・ミュージアル型であると評価している[9]。
安打製造機としても素晴らしい実績を残しており、20年連続100安打以上を記録した。この記録はアーロンとタイ・カッブの他、ピート・ローズ、カール・ヤストレムスキー、ジョージ・ブレット、エディ・マレーといった選手達が達成している。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1954 | MLN ATL |
122 | 509 | 468 | 58 | 131 | 27 | 6 | 13 | 209 | 69 | 2 | 2 | 6 | 4 | 28 | - | 3 | 39 | 13 | .280 | .322 | .447 | .769 |
1955 | 153 | 665 | 602 | 105 | 189 | 37 | 9 | 27 | 325 | 106 | 3 | 1 | 7 | 4 | 49 | 5 | 3 | 61 | 20 | .314 | .366 | .540 | .906 | |
1956 | 153 | 660 | 609 | 106 | 200 | 34 | 14 | 26 | 340 | 92 | 2 | 4 | 5 | 7 | 37 | 6 | 2 | 54 | 21 | .328 | .365 | .558 | .923 | |
1957 | 151 | 675 | 615 | 118 | 198 | 27 | 6 | 44 | 369 | 132 | 1 | 1 | 0 | 3 | 57 | 15 | 0 | 58 | 13 | .322 | .378 | .600 | .978 | |
1958 | 153 | 664 | 601 | 109 | 196 | 34 | 4 | 30 | 328 | 95 | 4 | 1 | 0 | 3 | 59 | 16 | 1 | 49 | 21 | .326 | .386 | .546 | .931 | |
1959 | 154 | 693 | 629 | 116 | 223 | 46 | 7 | 39 | 400 | 123 | 8 | 0 | 0 | 9 | 51 | 17 | 4 | 54 | 19 | .355 | .401 | .636 | 1.037 | |
1960 | 153 | 664 | 590 | 102 | 172 | 20 | 11 | 40 | 334 | 126 | 16 | 7 | 0 | 12 | 60 | 13 | 2 | 63 | 8 | .292 | .352 | .566 | .919 | |
1961 | 155 | 671 | 603 | 115 | 197 | 39 | 10 | 34 | 358 | 120 | 21 | 9 | 1 | 9 | 56 | 20 | 2 | 64 | 16 | .327 | .381 | .594 | .974 | |
1962 | 156 | 667 | 592 | 127 | 191 | 28 | 6 | 45 | 366 | 128 | 15 | 7 | 0 | 6 | 66 | 14 | 3 | 73 | 14 | .323 | .390 | .618 | 1.008 | |
1963 | 161 | 714 | 631 | 121 | 201 | 29 | 4 | 44 | 370 | 130 | 31 | 5 | 0 | 5 | 78 | 18 | 0 | 94 | 11 | .319 | .391 | .586 | .977 | |
1964 | 145 | 634 | 570 | 103 | 187 | 30 | 2 | 24 | 293 | 95 | 22 | 4 | 0 | 2 | 62 | 9 | 0 | 46 | 22 | .328 | .393 | .514 | .907 | |
1965 | 150 | 639 | 570 | 109 | 181 | 40 | 1 | 32 | 319 | 89 | 24 | 4 | 0 | 8 | 60 | 10 | 1 | 81 | 15 | .318 | .379 | .560 | .938 | |
1966 | 158 | 688 | 603 | 117 | 168 | 23 | 1 | 44 | 325 | 127 | 21 | 3 | 0 | 8 | 76 | 15 | 1 | 96 | 14 | .279 | .356 | .539 | .895 | |
1967 | 155 | 669 | 600 | 113 | 184 | 37 | 3 | 39 | 344 | 109 | 17 | 6 | 0 | 6 | 63 | 19 | 0 | 97 | 11 | .307 | .369 | .573 | .943 | |
1968 | 160 | 676 | 606 | 84 | 174 | 33 | 4 | 29 | 302 | 86 | 28 | 5 | 0 | 5 | 64 | 23 | 1 | 62 | 21 | .287 | .354 | .498 | .852 | |
1969 | 147 | 639 | 547 | 100 | 164 | 30 | 3 | 44 | 332 | 97 | 9 | 10 | 0 | 3 | 87 | 19 | 2 | 47 | 14 | .300 | .396 | .607 | 1.003 | |
1970 | 150 | 598 | 516 | 103 | 154 | 26 | 1 | 38 | 296 | 118 | 9 | 0 | 0 | 6 | 74 | 15 | 2 | 63 | 13 | .298 | .385 | .574 | .958 | |
1971 | 139 | 573 | 495 | 95 | 162 | 22 | 3 | 47 | 331 | 118 | 1 | 1 | 0 | 5 | 71 | 21 | 2 | 58 | 9 | .327 | .410 | .669 | 1.079 | |
1972 | 129 | 545 | 449 | 75 | 119 | 10 | 0 | 34 | 231 | 77 | 4 | 0 | 0 | 2 | 92 | 15 | 1 | 55 | 17 | .265 | .390 | .514 | .904 | |
1973 | 120 | 465 | 392 | 84 | 118 | 12 | 1 | 40 | 252 | 96 | 1 | 1 | 0 | 4 | 68 | 13 | 1 | 51 | 7 | .301 | .402 | .643 | 1.045 | |
1974 | 112 | 382 | 340 | 47 | 91 | 16 | 0 | 20 | 167 | 69 | 1 | 0 | 1 | 2 | 39 | 6 | 0 | 29 | 6 | .268 | .341 | .491 | .832 | |
1975 | MIL | 137 | 543 | 465 | 45 | 109 | 16 | 2 | 12 | 165 | 60 | 0 | 1 | 1 | 6 | 70 | 3 | 1 | 51 | 15 | .234 | .332 | .355 | .687 |
1976 | 85 | 308 | 271 | 22 | 62 | 8 | 0 | 10 | 100 | 35 | 0 | 1 | 0 | 2 | 35 | 1 | 0 | 38 | 8 | .229 | .315 | .369 | .684 | |
MLB:23年 | 3298 | 13941 | 12364 | 2174 | 3771 | 624 | 98 | 755 | 6856 | 2297 | 240 | 73 | 21 | 121 | 1402 | *293 | 32 | 1383 | 328 | .305 | .374 | .555 | .928 |
- 「-」は記録なし
- 通算成績の「*数字」は、不明年度がある事を示す
- 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はMLB歴代最高
- MLN(ミルウォーキー・ブレーブス)は、1966年からATL(アトランタ・ブレーブス)に球団名を変更
タイトル
- 首位打者:2回(1956年(.328)、1959年(.355))
- 本塁打王:4回(1957年(44)、1963年(44)、1966年(44)、1967年(39))
- 打点王:4回(1957年(132)、1960年(126)、1963年(130)、1966年(127))
表彰
- MVP:1回(1957年)
- ゴールドグラブ賞:3回(1958年、1959年、1960年)
- DHLホームタウン・ヒーローズ選出(2006年)
脚注
- ↑ パット・サマーオール『ヒーロー・インタヴューズ』朝日新聞社刊、21~23ページ
- ↑ “Right Name, Wrong Genes: The Top 50 Less Talented Relatives of Superstars”. bleacherreport.com (2010年9月7日). . 2012閲覧.
- ↑ ハンク・アーロン「ハンク・アーロン自伝 I had a hammer.」講談社、1993年、148頁。ISBN 4-06-206365-4。
- ↑ 栗山英樹監修『言葉の魔球 野球名言集』出版芸術社 178ページ
- ↑ この本塁打はリーグ全体でシーズン最初の本塁打であるため、この年から導入された牛革ボール(以前は馬革)を打ったMLB初の本塁打でもあった。当日の記録
- ↑ ハンク・アーロン「ハンク・アーロン自伝 I had a hammer.」講談社、1993年、312頁。ISBN 4-06-206365-4。
- ↑ ハンク・アーロン「ハンク・アーロン自伝 I had a hammer.」講談社、1993年、341頁。ISBN 4-06-206365-4。
- ↑ パット・サマーオール『ヒーロー・インタヴューズ』朝日新聞社刊、27ページ
- ↑ ハンク・アーロン「ハンク・アーロン自伝 I had a hammer.」講談社、1993年、121頁。ISBN 4-06-206365-4。
関連項目
外部リンク
- 選手の通算成績と情報 Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube
- Baseballhalloffame.org(英語)– アメリカ野球殿堂(National Baseball Hall of Fame)による紹介
- Hank Aaron at The Internet Name Database
業績 |
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テンプレート:ナショナルリーグMVP テンプレート:ナショナルリーグ首位打者 テンプレート:ナショナルリーグ本塁打王 テンプレート:ナショナルリーグ打点王 テンプレート:ナショナルリーグ ゴールドグラブ賞 (外野手) テンプレート:ルー・ゲーリッグ賞 |
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