ハインリヒ7世 (神聖ローマ皇帝)
ハインリヒ7世(Heinrich VII., 1275年 - 1313年8月24日)は神聖ローマ帝国のローマ皇帝。ルクセンブルク家の初代皇帝(在位:1312年 - 1313年)、ローマ王(ドイツ王)(在位:1308年 - 1313年)。ルクセンブルク伯(在位:1288年 - 1310年)でもある。フランス語を母語とし(ドイツ語も堪能)、フランス王の封建家臣でもあった[1][2]。フランス名はアンリ(Henri)。ルクセンブルク伯ハインリヒ6世の子。皇帝としてはハインリヒ「6世」であるが、皇帝ではなかった東フランク王(ドイツ王)ハインリヒ1世から数えて「7世」とするのが一般的である。1250年にフリードリヒ2世が死去して以来、62年ぶりに皇帝の称号を復活させ、神聖ローマ帝国に秩序をもたらす君主としてルネサンス文化人に期待された。
生涯
もともとは父の後を継いだルクセンブルク伯に過ぎなかったが、1308年にアルプレヒト1世が暗殺されると、教皇クレメンス5世および弟トリーア大司教バルドゥインら選帝侯の支持を受け、即位することとなった。この背景にはフランス王フィリップ4世が弟シャルルをローマ王に据えようとする動きを阻止したいという教皇や選帝侯の意図があった[3]。
1309年にはスイスの一部を領有し、翌年には息子ヨハンとボヘミア王(ハンガリーとポーランドの王も兼ねた)ヴァーツラフ3世の妹エリシュカとの縁組の結果、ボヘミア王位を自家に獲得するなど[4]、一族の勢力を短期間のうちに拡大させ、ルクセンブルク家は一躍神聖ローマ帝国における最有力の勢力となった。
ハインリヒ7世はさらに、皇帝戴冠式を行うためローマへと向かう。しかし皇帝の侵入によりイタリアの内乱はたちまち激化し、ローマに辿り着くまでには2年という時間を要した。しかもアヴィニョンの教皇はローマに姿を現わすことはなく、しかたなくハインリヒは枢機卿から帝冠を受けることとなった。その後、ナポリへの遠征を行うが、その最中にマラリアで死去する[5]。皇帝権力の伸長を嫌うフランスや教皇派により暗殺されたとも考えられている[6]。
イタリア遠征のとき、詩人で有名なダンテは『帝政論』で彼を絶賛している[7]。また、人格的に優れ、責任感に強い人物であったため、人望の厚い名君であったと言われている。フィレンツェの政治家ディーノ・コンパーニはハインリヒに期待をかけ、その年代記の中で「神の子羊」「イタリアの矯正者」と呼びかけている。
家族
1292年にブラバント公ジャン1世の娘マルグリット(マルガレーテ、1276年 - 1311年)と結婚し、1男2女をもうけた。
- ヨハン(1296年 - 1346年) ボヘミア王およびルクセンブルク伯。皇帝カール4世の父。
- マリー(1304年 - 1324年) フランス王シャルル4世の妃。
- ベアトリクス(1305年 - 1319年) ハンガリー王カーロイ1世の妃。
脚注
参考文献
- 成瀬治 他 『世界歴史大系 ドイツ史 1』 山川出版社、1997年
- 鈴本達哉 『ルクセンブルク家の皇帝たち』 近代文芸社、1997年
- 菊池良生 『神聖ローマ帝国』 講談社現代新書、2003年
- G. トラウシュ 『ルクセンブルクの歴史‐小さな国の大きな歴史‐』 刀水書房、1999年
関連項目
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