ディルムン

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ディルムン(Dilmun[1])は、メソポタミア文明において交易相手、原料の産地、メソポタミア文明とインダス文明の物資の集散地などとして記録されている土地の名前である。ディルムンの正確な位置は明らかになっていないが、バーレーンサウジアラビアの東部地方、カタールオマーンペルシャ湾イラン沿岸部などと関連があると考えられている[2]。ディルムン文明の首都として[3]バーレーン要塞世界遺産に登録された。

歴史

ディルムンの名がシュメル楔形文字記録に最初に現れるのは、紀元前4千年紀末のことである。その粘土版はウルクにあった女神イナンナの神殿跡で発見された。形容詞としての「ディルムン」は斧の型やある種の特別職を指す時に用いられた。加えて、ディルムンと繋がりのあった人々に配給された羊毛のリストもある[2]

ディルムンの名は、バビロンカッシート人王朝に属するブルナ・ブリアシュ2世English版の治世の頃(前1370年頃)に書かれた2通の書簡でも言及されている。これらの手紙はディルムンの地方当局者が、メソポタミアの上司にあてたものだが、そこで言及されている人名はアッカド人のものである。これらの書簡や他の文書は、当時のディルムンとバビロンの間に行政上の関連があったことを仄めかしているが、カッシート朝が倒れると、メソポタミアの文書はディルムンの名に触れなくなっている。例外的な存在が紀元前1250年アッシリア語の碑文であり、これはアッカド朝のサルゴンがディルムンやメルッハEnglish版などの王でもあることを宣言したものである。この碑文にはディルムンからの貢物があったことにも触れている。紀元前1千年紀の別のアッシリア語の碑文でも、アッシリアの統治権がディルムンに及んでいることが示されている[4]。 バーレーンで発見された最初の入植跡の一つは、アッシリア王センナケリブがアラビア北東部を攻略し、バーレーンの島々を手中に収めたことを示唆している[5]。ディルムンに関する最後の言及は、新バビロニア王国のものである。紀元前567年の行政上の記録によって、当時のディルムンがバビロンの王の支配下にあったことが分かる。紀元前538年に新バビロニアが倒れると、ディルムンの名は使われなくなる[4]

古代メソポタミアとインダス文明(おそらくアッカド語でメルッハと呼ばれていた地域と正確に一致する)の間で交易が行われていたことについては、考古学上・文献学上双方の証拠がある。ハラッパー遺跡で出土した粘土製の印章は、明らかに商品を束ねるものの封印(封じ目に押す印)に用いられていた。それは印章の反対側に紐や袋のマークが印されていることも裏付けになる。ウルや他のメソポタミア遺跡ではこうしたインダスの封印が多く見つかっている。ペルシャ湾型として知られるディルムンに由来する円形の封印は、インド・グジャラート州ロータル遺跡、ファイラカ島、メソポタミアなどで見つかっており、遠距離の海上交易を説得的に確証するものとなっている。

メルッハに言及しているメソポタミアの交易記録、商品一覧、公式碑文などは、ハラッパーの封印や考古学的知見を補完するものである。メルッハに関する文書上の言及はイシン・ラルサ時代のアッカド人たちに遡るが、実際の交易はそれよりもさらに前、初期王朝時代(紀元前2600年頃)に始まったようである。メルッハ産の器などはメソポタミアの港に直接船で運ばれていたようだが、イシン・ラルサ時代になるとディルムンが交易を独占するようになった。バーレーン国立博物館(Bahrain National Museum)は、ディルムンの黄金時代は紀元前2200年から前1600年頃の間であったと見積もっている。

ディルムンの交易品

具体的にどういった品目をやり取りしていたのかについては確実性が落ちるが、スズ毛織物オリーブオイル、穀物などと引き換えに、木材、瑠璃紅玉髄釉薬をかけたビーズ細工、ペルシャ湾で採れた真珠、貝や骨の嵌め込み細工などがメソポタミアに送られていたようである。紀元前3千年紀には、ディルムンはマガンとメソポタミア間の銅交易の中継地だった。銅塊やメソポタミアで産出する天然アスファルトも、綿織物や家禽(これはインダスの主産品であった一方、メソポタミアに原産種がいなかった)との取引に用いられていた可能性がある。この交易の重要性は、ディルムンで用いられていた重さや長さがインダスで用いられていたものと実質的に一致していたことにも表れている。それらは南メソポタミアのものとは一致していなかった。

ディルムンと神話

ディルムンは時として「太陽の昇る場所」「生命に満ちた場所」と叙述されている。これはディルムンが、シュメール神話の一変種では、創世神話の舞台になっていることや、洪水伝説の主人公ジウスドラZiusudra, ウトナピシュティム)が神々から永遠の命を授かったとされる場所であることによる。

ディルムンはエンキニンフルサグ叙事詩でも、天地創造の場所として描かれている。シュメールの南風を司る女神ニンリルNinlilシュルッパクの都市神スドゥSudとも)も、ディルムンに住まいを持っていたことになっている。ギルガメシュ叙事詩にも登場するディルムンは、エデンの園のモデルになった場所と推測する学者もいる。

しかしながら、初期の叙事詩『エンメルカルとアラッタの領主English版』では、ウルクエリドゥにおけるエンメルカルによるジッグラトの建設を中心とする主要な出来事は、ディルムンが建設される前の世界で起こったこととして描かれている。

出典

  1. 世界大百科事典 第2版 ディルムンとは”. コトバンク. . 2018閲覧.
  2. 2.0 2.1 Crawford, Harriet E. W. (1998). Dilmun and its Gulf neighbours. Cambridge: Cambridge University Press, 5. ISBN 0521583489. 
  3. Qal’at al-Bahrain – Ancient Harbour and Capital of Dilmun - UNESCO World Heritage Centre
  4. 4.0 4.1 Larson, Curtis E. (1983). Life and land use on the Bahrain Islands: The geoarcheology of an ancient society. Chicago: University of Chicago Press, 50–51. ISBN 0226469050. 
  5. Mojtahed-Zadeh, Pirouz (1999). Security and Territoriality in the Persian Gulf: A Maritime Political Geography. Richmond, Surrey: Curzon. ISBN 0700710981. 

参考文献

  • 小林登志子 『五〇〇〇年前の日常 シュメル人たちの物語』 新潮社〈新潮選書〉、2007年。
  • 後藤健 『メソポタミアとインダスのあいだ』筑摩書房、2015年

外部リンク