テューポーン
テューポーン(古希: Τυφών, Tȳphōn, ラテン語: Typhon)、テューポース(古希: Τυφώς, Tȳphōs, ラテン語: Typhos)、あるいはテュポーエウス(古希: Τυφωεύς, Typhōeus, ラテン語: Typhoeus)は、ギリシア神話に登場する巨人にして、神あるいは怪物である。その力は神々の王ゼウスに比肩するほどであり、ギリシア神話に登場する怪物の中では最大最強の存在である。
長母音を省略してテュポンやテュポーン、テュポエウス、テュフォン、ティフォン(現代ギリシャ語ではこの読み方が最も近い)などとも表記される。
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概要
出自に関してはさまざまな異伝があるが、最も有名なのは大地母神ガイアとタルタロスとの間の子で、ゼウスに対するガイアの怒りから生まれたとするものである[1][2]。一説ではガイアにゼウスの暴虐を訴えられたヘーラーが、彼を懲らしめるためにクロノスからもらった卵から生まれたとする説や[3]、ヘーラーが1人で生んだという説もある[4][5]。後者の説ではピュートーンがヘーラーから受け取って養育したという話である[6][7]。
テューポーンは不死の怪女エキドナを妻とし、数多くの怪物の父親になった。ヘーシオドスの『神統記』によればテューポーンの子供はオルトロス、ケルベロス、ヒュドラー、キマイラだが、後に多くの怪物がテューポーンとエキドナの子供とされた。アポロドーロスではネメアーの獅子[8]、不死の百頭竜(ラードーン)[9]、プロメーテウスの肝臓を喰らう不死のワシ[9]、スピンクス[10]、パイア[11]、ヒュギーヌスにおいてはさらにゴルゴーンや金羊毛の守護竜、スキュラをもテューポーンの子供に加えている[12]。テューポーンはまた、多くの荒々しい風を生んだともいわれる[13]。
巨体は星々と頭が摩するほどで、その腕は伸ばせば世界の東西の涯にも達した。腿から上は人間と同じだが、腿から下は巨大な毒蛇がとぐろを巻いた形をしているという[2]。底知れぬ力を持ち、その脚は決して疲れることがない[14]。肩からは百の蛇の頭が生え[15][2]、火のように輝く目を持ち、炎を吐いた[16][2]。またあらゆる種類の声を発することができ、声を発するたびに山々が鳴動したという[17]。古代の壷絵では鳥の翼を持った姿が描かれている。
ゼウスとの死闘
ゼウスらオリュンポスの神々は、ティーターノマキアーとギガントマキアーに連勝し、思い上がり始めていた。ガイアにとってはティーターンたちもギガースたちも、わが子である。それゆえ、これを打ち負かしたゼウスに対して激しく怒りを覚えたガイアは、末子のテューポーンを産み落とした。テューポーンはやがてオリュンポスに戦いを挑んだ。
ヘーシオドス
ヘーシオドスはテューポーンとゼウスの戦いの激しさを詳しく描いている。テューポーンの進撃に対し、ゼウスが雷鳴を轟かせると、大地はおろかタルタロスまで鳴動し、足元のオリュムポスは揺れた。ゼウスの雷とテューポーンの火炎、両者が発する熱で大地は炎上し、天と海は煮えたぎった。さらに両者の戦いによって大地は激しく振動し、冥府を支配するハーデースも、タルタロスに落とされたティーターンたちも恐怖したという。
しかしゼウスが雷霆の一撃がテューポーンの100の頭を焼き尽くすと、テューポーンはよろめいて大地に倒れ込み、身体は炎に包まれた。この炎の熱気はヘーパイストスが熔かした鉄のように大地をことごとく熔解させ、そのままテューポーンをタルタロスへ放り込んだ[18]。
アポロドーロス
対してアポロドーロスはテューポーンとゼウスの戦いの全貌を次のように語っている。テューポーンはオリュムポスに戦いを挑み、天空に向けて突進した。迫りくるテューポーンを見た神々は恐怖を感じ、動物に姿を変えてエジプトに逃げてしまったという[2]。(それゆえ、エジプトの神々は動物の姿をしているとも言われる)。
これに対し、ゼウスは雷霆や金剛の鎌を用いて応戦した。ゼウスは離れた場所からは雷霆を投じてテューポーンを撃ち、接近すると金剛の鎌で切りつけた。激闘の末、シリアのカシオス山(en:Jebel Aqra)へ追いつめられたテューポーンはそこで反撃に転じ、ゼウスを締め上げて金剛の鎌と雷霆を取り上げ、手足の腱を切り落としたうえ、デルポイ近くのコーリュキオンと呼ばれる洞窟へ閉じ込めてしまう。そしてテューポーンはゼウスの腱を熊の皮に隠し、番人として半獣の竜女デルピュネーを置き、自分は傷の治療のために母ガイアの下へ向かった。
ゼウスが囚われたことを知ったヘルメースとパーンはゼウスの救出に向かい、デルピュネーを騙して手足の腱を盗み出し、ゼウスを治療した。力を取り戻したゼウスは再びテューポーンと壮絶な戦いを繰り広げ、深手を負わせて追い詰める。テューポーンはゼウスに勝つために運命の女神モイラたちを脅し、どんな願いも叶うという「勝利の果実」を手に入れたが、その実を食べた途端、テューポーンは力を失ってしまった。実は女神たちがテューポーンに与えたのは、決して望みが叶うことはないという「無常の果実」だったのである。
敗走を続けたテューポーンはトラーキアでハイモス山(バルカン山脈)を持ち上げてゼウスに投げつけようとしたが、ゼウスは雷霆でハイモス山を撃ったので逆にテューポーンを押しつぶし、山にテューポーンの血がほとばしった。最後はシケリア島まで追い詰められ、エトナ火山の下敷きにされた。以来、テューポーンがエトナ山の重圧を逃れようともがくたび、噴火が起こるという[2]。ゼウスはヘーパイストスにテューポーンの監視を命じ、ヘーパイストスはテューポーンの首に金床を置き、鍛冶の仕事をしているという[19]。ただし、シケリア島に封印されているのはエンケラドスとする説もある。
変身譚
アポロドーロスはテューポーンに恐れをなした神々が動物に姿を変えてエジプトに逃亡したことについて触れているが、何人かの作家はこの伝承についてより具体的に語っている。オウィディウスによると、ゼウスは牡羊に、アポローンはカラスに、ディオニュソスは牡山羊に、アルテミスは猫に、ヘーラーは白い牝牛に、ヘルメースは朱鷺に変身した[20]。
アントーニーヌス・リーベラーリスによると、アポローンは鷹に、ヘルメースはコウノトリに、アレースは魚に、アルテミスは猫に、ディオニューソスは牡山羊に、ヘーラクレースは小鹿に、ヘーパイストスは牡牛に、レートーはトガリネズミに変身した[19]。。
語源学
英語で台風を意味する typhoon は、テューポーンに由来するとされ、ギリシャ式の表記を用いたものである。元来、英語では touffon と表記されていた。語源辞典などによると広東語の大風(たいふん)とテューポーンが混ざって出来たという説も存在する。
解釈
ヘーシオドスの神話
ゼウスの王権確立とその正当性を讃えた『神統記』は、テューポーンとの戦いに勝利した後にゼウスの王権継承と、女神たちとの結婚が歌われて幕を閉じる。ティーターンとの戦いではヘカトンケイルの力を借りて勝利したゼウスが、自らの力でテューポーンを倒すことで新しい秩序を確立することが語られているのである[21][22]。ヘーシオドスによればゼウスの王権にはプロメーテウス[23]やメーティスの子供などの危機が存在した[24]。テューポーンとの闘争についても、ゼウスがテューポーンの誕生に気づかなかったなら、テューポーンは人間と神々の上に君臨したに違いないとさえ歌っている[25]。しかし、ゼウスは致命的な事態に陥ることなくこれを迎え討ち、勝利する。そこで歌われているのは潜在的な危機を回避するゼウスの全知性と、テューポーンに勝利する強大さであり、『神統記』で一貫しているゼウスの優位性を示すというヘーシオドスの意図の中に、テューポーンとゼウスの闘争神話も組み込まれている[21]。
ゼウスの去勢
しかしゼウスのテューポーンに対する優位性は他の文献でも見られるわけではなく、特にテューポーンがゼウスを無力化するアポロドーロスの物語は、ウーラノスがクロノスによって去勢されたように、テューポーンによるゼウスの去勢を物語っていると指摘されている。古典学者アーサー・バーナード・クックは大著『ゼウス』(1914年-1925年)において、テューポーンがゼウスの鎌を奪ってゼウスの手足の腱を切除する神話は、ゼウスの去勢を婉曲的に表現したものであると結論している[26][27]。またクックはゼウスも自分の子供によって去勢され、廃位される運命にあると考えている[28][29]。
ヒッタイト神話との類似
こうしたギリシア神話の王権争奪神話およびゼウスとテューポーンの闘争は、フルリ人の影響を強く受けたヒッタイト神話と多くの類似点が認められる。ヒッタイト神話では4代にわたる王権争奪神話が語られている。まずアラルはアヌに敗れて逃亡する。その9年後、今度はクマルビが噛みちぎることでアヌを去勢する。その際、アヌはクマルビに飲みこんだ物によって3柱ないし5柱の恐ろしい神を身ごもるだろうと予言したため、クマルビは吐き出そうとする。しかしクマルビの体内では天候神(テシュブ)が成長する。やがて天候神はクマルビと戦い、廃位させる。王権を奪われたクマルビは巨岩との間に巨人ウルリクムミをもうけ、海で秘密裡に育てて復讐しようとする。神々はウルリクムミの巨大な姿に恐怖するが、エア神の助言により、天地を切り離した鋸でウルリクムミの足を切断するというものである。アラルに対応する神はギリシア神話にはいないが、去勢されるアヌ、クマルビ、天候神テシュブ、神々を脅かす巨人ウルリクムミは、それぞれウーラノス、クロノス、ゼウス、テューポーンに対応している[30][31]。またこの物語に登場するハジ山はカシオス山のことである[32][33]。しかしヒッタイト神話がどのようにしてギリシアに伝わったのかは今のところ不明である。
系図
脚注
- ↑ ヘーシオドス、820行-822行。
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 アポロドーロス、1巻6・3
- ↑ 『イーリアス』2巻への古註(沓掛訳注『ホメーロスの諸神讃歌』p,186)。
- ↑ ステーシコロス断片(『大語源書』による引用。沓掛訳注『ホメーロスの諸神讃歌』p,186)
- ↑ 『ホメーロス風讃歌』「アポローン讃歌」306行-352行。
- ↑ 『ホメーロス風讃歌』「アポローン讃歌」304行-305行。
- ↑ 『ホメーロス風讃歌』「アポローン讃歌」353行-355行。
- ↑ アポロドーロス、2巻5・1。
- ↑ 9.0 9.1 アポロドーロス、2巻5・11。
- ↑ アポロドーロス、3巻5・8。
- ↑ アポロドーロス、摘要(E)1・2。
- ↑ ヒュギーヌス、151話。
- ↑ ヘーシオドス、869行。
- ↑ ヘーシオドス、823行-834行。
- ↑ ヘーシオドス、825行。
- ↑ ヘーシオドス、827行-828行。
- ↑ ヘーシオドス、829行-835行。
- ↑ ヘシオドス、840行-868行。
- ↑ 19.0 19.1 アントーニーヌス・リーベラーリス、28話。
- ↑ 『変身物語』5巻318行-358行。
- ↑ 21.0 21.1 広川訳『神統記』解説、p.177-178。
- ↑ 『ヘシオドス全作品』解説、p.474-475。
- ↑ ヘーシオドス、521行以下。
- ↑ ヘーシオドス、886行-900行。
- ↑ ヘーシオドス、836行-838行。
- ↑ ジョルジュ・ドゥヴルー『女性と神話』p.151。
- ↑ ジョルジュ・ドゥヴルー『女性と神話』p.383-384。
- ↑ ジョルジュ・ドゥヴルー『女性と神話』p.162。
- ↑ ジョルジュ・ドゥヴルー『女性と神話』p.189。
- ↑ 『ヘシオドス全作品』解説、p.475-476。
- ↑ ジョルジュ・ドゥヴルー『女性と神話』p.131-132。
- ↑ スティグ・ウィカンデル「ウラノスの後裔たちの歴史」。
- ↑ ロバート・グレーヴス、36・4。
参考文献
- アポロドーロス『ギリシア神話』高津春繁訳、岩波文庫(1953年)
- アントーニーヌス・リーベラーリス『メタモルフォーシス』安村典子訳、講談社文芸文庫(2006年)
- オウィディウス『変身物語(上)』中村善也訳、岩波文庫(1981年)
- ヒュギーヌス『ギリシャ神話集』松田治・青山照男訳、講談社学術文庫(2005年)
- ヘシオドス『神統記』廣川洋一訳、岩波文庫(1984年)
- 『ヘシオドス 全作品』中務哲郎訳、京都大学学術出版会(2013年)
- ホメーロス『ホメーロスの諸神讃歌』沓掛良彦訳、ちくま学芸文庫(2004年)
- 高津春繁『ギリシア・ローマ神話辞典』、岩波書店(1960年)
- ジョルジュ・ドゥヴルー(en)『女性と神話 ギリシア神話にみる両性具有』加藤康子訳、新評論(1994年)
- スティグ・ヴィカンデル『アーリヤの男性結社』前田耕作監修・編、言叢社(1997年)
- R・グレーヴス『ギリシア神話(上巻)』高杉一郎訳、紀伊国屋書店(1962年)
関連項目