チトー主義

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チトー主義(チトーしゅぎ、セルビア・クロアチア語: Titoizam英語: Titoismチトーイズム)は、ユーゴスラビア共産党[1](以下「党」)を支配政党とする社会主義国ユーゴスラビア[2](以下「ユーゴ」)において、1948年のスターリン率いるソビエト連邦との対立(コミンフォルムからの追放)以降、1992年に社会主義体制が解体するまでの時期に採用された諸政策(労働者自主管理社会主義市場経済非同盟外交など)、およびそれを支える理論・イデオロギーの総称。1980年までの最高指導者[3]ヨシップ・ブロズ・チトー(以下「チトー」)の名にちなむ。

概要

「チトー主義」と呼ばれる思想・政策が、同様にマルクス主義から派生した「毛沢東思想」や「チュチェ思想」などと大きく異なる点は、当事者自らがこの呼称を積極的に用いたのではないことである。チトー以下ユーゴ指導部にとって、自分たちがよって立ち、かつ国民を導く思想はあくまで「マルクス主義」ないし「マルクス・レーニン主義」であり、個別の諸政策に上記の名前を与えていたにすぎない。

「チトー主義」という呼称が用いられたのは、まず、1948年以降ユーゴを敵視したソ連他の社会主義国、各国共産党の間においてであり、当然ながらそれは、「マルクス・レーニン主義から逸脱した修正主義」という否定的なニュアンスであった。この、「もともと他称、批判的呼称であった」という点は、「トロツキー主義」が、当初はスターリンを頂点とするソ連および国際共産主義運動の「正統派」(コミンテルン)からの攻撃的呼称であったこと[4]、また「スターリン主義」が、スターリン批判後に既存のソ連型社会主義を批判する文脈で用いられたことと類似している。

「チトー主義」を、独自の社会主義という積極的な意味で用いたのは、まずは西側ジャーナリスト国際政治の研究者であり、スターリン批判後は、多様な社会主義のモデルを模索するマルクス主義思想家・運動家の間でもこの用語が認知された。

沿革

参考文献

  • V.ヴィンテルハルテル(田中 一生訳)『チトー伝 ユーゴスラヴィア社会主義の道』 徳間書店、1972年。
  • (島田 浩訳)『ヨシプ・ブロズ・チトー 非同盟社会主義の歩み』恒文社、1974年。
  • レオ・マテス(鹿島 正裕訳)『非同盟の論理 第三世界の戦後史』TBSブリタニカ、1977年。
  • E.カルデリ(en)(山崎 洋, 山崎那美子訳)『自主管理社会主義と非同盟 ユーゴスラヴィアの挑戦』大月書店, 1978年。
  • ズボンコ・シタウブリンゲル( 岡崎 慶興訳)『チトー・独自の道 スターリン主義との闘い』サイマル出版会、1980年。
  • ヴェリコ・ルス(石川 晃弘他訳)『産業民主主義と自主管理 ユーゴスラヴィアの経験』合同出版、1980年。
  • M.ドルーロヴィチ(高屋 定国、山崎洋訳)『試練に立つ自主管理 ユーゴスラヴィアの経験』岩波書店、1980年。
  • ウラディミール・デディエル(en)(平井吉夫訳)『クレムリンの敗北 いかにユーゴはソ連に抵抗したか』河出書房、1981年。
  • 岩田 昌征『凡人たちの社会主義 ユーゴスラヴィア・ポーランド・自主管理』筑摩書房、1985年。
  • 中央大学社会科学研究所編『自主管理の構造分析 ユーゴスラヴィアの事例研究』中央大学出版部、1988年。
  • 定形 衛『非同盟外交とユーゴスラヴィアの終焉』風行社、1994年。

脚注

  1. 1952年以降は「ユーゴスラビア共産主義者同盟」。
  2. 1963年までは「ユーゴスラビア連邦人民共和国」、それ以降は「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」。
  3. 1939年から1952年までユーゴスラビア共産党書記長、1952年から1980年までユーゴスラビア共産主義者同盟議長。1945年から1963年まで首相、1953年から1980年まで大統領。
  4. のちに第4インターナショナルに結集した共産主義者たちは、自ら「トロツキスト」と自己規定した。

関連項目