チェルノブイリ原子力発電所
チェルノブイリ原子力発電所 | |
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Державне спецiалiзоване пiдприємство "Чорнобильська АЕС" | |
{{#invoke:InfoboxImage|InfoboxImage|image=Chernobyl Nuclear Power Plant.jpg|size=|sizedefault=300x169px|alt= }} チェルノブイリ原子力発電所4号炉 | |
種類 | 原子力発電所 |
電気事業者 | 国営 |
所在地 |
ウクライナ キエフ州プリピャチ |
東経30度06分18秒北緯51.38972度 東経30.105度 | |
1号機 | |
出力 | 0 kW |
着工日 | 1977年 |
2号機 | |
出力 | 0 kW |
着工日 | 1978年 |
3号機 | |
出力 | 0 kW |
着工日 | 1981年 |
4号機 | |
出力 | 0 kW |
着工日 | 1983年 |
公式サイト:http://www.chnpp.gov.ua/ |
チェルノブイリ原子力発電所(チェルノブイリげんしりょくはつでんしょ)は、ウクライナ(旧:ソビエト連邦)のチョルノーブィリ(チェルノブイリ)近郊、プリピャチ市にあった原子力発電所。
原子炉の炉型は、黒鉛減速沸騰軽水圧力管型原子炉のRBMK-1000型(ソビエト型)。
1971年に着工され、1978年5月に1号炉が営業運転を開始した。
しかし1986年4月26日午前1時23分(モスクワ時間 ※UTC+3)に4号炉が原発事故を起こし、世界中にその名が知られた。
その時点で、既に建設中だった5号炉と6号炉は建設が中止された。その後も1号炉-3号炉の運転は、国全体レベルで電力不足などを引き起こすなどとされたため続けられたが、2000年12月に最後まで稼働していた3号炉を停止した。
名称
事故時を含め、建設以降の正式名称はV・I・レーニン記念チェルノブイリ原子力発電所(Чернобыльская атомная электростанция имени В.И.Ленина)。レーニンと直接のゆかりはないが、「共産主義とはソビエトの権力と全国の電化である」というレーニンの言葉にちなんで名づけられた。発電所の看板は、放射性物質汚染により交換が困難なため、今もこの名前のままである。ロビー前の広場にはレーニンの胸像がある。
1991年のソ連崩壊後、名称がチョルノーブィリ(チェルノブイリ)原子力発電所と改称された。
2000年の発電停止後、国営特殊企業チョルノーブィリ原子力発電所となった。
日本の原子力関係省庁および電力会社の文書には、軟音符を表記に反映させず、チェルノブイル原子力発電所[1](Chernobyl Nuclear Power Plant)と書いたものが多数ある。
立地
チェルノブイリ市の北西18km、ウクライナとベラルーシの国境から16km、キエフの北およそ110kmのプリピャチに立地している。発電所は、プリピャチの中心街から約4km東にあり、人工湖である冷却池に面している。池を含まない敷地面積は、4km2。
現在は、発電所を中心に「10kmゾーン」「30kmゾーン」が設定されている。また、総面積4,800m2の立入禁止区域のほぼ中心でもあり、ウクライナ側は「立ち入り制限区域および強制(義務的)立ち退き区域」、ベラルーシ側は「国営ポレーシェ放射線環境管理区」が正式名称となっている。
歴史
事故前
発電所の建設は1970年代に始まり、1977年に1号炉が竣工し、翌1978年に2号炉、1981年に3号炉、そして1983年に4号炉が竣工した。 さらに、それぞれ1GWを発電することができる5号炉と6号炉の2つの原子炉が、その事故の時に建設中だった。これら4つのプラントはRBMK-1000型である。また、4号炉の事故が起こらなければ、世界一になる予定であった。
4つの炉は、それぞれ電気出力1GWe (熱出力3.2GWth)を発電でき、合計でソ連の原子力発電量の15%、ハンガリーへのエネルギー輸出の80%を占めていた。4号炉は、ウクライナの電力のおよそ10%を生産していた。
この発電所を含む、チェルノブイリやプリピャチなどは、この原発に勤務する人やその家族のために作られた、当時世界地図上には存在しない機密都市だった。そのため、警備体制が厳しかった。
事故に繋がる重大な欠陥ではないと見られているが、設計図に記載されている耐熱性の材料が手に入らなかったため、可燃性の材料を使用し突貫工事を行ったとされている。また、営業運転の開始日の12月22日はソ連の原子力産業の記念日であり、所長のヴィクトル・ブリュハーノフはその日までに何としても完成させるようにしたため、大部分において欠陥があったともみられている。最終的に、稼動前に本来行わないといけない試運転や点検をも行わないまま営業運転を開始したため、可燃性の材料を使用したことは事故前に分からなかった。
事故
1986年4月26日に4号炉が爆発するチェルノブイリ原子力発電所事故が発生し、欧州だけでなく全世界に影響を及ぼした。これによって当初計画していた5号機と6号機の建設は中止となったが、ウクライナの電力事情が逼迫していたため事故後も故障した4号炉を除く原子炉は利用され続けた。運転が停止したのは事故から10年以上が経過した2000年であった。
なお、同発電所は1982年、1992年にも小規模な事故を起こしている。
現在
現在の同発電所は、炉を廃炉にする作業と石棺(4号炉を覆うコンクリートの建造物)の管理をしている。発電所周辺は自然が戻り緑の森と化しており、取材や研究の他、許可申請が認められれば同施設や周辺地域、立ち入り禁止区域等を見学出来る企画を一般人向けに行っている[2]。
廃炉作業はチェルノブイリ原発公団が担当しており、公団で働く人は全員、毎年試験を受け合格しないと働けない。作業員には400時間を超える訓練(講義と実習)が義務付けられている。原発から50キロほど離れた場所にスラブチッチという町が建設されている。人口約2万5,000人のほとんどが原発で働いている人とその家族で、休日に町を歩くとたくさんの子どもの姿を見かけることができる[3]。
4号機には2016年、脆くなった石棺を覆う新安全閉じ込め構造物が建設された。可動式の構造物としては史上最大規模となる大掛かりな施設であり、廃炉作業を行う機材が内部に導入される予定。
原子炉
原子炉[4] | 原子炉形式 | 正味発電量 | 総発電量 | 建設 | 送電網同期 | 商業運転 | 停止 |
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1号機 (Chernobyl-1) | RBMK-1000 | 740 MW | 800 MW | 1970年3月1日 | 1977年9月26日 | 1978年5月27日 | 1996年11月30日 |
2号機 (Chernobyl-2) | RBMK-1000 | 925 MW | 1.000 MW | 1973年2月1日 | 1978年12月21日 | 1979年5月28日 | 1991年10月11日 |
3号機 (Chernobyl-3) | RBMK-1000 | 925 MW | 1.000 MW | 1976年3月1日 | 1981年12月3日 | 1982年6月8日 | 2000年12月15日 |
4号機 (Chernobyl-4) | RBMK-1000 | 925 MW | 1.000 MW | 1979年4月1日 | 1983年12月22日 | 1984年3月26日 | 1986年4月26日 (事故による喪失) |
5号機 (Chernobyl-5)[5] | RBMK-1000 | 950 MW | 1.000 MW | 1981年12月1日 | - | - | (1988年に建設中止) |
6号機 (Chernobyl-6)[6] | RBMK-1000 | 950 MW | 1.000 MW | 1983年12月1日 | - | - | (1988年に建設中止) |
脚注
- ↑ [1]
- ↑ ЧЕРНОБЫЛЬ ТУР
- ↑ チェルノブイリ廃炉の教訓、日本人初の研修 渥美組の舟戸氏に聞く 2012年8月24日付『日本経済新聞』
- ↑ Power Reactor Information System der IAEA: „Ukraine: Nuclear Power Reactors“ (englisch)
- ↑ Kernkraftwerk Chernobyl 5 im PRIS der IAEA (englisch)
- ↑ Kernkraftwerk Chernobyl 6 im PRIS der IAEA (englisch)
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