チェックポイント・チャーリー

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チェックポイント・チャーリー跡(2003年6月)。旧アメリカ地区より望む。復元された検問所の屋根には片面にソ連軍兵士の写真、反対側には米兵の写真が掲げられている。

チェックポイント・チャーリー (Checkpoint Charlie) は、第二次世界大戦後の冷戦期においてドイツベルリンが東西に分断されていた時代に、同市内の東ベルリン西ベルリンの境界線上に置かれていた国境検問所

1945年から1990年まで存在し、ベルリンの壁と並ぶ東西分断の象徴として、また一部の東ドイツ市民にとっては自由への窓口として、冷戦のシンボルのように捉えられていた。ジョン・ル・カレなどのスパイ小説や映画にもたびたび登場している。

概要

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チェックポイント・チャーリーほか、ベルリン市内・近郊の検問所の位置を示した図。黄色い線はベルリンの壁

ベルリン市内のほぼ中央部にあるフリードリヒシュタットの街区、フリードリヒ通りとツィマー通り (Zimmerstraße) の交差点に設置されていた。第二次大戦後のベルリンはアメリカ合衆国イギリスフランスソビエト連邦(ソ連)の4か国によって分割統治されており、チェックポイント・チャーリーはアメリカ統治地区とソ連統治地区との境界上にあったが、イギリス統治地区からも至近の場所に位置していた。

東西分断期のベルリンには数多くの検問所が設置されており、そのうちの一部が西ベルリン西ドイツ市民が通行するためのものであった。チェックポイント・チャーリーは外国人および外交官、西側諸国軍の関係者が徒歩または自動車で通行するための検問所とされており、西側諸国軍関係者は他の検問所を通行することは認められていなかった。また、東西ベルリン間を移動する外国人が通行可能な検問所は、ここ以外では近隣のフリードリヒ通り駅のみであり、フリードリヒ通り駅はすべての国籍の人が手続きできたため、手続きを待つ人々で混雑することもあった。

検問所が運用されていた期間中、東側では壁や監視塔、ジグザグに張り巡らせたフェンス、さらに通行する車やその乗員をチェックするためのブースを設置するなど、設備の拡張が絶えずなされていた。しかしその一方、アメリカ側では恒久的な建造物は作られることはなく、木造の小屋が設置されたのみであった。この小屋は、1980年代になってさらに大きな金属製のものに置き換えられ、さらにベルリンの壁崩壊後に検問所自体が廃止され撤去されたが、東西ドイツ統一後は木造の小屋が再建され、ベルリンの観光名所のひとつになっている。

名称

「チェックポイント・チャーリー」という名称は西側諸国による呼称で、NATOフォネティックコードの「C」に当てられる Charlie から取られたものである。すなわち、「チャーリー」は特定の人名などに由来するものではなく、日本語でいうならば単に「検問所C」のような意味合いに過ぎない。同様の命名法で名付けられた検問所として、東西ドイツ間を結ぶアウトバーン上に設置されたチェックポイント・アルファCheckpoint Alpha; 西ドイツ・東ドイツ境界、ニーダーザクセン州ヘルムシュテット)、チェックポイント・ブラヴォーCheckpoint Bravo; 東ドイツ・西ベルリン境界、西ベルリン南西ドライリンデン)があった[1]

一方、西側に属さないソ連側では、この検問所を単に「フリードリヒ通り検問所」 (КПП Фридрихштрассе) と称していた。また、東ドイツの政府は「フリードリヒ・ツィマー通り国境検問所」(Grenzübergangsstelle Friedrich-/Zimmerstraße)の出入国証印を使用していたが、南北に連なる同じフリードリヒ通り上にフリードリヒ通り駅も存在していたため、ツィマー通り (Zimmerstraße) とフリードリヒ通り駅 (Station Friedrichstraße) と分けて読んでいた。東ドイツ側が「国境検問所」としていたのに対し、西側占領軍が「チェックポイント」の名称を使っていたのは、東西ベルリン間の境界は“国境”ではないという認識によるものであった。

歴史

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アメリカ地区から見たチェックポイント・チャーリー、1977年


初期の脱出事例

1961年、西側への人口流出に危機感を抱いた東ドイツ政府によってベルリンの壁が建設された。しかし、それでも西側へ脱出する手段は数多く残されていた。チェックポイント・チャーリーは当初、ゲート1つで東西を隔てているだけであり、車で突入しゲートを破壊して強行突破したり、車高の低いオープンカーでゲートの下をくぐり抜けたりする東ドイツ市民が現れた。これに対し、当局はゲートの遮断棒を強化したり遮る位置を下げたりして対応した。

1961年10月の外交事件

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東側から見たチェックポイント・チャーリー、1986年6月。

アメリカ・イギリス・フランス・ソ連の連合軍4か国は、1945年ポツダム会談において、「4か国の関係者は、ベルリンのどの地区においてもドイツの警官によるパスポートのチェックを受けずに移動できる」という合意をお互いに取り交わしていた。しかし、壁の建設から2か月後の1961年10月22日、アメリカの駐西ベルリン特使、エドウィン・アラン・ライトナーが占領軍ナンバープレートを付けた車で東ベルリンの劇場に向かっていたところを止められるという一件があった。これに対し、ジョン・F・ケネディ大統領の西ベルリン特別顧問を務めるルシアス・D・クレイ陸軍大将は、アメリカ側の決意のほどを見せつけることにした。

クレイは外交官のアルバート・ヘムシングを派遣し、米ソ境界を探索させた。ヘムシングは外交官の車両で探索をしていたところ、東ドイツの交通警官に止められ、パスポートの提示を求められた。ヘムシングの身元が明らかになると、東ドイツの交通警察が東ベルリンに入るヘムシングの車にぴたりと寄り添った。車はそのまま走り続け西ベルリンへ戻ったが、その翌日、イギリスの外交官のひとりが、やはり止められてパスポートを提示させられるということがあり、クレイを激怒させた。

ヘムシングはさらに同様の実験をすることに決めた。10月27日、ヘムシングは再び外交官用の車両を境界近くへ走らせた。しかし、ソ連側がどのような反応を見せてくるかが分からなかったクレイは、念のために戦車を歩兵部隊とともに近隣のテンペルホーフ基地へ事前に送っていた。この時の東側の対応は、以前のような問題ないものであったため、安心したアメリカ軍は西ベルリンへ引き返し、後方で待機していた戦車も帰還した。

戦車の対峙

ところがこの直後、33台のソ連軍戦車がブランデンブルク門へ出動した。ソ連のニキータ・フルシチョフ第1書記は、回顧録の中で「自分は、ソ連軍の戦車が撤退するところをアメリカ軍のジープが見たのだと認識している」と主張している。当時のアメリカ軍駐西ベルリン部隊司令官、ジム・アトウッド大佐は、後に出した声明でこの内容を否定している。

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チェックポイント・チャーリーで向かい合うソ連軍と米軍の戦車、1961年10月27日

これらの戦車のうち10台がフリードリヒ通りを進み、チェックポイント・チャーリーの米ソ境界線まで50 - 100メートルのところで停止した。これを受けてアメリカ軍の戦車も現地へ取って返し、境界線までソ連軍戦車とほぼ同じ距離を取って止まった。10月27日の17時から18時間ほどの間、両軍はこの状態のままにらみ合っていた。両軍の戦車ともに実弾を積載しており、西ベルリンの駐留アメリカ軍部隊、さらにNATO軍、そして戦略航空軍団警戒レベルが次々に引き上げられていった。米ソ両軍はともに、攻撃を受けたら反撃せよとの指令を受けていた。

この裏で、フルシチョフとケネディは連絡を取り、ともに自軍の戦車を撤退させることでこの緊張を緩和することに同意した。ソ連側の検問所にはソ連軍司令官アナトリー・グリブコフ将軍への直通回線があり、グリブコフはフルシチョフと電話がつながっていた。 一方、アメリカ側の検問所はベルリンの米軍部隊本部と電話をしており、その本部はホワイトハウスと連絡を交わしていた。ケネディは、ソ連側が先に戦車を引くという条件と引き換えに、以後ベルリン市内におけるソ連側の行動について大目に見ようと提案した。ソ連側はこれを外交上の勝利と受け止め、ケネディの申し出を承諾した。

翌28日の11時頃、まずソ連の戦車が1台、5メートル弱後退し、数分後これに続いてアメリカ軍の戦車が1台、同様に後ろへ下がった。1台1台と戦車は後退していき、武力衝突の事態は寸前のところで回避された。

後にベルリン危機English版と呼ばれるこの事件は、冷戦期の米ソ両国にとって初めての直接対決の危機となった。この後、アメリカは自国の外交官に対し、しばらくの間東ベルリンへ入らないよう命じた。またフルシチョフも事態の沈静化に動き、当初主張していたアメリカ・東ドイツ間の平和条約締結案を取り下げた上、東ドイツ国家評議会議長ヴァルター・ウルブリヒトに対しては「特にベルリンにおいて、状況を悪化させるような行動は避けよ」との指示を下した[2]

西側のみならず東側も、本来はベルリンの壁を望んでいたわけではないが、結果的にこの事件以降、壁の存在は両陣営の武力衝突を回避し、冷戦の状態を維持する役割を果たすことになった。実際にケネディも「(壁は)非常によい解決法というわけではない、が、戦争になるよりはずっとましだ」[3]と、壁の存在について容認する発言をしていた。

当時の在ヨーロッパ・アメリカ陸軍最高司令官であったブルース・C・クラーク大将は、この事件のきっかけとなったクレイの振る舞いに関して憂慮していたといわれ、クレイは翌1962年5月にアメリカに帰国することになる。しかし、クレイの取った強硬な姿勢は、西ベルリン市長ヴィリー・ブラントや西ドイツ首相コンラート・アデナウアー以下、西ドイツの人々に大きな影響を及ぼした。

ペーター・フェヒター事件

1962年8月17日、東ドイツ人のペーター・フェヒターという18歳の青年が、チェックポイント・チャーリー近くの壁をよじ登って西側へ脱走しようとしたところ、これを発見した東ドイツの警備兵に銃撃された。背中に弾を受けて壁から落ちたフェヒターは、有刺鉄線のフェンスに絡まるように倒れこみ、西側のジャーナリストを含む数百人が見守る中、そのまま失血死した。彼の身体は境界線から数メートル東側にあったため、アメリカ軍の兵士は救助することができず、また東ドイツ警備兵も西側の兵士を刺激することを恐れて、フェヒターに近寄ることを躊躇した。結局、フェヒターの遺体は1時間以上経ってから東ドイツ兵によって回収された。

これを受けて、東側の行為と西側の無為に対する抗議行動が検問所のアメリカ側で起こった。さらに数日後、イギリス地区ティーアガルテンにあるソ連の戦死者墓地へ向かうソ連のバスに向かって群衆が投石する事件が起こり、ソ連軍は装甲兵員輸送車でバスを護衛せざるを得なかった。この後、ソ連軍はティーアガルテンに最も近いザントクルーク橋検問所のみの通行しか認められなくなり、イギリス地区への装甲兵員輸送車の乗り入れも禁止された。

この禁令を徹底するため、西側の部隊は9月初めのある日真夜中、武器弾薬や軍用車両を展開した。もっとも、これらの弾薬は結局使用されることはなかった。その後、1973年に東ドイツの国境警備兵が自動小銃を発砲し、チェックポイント・チャーリーに弾痕を残すということがあったが、アメリカ兵に死傷者は出なかった。

検問所廃止以降

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西ドイツへの往来制限が大幅に緩和されたのを受け、チェックポイント・チャーリーを東ドイツの大衆車トラバントに乗って通過する東ドイツ市民、1989年

1989年11月にベルリンの壁が崩壊し、市内の国境検問は事実上廃止された。その後もしばらくの間、チェックポイント・チャーリーは公式には外国人・外交官用の検問所という役割を担ったままであったが、1990年10月1日のドイツ再統一に先立つ6月22日に検問小屋が撤去された。この小屋は、市内ツェーレンドルフ地区にある連合国博物館 (Allied Museum) に展示されている。

2000年、周辺一帯の再開発によって旧東ドイツの監視塔が取り壊された。チェックポイント・チャーリーの建造物としては、この監視塔が最後まで残っていたものであったが、新たに建設されるオフィスビルや商業施設に場所を譲る格好になった。当初ベルリン市はこの監視塔を保存する意向であったものの、歴史的建造物としての認定を得ることができず断念している。取り壊しに際しては、世間の注目を極力集めないよう、作業は秘密裏に実施された。

2004年10月31日から2005年7月5日までの期間、実際の壁の一部を使い新たに白く塗り直した壁、また冷戦時代に壁を越えようとして命を落とした1,067人の犠牲者を追悼する十字架が敷地に立てられた。

2007年10月には、ドイツのテレビ局ARDが2部構成の映画『Die Frau vom Checkpoint Charlie』(チェックポイント・チャーリーの女性)を放送した。この作品は、2人の娘と西側・東側で生き別れになった女性が、1980年代に東ドイツに対する抗議活動をチェックポイント・チャーリーの前で行なって一躍有名になるとともに、東西ドイツの間で政治問題に発展した実際の出来事を下敷きにしたものである。

今日のチェックポイント・チャーリー

チェックポイント・チャーリーの跡地、およびその周辺は、ベルリンの観光名所のひとつに数えられている。

かつて壁が建っていたところでは、その線に沿って道路に煉瓦で印がされている。検問所の跡地には2000年に復元された小屋と標識が建ち、小屋の外側にはアメリカ兵とソ連兵の写真が表裏で大きく掲げられている。アメリカ兵の写真は旧ソ連地区側を、ソ連兵の写真は旧アメリカ地区側を向いている。この2人は、1990年代初頭に実際にベルリンに駐留していた兵士たちであり、ソ連兵のほうは身元が不明であるが、アメリカ兵に関しては氏名や所属などが判明している。

検問所跡地のすぐ脇には、1963年に開館した民間の博物館、チェックポイント・チャーリー博物館がある。自動車・飛行船・潜水艦・トンネルなどを使って壁を越え西側に逃亡しようとした人々の紹介のほか、ドイツ分断の歴史やベルリンの壁についての資料を数多く展示しており、ベルリン市内にある博物館の中でも有数の来場者を集めている。

2006年夏からは、旧境界線上の一帯において無料の屋外展示が開始された。フリードリヒ通り・ツィマー通り・シュッツェン通り (Schützenstraße) の3本の通りに沿って、3つの異なるテーマのもとに当時の資料が公開されている。まずフリードリヒ通り沿いの西側の壁面では、壁を越えて西側へ逃亡するのに成功した人々、また当初は小さかった検問所が9つの手続き窓口を備えるまでに拡張されるに至った様子が紹介されている。東側の壁面では、冷戦の象徴としてのチェックポイント・チャーリーをテーマに、1961年に米ソの戦車が境界線を挟んで向かい合った時の写真などが展示されている。さらにツィマー通りの展示区域では、壁の犠牲になった人々を追悼する場所や、実際の壁の遺構などが設置されている。

脚注

  1. 熊谷徹 『観光コースでないベルリン ヨーロッパ現代史の十字路』 高文研、2009年。ISBN 978-4-87498-420-8。
  2. Langill, Richard L.. “The Wall, 1958-1963” (英語). . 2008年5月11日閲覧.
  3. Gaddis, John Lewis, The Cold War: A New History, 2005, p. 115.

関連項目

チェックポイント・チャーリーが登場する作品

外部リンク

座標: 東経13度23分25秒北緯52.5075度 東経13.39027度52.5075; 13.39027