ソビエト連邦最高会議幹部会議長
ソビエト連邦最高会議幹部会議長(ソビエトれんぽうさいこうかいぎかんぶかいぎちょう、ロシア語: Председатель Президиума Верховного Совета СССР)は、ソビエト社会主義共和国連邦の立法府、最高会議の常設機関である最高会議幹部会の議長。
概要
最高会議は1989年の憲法改正までソビエト連邦の最高国家権力機関として位置づけられていたため、1938年から1989年までの間、最高会議幹部会議長は国家元首に相当する官職であった。
ここでは同じソビエト連邦の国家元首職として、上記官職とも関係性が深い、1938年以前のソビエト連邦中央執行委員会議長、1989年以降の最高会議議長およびソビエト連邦大統領についても説明する。
歴史
最高会議幹部会の英訳が「Presidium of the Supreme Soviet」であることから、最高会議幹部会議長は西側においてしばしば「大統領」と呼ばれた。しかし、最高会議幹部会議長は儀礼的・象徴的な意味合いが強い名誉職的な地位であり、実権はソビエト連邦共産党中央委員会書記長が握っていた。元首格の最高会議幹部会議長、ソ連共産党の最高指導者である書記長、閣僚会議(内閣)の首長である閣僚会議議長(首相)を兼任させずに分離した体制をトロイカ体制と呼ぶ。
1977年、レオニード・ブレジネフ書記長がソ連史上初めて最高会議幹部会議長と党書記長を兼任した。
最高会議と大統領制
ソ連共産党書記長兼最高会議幹部会議長であるミハイル・ゴルバチョフのもと、1989年の憲法改正で新たにソビエト連邦人民代議員大会が最高国家権力機関として創設されると、最高会議はその常設機関とされ、最高会議幹部会議長のポストは廃止された[注 1]。代わって最高会議議長の職が新設され、人民代議員大会の議長も兼ねる国家元首となった。
また、1990年の大統領制導入により、国家元首の地位は大統領へ移行した。新設された初代最高会議議長と初代大統領は、いずれもゴルバチョフ本人が歴任した。
歴代国家元首
代 | 氏名 | 所属政党 | 就任日 | 退任日 | ||
---|---|---|---|---|---|---|
ソビエト連邦中央執行委員会議長[1] | ||||||
ロシア社会主義連邦ソビエト共和国代表 | ||||||
1 | ミハイル・カリーニン | 100px | 全連邦共産党 | 1922年12月30日 | 1938年1月12日 | |
ウクライナ社会主義ソビエト共和国代表 | ||||||
1 | グリゴリー・ペトロフスキー | 100px | 全連邦共産党 | 1922年12月30日 | 1938年1月12日 | |
白ロシア社会主義ソビエト共和国代表 | ||||||
1 | アレクサンドル・チェルヴャコフ | 100px | 全連邦共産党 | 1922年12月30日 | 1937年6月16日[注 2] | |
ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国代表 | ||||||
1 | ナリマン・ナリマノフ | 100px | 全連邦共産党 | 1922年12月30日 | 1925年3月19日[注 3] | |
2 | ガザンファル・ムサベコフ | 全連邦共産党 | 1925年5月21日 | 1937年6月 | ||
トルクメン社会主義ソビエト共和国代表 | ||||||
1 | ネディルバイ・アイタコフ | 全連邦共産党 | 1925年5月21日 | 1937年7月21日 | ||
ウズベク社会主義ソビエト共和国代表 | ||||||
1 | ファイズッラ・ホジャエフ | 100px | 全連邦共産党 | 1925年5月21日 | 1937年6月17日 | |
タジク社会主義ソビエト共和国代表 | ||||||
1 | ヌスラトゥッロ・マクスム | 全連邦共産党 | 1931年3月18日 | 1934年1月4日 | ||
2 | アブドゥッロ・ラヒンバエフ | 100px | 全連邦共産党 | 1934年1月4日 | 1937年9月 | |
ソビエト連邦最高会議幹部会議長[1] | ||||||
1 | ミハイル・カリーニン | 100px | 全連邦共産党 | 1938年1月17日 | 1946年3月19日 | |
2 | ニコライ・シュヴェルニク | 100px | 全連邦共産党 ↓ ソビエト連邦共産党 |
1946年3月19日 | 1953年3月15日 | |
3 | クリメント・ヴォロシーロフ | 100px | ソビエト連邦共産党 | 1953年3月15日 | 1960年5月7日 | |
4 | レオニード・ブレジネフ[注 4] | 100px | ソビエト連邦共産党 | 1960年5月7日 | 1964年7月15日 | |
5 | アナスタス・ミコヤン | 100px | ソビエト連邦共産党 | 1964年7月15日 | 1965年12月9日 | |
6 | ニコライ・ポドゴルヌイ | 100px | ソビエト連邦共産党 | 1965年12月9日 | 1977年6月16日 | |
(4) | レオニード・ブレジネフ[注 5] | 100px | ソビエト連邦共産党 | 1977年6月16日 | 1982年11月10日 | |
- | ヴァシリー・クズネツォフ[注 6] | 100px | ソビエト連邦共産党 | 1982年11月10日 | 1983年6月16日 | |
7 | ユーリ・アンドロポフ[注 7] | 100px | ソビエト連邦共産党 | 1983年6月16日 | 1984年2月9日 | |
- | ヴァシリー・クズネツォフ[注 6] | 100px | ソビエト連邦共産党 | 1984年2月9日 | 1984年4月11日 | |
8 | コンスタンティン・チェルネンコ[注 8] | 100px | ソビエト連邦共産党 | 1984年4月11日 | 1985年3月10日 | |
- | ヴァシリー・クズネツォフ[注 6] | 100px | ソビエト連邦共産党 | 1985年3月10日 | 1985年7月2日 | |
9 | アンドレイ・グロムイコ | 100px | ソビエト連邦共産党 | 1985年7月2日 | 1988年10月1日 | |
10 | ミハイル・ゴルバチョフ[注 9] | 100px | ソビエト連邦共産党 | 1988年10月1日 | 1989年5月25日 | |
ソビエト連邦最高会議議長[1][注 10] | ||||||
1 | ミハイル・ゴルバチョフ | 100px | ソビエト連邦共産党 | 1989年5月25日 | 1990年3月15日 | |
2 | アナトリー・ルキヤノフ | 100px | ソビエト連邦共産党 | 1990年3月15日[注 11] | 1991年8月26日 | |
- | ラフィク・ニシャノフ | ソビエト連邦共産党 | 1991年8月22日[注 12] | 1991年12月26日 | ||
ソビエト連邦大統領 | ||||||
1 | ミハイル・ゴルバチョフ | 100px | ソビエト連邦共産党 | 1990年3月15日[注 13] | 1991年12月25日 |
脚注
注釈
- ↑ 最高会議幹部会は人民代議員大会の創設後も最高会議の召集などの権限行使のために存続。ただし、国家元首としての権能は最高会議議長に移譲。
- ↑ 在任中に自殺[1]。
- ↑ 在任中に死去[1]。
- ↑ 1964年10月24日、ソ連共産党第一書記に就任。
- ↑ ソ連共産党書記長(1966年4月8日に就任)と兼務。
- ↑ 6.0 6.1 6.2 最高会議幹部会議長代行(最高会議幹部会第一副議長)[1]。
- ↑ ソ連共産党書記長(1982年11月12日に就任)と兼務。
- ↑ ソ連共産党書記長(1984年2月13日に就任)と兼務。
- ↑ ソ連共産党書記長(1985年3月11日に就任)と兼務。
- ↑ 1989年の人民代議員大会創設で最高会議幹部会議長のポストは廃止。新たな国家元首として最高会議議長職が設置される。
- ↑ 1990年の大統領制導入により、最高会議議長は国家元首としての性格を喪失。ルキヤノフは1991年の8月クーデターの謀議に参加したため、最高会議議長職を解任の上、逮捕される。
- ↑ ルキヤノフ議長が8月クーデターの黒幕として解任・逮捕されたため、後任が選出されるまでの間、最高会議議長職を代行。ただし、ソ連崩壊によって最高会議が消滅したため、事実上最後の最高会議議長。
- ↑ 1990年の憲法改正により、初代大統領に就任。大統領制の導入を盛り込んだ憲法改正法では大統領は国民による直接選挙と定められていたが、初代大統領に限り特例として人民代議員大会による選出とされた。しかし、翌1991年12月のソ連解体により、結果的にゴルバチョフが最初で最後のソ連大統領となった。