セイレーン
セイレーン(古希: Σειρήν, Seirēn)は、ギリシア神話に登場する海の怪物である[1]。複数形はセイレーネス(古希: Σειρῆνες, Seirēnes)。上半身が人間の女性で、下半身は鳥の姿とされるが後世には魚の姿をしているとされた[2]。海の航路上の岩礁から美しい歌声で航行中の人を惑わし、遭難や難破に遭わせる。歌声に魅惑されて挙げ句セイレーンに喰い殺された船人たちの骨は、島に山をなしたという[1]。
その名の語源は「紐で縛る」、「干上がる」という意味の Seirazein ではないかという説が有力である[2][3]。長母音記号省略表記のセイレンでも知られるが、長音記号付き表記も一般的である。
上記のギリシア語はラテン語化されてシーレーン(Siren, 複数形シーレーネス Sirenes)となり、そこから、英語サイレン(Siren[注釈 1])、フランス語シレーヌ(Sirène)、ドイツ語ジレーネ(Sirene)、イタリア語シレーナ(Sirena)、ロシア語シリェーナ(Сирена)といった各国語形へ派生している。英語では「妖婦」という意味にも使われている。
概要
セイレーンは河の神アケローオス[5]とムーサのメルポメネー(『ビブリオテーケー』)あるいはテルプシコラー(ノンノス『ディオニューソス譚』)、あるいはカリオペー(『アエネーイス』)との娘とされる。2人、3人、あるいは5人であるとされている[5]。
何人姉妹で構成されるかについては諸説あり、二人の場合はヒメロペー(古希: Ίμερόπη, Himeropê、「優しい声」の意)とテルクシエペイアー(古希: Θελξιεπεια, Thelxiepeia、「魅惑的な声」)[注釈 2]、三姉妹ではレウコシアー(古希: Λευκωσια, Leukôsia、「白」)・リゲイアー(古希: Λιγεια, Ligeia、「金切り声」)・パルテノペー(古希: Παρθενοπη, Parthenopê、「処女の声」)、四姉妹ではテルクシオペイアー(古希: Θελξιεπεια, Thelxiepeia、「魅惑の声」)・アグラオペーメー(古希: Aglaopêmê、「美しい声」)・ペイシノエー(古希: Πεισινοη, Peisinoê、「説得的」)・モルペー(古希: Μολπη, Molpê、「歌」)からなるといわれる[6]。ガイウス・ユリウス・ヒュギーヌス『ギリシャ神話集』では、テレース(古希: Θελες, Teles)・ライドネー(古希: Ραιдνη, Raidnê)・モルペー(古希: Μολπη, Molpê)・テルクシオペー(古希: Θελξιόπη, Thelxiopê)の四姉妹で構成されている。
元はニュムペーあるいは人間で、ペルセポネーに仕えていたが、ペルセポネーがハーデースに誘拐された後に[5]ペルセポネーを探すために自ら願って鳥の翼を得た[5](『変身物語』による。ほか、ガイウス・ユリウス・ヒュギーヌス『ギリシャ神話集』では、誘拐を許したことをケレースに責められ、鳥に変えられたとされる。『オデュッセイア』エウスタティウス注では、誘拐を悲しんで恋愛をしようとしなかったためアプロディーテーの怒りを買い、鳥に変えられたとされる。)。
パウサニアス『ギリシア案内記』ではムーサと歌で競い合い、勝負に負けてムーサの冠を作るために羽をむしり取られたとされる[5]。
物語
セイレーンは、ホメーロスの『オデュッセイア』に登場する。オデュッセウスの帰路の際、彼は歌を聞いて楽しみたいと思い、船員には蝋で耳栓をさせ、自身をマストに縛り付け決して解かないよう船員に命じた。歌が聞こえると、オデュッセウスはセイレーンのもとへ行こうと暴れたが、船員はますます強く彼を縛った[1]。船が遠ざかり歌が聞こえなくなると、落ち着いたオデュッセウスは初めて船員に耳栓を外すよう命じた。ホメーロスはセイレーンのその後を語らないが、『神話物語集』によれば、セイレーンが歌を聞かせて生き残った人間が現れた時にはセイレーンは死ぬ運命となっていたため、海に身を投げて自殺した。死体は岩となり、岩礁の一部になったという。しかし声だけは死なず、現在でもある時期になるとセイレーンの歌声が聞こえ、船員がその声を聞いた船は沈没すると言われる。
『アルゴナウティカ』にも登場する。イアーソーンらアルゴナウタイがセイレーンの岩礁に近づくと、乗組員オルペウスがライアーをかき鳴らして歌を打ち消すことができた。しかしブーテースのみは歌に惹かれて海に飛び込み泳ぎ去ってしまった。
中世以降の変化
中世以降は半人半鳥でなく、人魚のような半人半魚の怪物として記述されている[7][8]。これは古代において海岸の陸地を目印に航海していたのに対し、中世に羅針盤が発明されて沖合を遠くまで航海できるようになったことから、セイレーンのイメージが海岸の岩場の鳥から大海の魚へと変化したためではないかと考えられている[7]。この頃には、海でセイレーンに会ったという記述が旅行記に記されるようになる[8]。
ゲーテの『ファウスト』などに登場し、怪物としての性格が強まった。後世には、人魚や水の精などとも表現されるようになり、西洋絵画においてはとりわけ世紀末芸術で好まれる画題となった。
セイレーンを描いた図像には、二又に分かれた鰭を備えた魚の下半身となっているものがしばしばみられる。20世紀のフランスの美術史家ユルギス・バルトルシャイティスによれば、セイレーンのこうした図像の構図は古代のアジアで既にみられており、アジア起源の構図がヨーロッパに伝えられてさまざまな図像で用いられたという[4]。
西洋絵画
西洋絵画ではセイレーンはしばしば描かれてきたが、特にラファエル前派以降のイギリスの画家たちが男たちを誘惑する甘美なセイレーンの姿を描いている。フランス象徴主義の画家ギュスターヴ・モローも『セイレーンたち』(1882年)、『詩人とセイレーン』(1893年)と言った作品を描いたが、ギュスターヴ=アドルフ・モッサは『飽食のセイレーン』(1905年)でむしろ人を殺す残酷な一面を描いている。そのほか、パウル・クレーの『セイレーンの卵』(1937年)、ポール・デルヴォーの『セイレーンたちの村』(1942年)、『偉大なるセイレーンたち』(1947年)、パブロ・ピカソの『オデュッセウスとセイレーンたち』(1947年)といった作品がある。
ギャラリー
- The Sirens - Edward Burne-Jones (1875).jpg
エドワード・バーン=ジョーンズ 『セイレーン』 1875年 南アフリカ国立美術館(en)所蔵
- Leighton-The Fisherman and the Syren-c. 1856-1858.jpg
フレデリック・レイトン 『漁夫とセイレーン』 1856年-1858年 個人所蔵
- The Siren by Edward John Poynter (1864).jpg
エドワード・ポインター 1864年 個人所蔵
- La Sirène - Charles Landelle, 1879.jpg
シャルル・ランデル(en) 『セイレーン』 1879年 ラッセルコーツ美術館&博物館(en)所蔵
- The Sirens by Gustave Moreau (1885).jpg
ギュスターヴ・モロー 『セイレーンたち』 1885年 ギュスターヴ・モロー美術館所蔵
- Félix Ziem - The Call of the Sirens.jpg
フェリックス・ジアン(en) 『セイレーンたちの呼び声』 19世紀 個人所蔵
- The Siren.jpg
ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス作『セイレーン』(1900年) 個人所蔵
- Draper-Ulysses and Sirens.jpg
ハーバート・ジェームズ・ドレイパー 『ユリシーズとセイレーンたち』 1909年 フェレンス美術館(en)所蔵
- The Sirens and Ulysses by William Etty, 1837.jpg
ウィリアム・エッティ 『セイレーンたちとユリシーズ』 1837年 マンチェスター市立美術館所蔵
- Gustav Wertheimer - The Kiss of the Siren - 76.27 - Indianapolis Museum of Art.jpg
グスタフ・ヴェルトハイマー 『セイレーンのキス』
現代におけるセイレーン
セイレーンの名は、カート・ヴォネガットの小説『タイタンの妖女』の原題にも普通名詞として複数形で使用されている。
セイレーンはまた、アメリカ合衆国で創業したコーヒーチェーン店のスターバックスのロゴマークにも描かれている。そこでのセイレーンの下半身は魚で、鰭は二又に分かれている[4][9]。ロゴのデザインの参考になったのはギリシア神話ではなく、創業時のスタッフが見つけた、ノルウェーの古い木版画に描かれていた二又の鰭を持つセイレーンであるという[9][10]。
脚注
注釈
出典
- ↑ 1.0 1.1 1.2 『図説ヨーロッパ怪物文化誌事典』108頁。
- ↑ 2.0 2.1 『図説ヨーロッパ怪物文化誌事典』111頁。
- ↑ 『幻想世界の住人たち』
- ↑ 4.0 4.1 4.2 『図説ヨーロッパ怪物文化誌事典』110頁。
- ↑ 5.0 5.1 5.2 5.3 5.4 『世界幻想動物百科』224頁。
- ↑ 『ギリシア・ローマ神話事典』
- ↑ 7.0 7.1 『ドキドキ!モンスター博物館』
- ↑ 8.0 8.1 『図説ヨーロッパ怪物文化誌事典』109頁。
- ↑ 9.0 9.1 ニナ・シェン・ラストギ (2011年1月7日). “スタバ新ロゴは脱コーヒー戦略の表れ?”. ニューズウィーク日本版 . 2015閲覧.
- ↑ “スターバックスコーヒーのロゴデザインに隠された秘密 - 広報さんに聞いてみた”. マイナビニュース. (2013年3月31日) . 2015閲覧.
参考文献
- アラン, トニー 「セイレン」『世界幻想動物百科 ヴィジュアル版』 上原ゆうこ訳、原書房、2009-11(原著2008年)、224-225。ISBN 978-4-562-04530-3。
- グラント, マイケル 『ギリシア・ローマ神話事典』 西田実ほか訳、大修館書店、1988-07。ISBN 978-4-469-01221-7。
- 健部伸明と怪兵隊 『幻想世界の住人たち』 新紀元社〈Truth In Fantasy 1〉、1988-10。ISBN 978-4-915146-85-5。
- 松平俊久 「セイレン」『図説ヨーロッパ怪物文化誌事典』 蔵持不三也監修、原書房、2005-03、108-111。ISBN 978-4-562-03870-1。
- 吉川豊 『ドキドキ!モンスター博物館』 理論社、1999-04。ISBN 978-4-652-01531-5。