ジャニー喜多川
ジャニー きたがわ ジャニー 喜多川 | |
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生誕 |
ジョン・ヒロム・キタガワ (John Hiromu Kitagawa) 漢字表記: 喜多川 擴(きたがわ ひろむ) 1931年10月23日(93歳) アメリカ合衆国 カリフォルニア州ロサンゼルス市 |
住居 | 日本 |
民族 | 日本人(大和民族) |
出身校 |
ロサンゼルス・シティー・カレッジ (LACC) 上智大学国際部 (現在の国際教養学部) |
職業 |
実業家 芸能プロモーター 音楽プロデューサー |
著名な実績 |
ギネス世界記録 「最も多くのコンサートをプロデュースした人物」 「最も多くのナンバーワン・シングルをプロデュースした人物」 |
親 | 父:喜多川 諦道 |
ジャニー 喜多川(ジャニー きたがわ、Johnny H. Kitagawa、本名: ジョン・ヒロム・キタガワ (John Hiromu Kitagawa)、漢字表記: 喜多川 擴〈きたがわ ひろむ〉、1931年〈昭和6年〉10月23日[注釈 1] - )は、日本の実業家・芸能プロモーター・音楽プロデューサーで、ジャニーズ事務所、ジェイ・ドリーム、ジャニーズ出版、ヤング・コミュニケーション、つづきスタジオの社長である。
Contents
来歴
生い立ち
父親は日本仏教・高野山真言宗米国別院の僧侶(第3代主監)で、1946年(昭和21年)2月から1948年(昭和23年)2月までプロ野球チーム「ゴールドスター(1947年に「金星スターズ」に改称)」のマネージャーだった喜多川諦道。諦道の次男として、1931年(昭和6年)10月23日にアメリカ・ロサンゼルスに生まれる。姉はメリー喜多川、兄はNASAでアポロの設計もしていた科学者だったが1980年代に50代半ばで死去している。
1933年(昭和8年)、喜多川一家は日本へ渡航し、大阪市で生活した。しかし間もなくして母親が死去、やがて第二次世界大戦が勃発すると子供たちだけで和歌山県那智勝浦町に疎開した。
日本の敗戦後、1947年(昭和22年)に子供たちだけでロサンゼルスに帰国し、現地の高校に入学した。高校時代にはロサンゼルスの「アーニー・パイル・シアター」にて、ミュージックメイカーのアシスタントとして、アルバイトを経験している。
ロサンゼルスの高校を卒業後、姉と同じロサンゼルス・シティー・カレッジ[注釈 2]に進学。
1950年(昭和25年)、美空ひばりが育ての親・川田晴久と共にアメリカ公演を行ったが、ロサンゼルス公演の際、父の勤務先だった真宗大谷派東本願寺ロサンゼルス別院が会場となったため、ステージマネージメント全体を担当する。川田の知遇を得ると共に、ひばりとも親しく交流するようになった。このことが、日本芸能界への進出のきっかけとなる。
1952年(昭和27年)に再来日。アメリカ大使館に陸軍犯罪捜査局 (USACIDC, CID) の情報員(通訳の助手)として勤務する。アメリカ軍関係の仕事の一環として、当時勃発していた朝鮮戦争による戦災孤児に英語を教授するために、日本でわずか11ヶ月で朝鮮語を習得し、すぐ韓国側の板門店に出向き、1年2ヶ月間に渡って子供たちに英語を教授した。
さらに、再来日後はアメリカ大使館軍事顧問団に勤務。その傍ら上智大学国際部(現在の国際教養学部の前進)に進学し、上智大学を卒業。大学在学中の1955年(昭和30年)、バンドを結成し芸能界へ参入した。以降は日本に永住している。
ジャニーズ事務所の設立
1960年代初頭、ジャニーは自分の居住していた東京都渋谷区・代々木の占領アメリカ軍宿舎「ワシントンハイツ」にて、近所の少年たち約30名で構成された少年野球チームのコーチを務めていた。そのチーム名は、本人のニックネーム「ジャニー (Johnny)」[注釈 3]からとって「ジャニーズ」と名付けられた。このチームのメンバーには、浜田光夫・小畑やすし・設楽幸嗣等もおり、応援団には松島トモ子も居た。このチームはプロ野球の球団や力道山等に支援されており、後に練習場も池袋にある立教大学のグラウンドへと移行した。
ある日、このチームのメンバーの中から渋谷区立代々木中学校の生徒4名を選抜し映画館に連れて行く。そして、そこで鑑賞した映画『ウェストサイドストーリー』に一同感動し、エンターテインメント事業を興業することを決意した。1962年(昭和37年)4月、自身が結成させた野球チームのメンバーである4名の少年により最初のグループであるジャニーズ(通称・初代ジャニーズ)を結成する。最初は東京都豊島区・池袋西口にある芸能プロダクション「新芸能学院(現: 名和プロダクション)」に在籍をしていたが、1962年(昭和37年)6月にジャニーズ事務所を創業、創業当初は渡辺プロダクションと業務提携し渡辺プロを窓口としていたが、1975年(昭和50年)1月、正式に株式会社として法人登記した。
姉のメリーは、1950年代から東京都新宿区・四谷三丁目の円通寺坂入口右手の角にあった「スポット」という名のカウンターバーを経営しており、バーの客だった東京新聞記者(後に作家)の藤島泰輔と内縁関係となり、1972年(昭和47年)の藤島泰輔の離婚成立後に結婚した。ジャニーがジャニーズ事務所を創業するとバーは廃業をし、事務所の経理を担当するようになった。
日本の芸能プロの草分けともいえる渡辺晋とほぼ同世代であるが、活動の開始は大きく出遅れたこともあり、先行する大手プロダクション群を凌駕し始めたのは1980年代に突入してからである。事務所黎明期のフォーリーブス・郷ひろみ・たのきんトリオ・シブがき隊・少年隊・光GENJI等に続いて、1990年代以降はSMAPをマルチタレント型なアイドルとして発展させ、2000年代から2010年代には、現在のTOKIO・V6・KinKi Kids・嵐・Kis-My-Ft2.ジャニーズWESTなどの所属タレントの活躍の場を広げ、男性アイドルの礎を築いた。
タレントに対する性的行為についての報道と裁判
ジャニーが同性愛者(ゲイ、少年愛、ペドフィリア)であり、事務所に所属する男性タレントに対して猥褻な行為を行っているとの噂は、1960年代から散発的に報道されていた。
- 元フォーリーブスの北公次は、『光GENJIへ』シリーズ データハウス、1988年(昭和63年)
- 元ジューク・ボックスの小谷純とやなせかおるは、『さらば!!光GENJIへ』データハウス、1989年(平成元年)
- 元ジャニーズの中谷良は、『ジャニーズの逆襲』データハウス、1989年(平成元年)
- 平本淳也は、『ジャニーズのすべて―少年愛の館』鹿砦社、1996年(平成8年)
- 豊川誕は、『ひとりぼっちの旅立ち - 元ジャニーズ・アイドル 豊川誕半生記』 鹿砦社、1997年(平成9年)3月
- 元光GENJI候補の木山将吾(山崎正人)は、『SMAPへ - そして、すべてのジャニーズタレントへ』2005年(平成17年)など
などを出版した。1988年(昭和63年)- 1989年(昭和64年/平成元年)に『噂の眞相』がこの問題を数回取り上げた。なお、自民党衆議院議員(当時)・阪上善秀(元・兵庫県宝塚市長)が2000年(平成12年)4月13日にこの問題を衆議院で取り上げている[1]。
1999年(平成11年)、『週刊文春』がジャニーズ事務所に関する特集記事を掲載し、喜多川が所属タレントに対して同性愛行為を行い、事務所では未成年所属タレントの喫煙などがあると報道した。これに対し喜多川側は記事が名誉毀損であるとして、文春に対し1億円あまりの損害賠償を要求する民事訴訟を起こした。
2002年(平成14年)3月27日の一審判決では、喜多川側が勝訴し、東京地裁は文春側に880万円の損害賠償を命じた。文春側はこれを不服として東京高裁に控訴した。2003年(平成15年)7月15日の二審判決では、喜多川側の同性愛行為を認定した(矢崎秀一裁判長)。このため、同性愛部分の勝訴は取り消され、損害賠償額は120万円に減額された。喜多川側は損害賠償額を不服として最高裁に上告したが、2004年(平成16年)2月24日に棄却され(藤田宙靖裁判長)、120万円の損害賠償と同性愛行為の認定が確定した。
また、『ニューヨーク・タイムズ』、『オブザーバー』などの世界各国のメディアでも取り上げられ、この問題をタブー視するなどして報道しない日本のマスメディアの姿勢を指摘した[2]。
住居侵入被害
2011年(平成23年)7月、東京都渋谷区内の自宅マンションに見知らぬ男が侵入、喜多川を締め出して30分以上に渡って篭城するという事件が起こった[3]。喜多川は34階建てタワーマンションの最上階に居住していたが、この事件による怪我や室内の物品の破損・盗難などの被害はなかった[4]。
逸話
- 喜多川は所属タレントを呼ぶ時に「you」と呼ぶことが多い。しかし混合するため「ゆう」という名前(芸名)の関ジャニ∞メンバー・横山裕に限り、「ヨコ」と呼んでいる。
- 「敬語は堅苦しいから」とジャニーから敬語禁止令が出ており、所属タレントは皆、喜多川に対しタメ口で話している。所属タレントからの呼称は「ジャニーさん」または「社長」。
- 喜多川本人は「演歌好き」とのことで、年末恒例のテレビ番組『NHK紅白歌合戦』から北島三郎が2013年(平成25年)限りで勇退したのを始め、年々演歌歌手が減少傾向があることに関して「大変寂しいこと」であると語っている[5]。
- 2012年(平成24年)5月3日に中国への進出を報道陣の前で表明[6][7]するも結局頓挫した[8]。
受賞経歴
- 2003年(平成15年)、菊田一夫演劇賞「特別賞」受賞。授賞式には堂本光一を代理人として参加させた。
- 2011年(平成23年)、ギネス・ワールド・レコーズが「最も多くのコンサートをプロデュースした人物」と「最も多くのナンバーワン・シングルをプロデュースした人物」に認定[9]。ジャニー喜多川はそれまで「自分の写真を決して公開しない人物」として有名であったが、この受賞に際し自身の公開用肖像写真を初めて撮影した。ギネスブック(日本版除く)を始め、この写真をスポーツ新聞等マスコミ各社が掲載した(ただし、野球帽にサングラス姿のため、仔細な肖像は判らない様になっている。また、ジャニーズ事務所の方針に従い、インターネット上では公開されない)[10][注釈 4]。2012年(平成24年)にも「最も多くのチャート1位アーティストを生み出したプロデューサー」としてギネス認定を受けている[11]。
関連文献
- あおきひろし『ボクの夢はキミたちが描く夢〜ジャニー喜多川が語るジャニーズ塾の子供たち』メタモル出版、1999年8月。
- 和泉ヒロシ『ジャニーズ・ファミリー - 裸になった少年たち -』オリオン出版、1976年6月。
- 江木俊夫『ジャニー喜多川さんを知ってますか』KKベストセラーズ、1997年7月。
- 鶴田康文『ジャニーさん』データハウス、1990年3月。
注釈
- ↑ 雑誌『女性自身』(1967年9月25日号)の裁判記事では、当時の年齢が「38歳」(つまり1928年生まれ)と表記されている。
- ↑ ディプロマミルとされる「ロサンゼルス市立大学」(シティユニバーシティロサンゼルス、City University Los Angeles)とは異なる。
- ↑ 本名のJohnのニックネームの米国式発音による。なお、Johnnyの日本語表記は、通常は英国式発音によって「ジョニー」とされる事が多い。
- ↑ 2013年(平成25年)1月27日にNHKワールドTV(海外向け国際放送)で放送された「JOHNNYS' World: Top of the J-Pops」でも自身の公開用肖像写真が紹介された。
出典
- ↑ 第147回国会青少年問題に関する特別委員会第5号
- ↑ In Japan, Tarnishing a Star Maker(日本のスターメーカーの曇り)ニューヨークタイムズ2000年1月30日、カルビン・シムス記者。Japan's bizarre music industry(日本の奇妙な音楽産業)オブザーバー2005年8月21日、クリス・カンピオン記者
- ↑ ジャニーさん宅に侵入容疑 男を現行犯逮捕 『47ニュース』 共同通信 2011年8月17日配信
- ↑ ジャニー喜多川社長宅に男侵入、立てこもり デイリースポーツ/神戸新聞社 2011年8月18日
- ↑ ジャニー喜多川社長 紅白サブ不在に… デイリースポーツ 2015年1月3日閲覧
- ↑ デイリースポーツ2012年5月4日
- ↑ “「またジャニーさんの気まぐれか」“中国版ジャニーズ”構想にファンは冷静”. サイゾーウーマン. (2012年5月9日) . 2017閲覧.
- ↑ “ジャニーズ中国進出が頓挫”. 東スポ. (2012年8月25日) . 2017閲覧.
- ↑ ジャニーズ社長が世界記録 ギネス、最多のコンサート 47NEWS 2011年9月21日閲覧
- ↑ ジャニー喜多川さん「表舞台」初登場 ギネス認定で顔写真公表 MSN産経ニュース 2011年9月25日閲覧。
- ↑ ギネス認定:ジャニー喜多川さん3件目,毎日新聞,2012年11月20日
参考文献
- 芸能裁判研究班『平成の芸能裁判大全』鹿砦社、2003年10月、ISBN 978-4846305314
- 小菅宏『芸能をビッグビジネスに変えた男「ジャニー喜多川」の戦略と戦術』講談社、2007年3月、ISBN 978-4062139007