ジャニーズ
ジャニーズ | |
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出身地 | 日本 |
ジャンル |
ポップス アイドル歌謡 |
活動期間 | 1962年4月 - 1967年11月20日 |
レーベル |
ビクターレコード(国内) ワーナー・ブラザース(国外) |
ジャニーズ (Johnny's)は、1962年(昭和37年)4月にジャニーズ事務所から最初にデビューした日本の男性アイドルグループ。現在ジャニーズといえば同事務所もしくはその所属タレントを指すことがほとんどであるため、便宜上「初代ジャニーズ」「元祖ジャニーズ」と呼ばれることがある。 1962年4月結成、1967年11月20日解散。なお、この項では所属メンバーである真家ひろみと中谷良の個別の活動についても記述する。
Contents
メンバー
- 真家ひろみ(まいえ ひろみ、本名・真家弘敏、リーダー)
- 1946年11月1日 - 2000年3月6日。東京都渋谷区出身。渋谷区立代々木中学校→東京商業高等学校→日本大学芸術学部。
- 飯野おさみ(いいの おさみ、本名・飯野修實)
- 1946年8月23日 - 。愛知県渥美郡(現・田原市)出身。渋谷区立代々木中学校→東京都立農業高等学校→日本大学芸術学部。
- 中谷良(なかたに りょう、本名・中谷良三)
- 1947年9月18日 - 。東京都渋谷区出身。渋谷区立代々木中学校→堀越高等学校→日本大学芸術学部。
- あおい輝彦(あおい てるひこ、本名・青井輝彦)
- 1948年1月10日 - 。東京都杉並区出身。渋谷区立代々木中学校→日本大学鶴ヶ丘高等学校→日本大学芸術学部。
概要
ジャニーズのプロデューサーであるジャニー喜多川は日系二世で、1950年代前半にはサンフランシスコでの日本芸能人の公演に間近で接し、またその多くの知遇を得ていた。1953年に米国大使館の通訳として来日したジャニーは、居住していた代々木のワシントンハイツで近所の子供たちに野球を教えていた。チームは弱かったため喜多川はヘターズやエラーズなどと呼んでいたが、所属していたあおい輝彦が「ジャニー[注釈 1]さんが監督なんだからジャニーズがいいんじゃない?」と提案し、他の子供たちもそれに賛同したためジャニーズと名付けられた[1]。
ある日、雨で野球の練習ができなかったため、喜多川は少年たちを引き連れて映画『ウエストサイドストーリー』を鑑賞した。彼らは同作に衝撃を受け、喜多川はエンターテインメント事業への参入を決意する。ジャニーは米国由来の舞台芸術へのあこがれを持っており、メンバーもダンスのレッスンを熱心に行った。1962年4月、野球チームのメンバー4人でジャニーズが結成される。当初は新芸能学院(現:名和プロダクション)に在籍していたが、6月に喜多川がジャニーズ事務所を創業。ジャニーズは同事務所初の所属グループとなる[注釈 2][2]。
1962年8月、NHK総合『夢であいましょう』で田辺靖雄のバックを務め、芸能界デビューする。同番組は生放送の舞台ショーであったため、ジャニーの芸能方針に一致していたのである。当時のいわゆる「アイドル枠」としては御三家(橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦)がいたが、「歌って踊れるアイドル」という稀有な存在が重宝されることとなった[3]。1964年12月、『若い涙』でレコードデビュー。『夢であいましょう』内のコーナー「今月の歌」に採用される。以降も、永六輔、中村八大のゴールデンコンビによる楽曲を次々と発表する[4]。1965年、『第16回NHK紅白歌合戦』に初出場(ジャニーズとして唯一の紅白出演)。披露したのは音楽劇『三文オペラ』の劇中歌「マック・ザ・ナイフ」のカバーで、やはり舞台を意識したパフォーマンスであった[5]。
本物の舞台ショーにも積極的に出演した。1963年1月、日劇『第19回ウエスタン・カーニバル』に出演し、伊東ゆかりの「ロコモーション」のバックを務める。1965年、日本版ウェストサイド物語というべきミュージカル『焔のカーブ』(脚本:石原慎太郎、主演:北大路欣也)にも出演した[6]。
1966年8月28日、本格的なダンスレッスンをする為に渡米。その後ワーナー・ブラザースとの契約が決まり、予定の3ヶ月という滞在期間を延長してLPレコードのレコーディングを開始。その中から2曲を全世界に向けてシングルリリースした。プロモーションフィルムも制作していたが、何らかの原因により吹き込みが叶わなかった。なお、未発売の楽曲のうち、「Never My Love」はアドリシ・ブラザーズが作った楽曲で、ジャニーズのLPのお蔵入りが決まった後、1967年にアソシエイションによって演奏及びレコード化され、全米チャート第1位の大ヒットを記録している(Billboard Hot 100では最高2位)[7][注釈 3]。
1967年1月5日に帰国。渡米中に爆発的に流行していたグループサウンズを参考にした楽曲を発表するが、程なくして解散へと至ることになる。11月20日、渋谷公会堂でのコンサートを最後に解散した[8]。
解散から2年後の1969年12月13日、日本劇場で行われた『オールスター・歌の祭典』にて、1日限りで再結成された。
グループ解散後
真家ひろみ
真家宏満、さらに、池波正太郎から命名された立花正太郎へと2度の改名をする。俳優やワイドショーの司会として活動していた。元宝塚歌劇団54期生で声楽家・ソプラノ歌手の白河かほると結婚し、2人で個人事務所(有)真家企画を設立。1982年からはタクシー運転手に転職し、その模様が『ザ・ノンフィクション』や、猪瀬直樹の著書『あさってのジョー』(文庫化の際に『二度目の仕事 - 日本凡人伝』に改題)で取り上げられた。2000年3月6日午前2時55分、心筋梗塞の為に新宿区の病院で逝去した。享年55(満53歳)。
飯野おさみ
渡辺プロに移籍。アメリカでのダンス修行を経て、1972年に劇団四季に入団し、ミュージカル俳優に転向した。タレントの飯野めぐみは実の娘。
中谷良
渡辺プロに移籍してバンドを結成。1967年12月にフジテレビの音楽番組『ミュージックフェア』にソロで出演。その後は大阪に出向いて振付師の山田卓の元へ身柄を預け、2年間に渡りナイトクラブを回って演奏活動をしていた。1989年、暴露本『ジャニーズの逆襲』を発表。
あおい輝彦
劇団四季の研究生として歌や演技を学び、歌手や俳優として活動。歌手としては代表曲に1971年「二人の世界」、1976年「あなただけを」などが大ヒット、1976年末の『第27回NHK紅白歌合戦』へソロ歌手として初出場を果たす。俳優としては『水戸黄門』の佐々木助三郎役、『あしたのジョー』の矢吹丈役などが有名。
ディスコグラフィ
シングル
ジャニーズ
- 『若い涙 c/w ぼくの手袋破れてる』(1964年12月)
- 『若い夜 c/w 若いんだもん』(1965年5月)
- 『焔のカーブ c/w ぼくらのでっかい袋』(1965年6月)
- 『ガール・ハッピィ c/w チキン・オブ・ザ・シー』(1965年6月)
- 『栄光のマーチ c/w ぼくの瞳に君がいる』(1965年10月)
- 『流行歌コンパクト盤・若い涙』(17センチLP、4曲入)
- 「若い涙」「ぼくの手袋破れてる」「若い夜」「若いんだもん」を収録。
- 『君が若者なら c/w ひとりぼっちになったとき』(1966年1月)
- 『泣いていたジェニー c/w 涙くんさようなら』(1966年4月)
- B面曲はジョニー・ティロットソン、坂本九、和田弘とマヒナスターズ、ジュディ・オングとの競作。後にHey! Say! JUMPの中島裕翔がカバーしている。
- 『バットマン c/w 行け!バットマン』(1966年5月30日)
- 両面共に演奏はジャッキー吉川とブルーコメッツ。A面曲はドラマ『怪鳥人間バットマン』主題歌。
- 『おーいわーいチチチ c/w もう7時だよ』(1966年8月)
- A面曲はオーイわーいチチチの主題歌。
- 『霧の夜の哀愁 c/w 若者の帽子』(1966年10月)
- A面曲はあおいのソロ。B面曲は飯野のソロ。
- 『時計をとめて c/w 淋しさはどこから』(1966年10月)
- A面曲はあおいのソロ。原曲はメキシコのボーカルグループであるロス・トレス・カバジェロスの「時計 El Reloj」。
- 両面共、後にフォーリーブスがカバーしている。
- 『流行歌名曲シリーズ・泣いていたジェニー』(17センチLP、4曲入)
- 「泣いていたジェニー」「涙くんさようなら」「君が若者なら」「ひとりぼっちになったとき」を収録。
- 『太陽のあいつ c/w ロンサムガール』(1967年4月)
- A面曲は同名ドラマの主題歌。
- 『いつか何処かで c/w 素敵な恋人』(1967年9月)
- A面曲は、映画『君は恋人』の劇中歌として使用されている。B面曲は中谷のソロ。
- 『若い日本の歌 c/w 日本の朝』(1967年10月)
- 第22回文部省芸術祭参加作品。
中谷良
- 『悲しきティーンエイジ・アイドル c/w カモン・バック・トゥ・ザ・ツイスト』(1977年5月、ブラックレコード)
- A面曲はダウン・タウン・ブギウギ・バンドのカバー曲。
シングル(日本国外盤)
- 『Nothing Sacred c/w I Remember』(1966年)
- The Johnnys名義。
アルバム
ジャニーズ
- 『ジャニーズ ステレオ・ハイライト 第1集』(1966年)
- 『ジャニーズとアメリカ旅行 〜 ジャニーズショウ実況録音』(1966年11月)
- 1966年8月21日に渋谷公会堂で行われたコンサートより収録。
中谷良
- 『We're the JOHNNYS』(1989年12月10日)
- インディーズ作品。北公次らによるオムニバスCD。中谷の楽曲は、本人による作詞作曲の「予期せぬ出逢い」が収録。
- 同名のビデオ作品も同時に発売されており、中谷も出演している。
ソノシート
- 『Little HONDA』(1964年)
- ホンダのノベルティ。1曲目にザ・ビーチ・ボーイズのオリジナル版、2曲目にジャニーズによるカバー版が収録。
- 『ハロー・ジャニーズ』(1965年)
- 「ぼくの瞳に君がいる」「栄光のマーチ」「チキン・オブ・ザ・シー」「ガール・ハッピィ」を収録。
- 『女友シート・ジャニーズのないしょ話公開』(1966年)
- 『女学生の友』1966年4月号特別付録。
- 『ビクターミュージックブック バットマン ダイヤモンド強奪計画』
- ジャニーズが歌う「バットマンのテーマ」(「バットマン」と同一)と、ドラマ声優陣によるオリジナルドラマ「ダイヤモンド強奪計画(1)」を収録。
楽曲提供
真家ひろみ
- ファイヴ・キャンドルズ『アイ・ラヴ・ビイ・ビイ c/w 大阪の娘』
- B面曲の作詞をしている。
出演
NHK紅白歌合戦出場歴
年度/放送回 | 回 | 曲目 | 出演順 | 対戦相手 | 備考 |
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1965年(昭和40年)/第16回 | 初 | マック・ザ・ナイフ | 14/25 | 弘田三枝子 | 橋幸夫のバックダンサーも担当 |
注意点
- 出演順は「出演順/出場者数」で表す。
バラエティ番組
ジャニーズ
- 夢であいましょう(NHK)
- 味の素ホイホイ・ミュージック・スクール(日本テレビ)
- 木の実ナナのバックダンサーとして出演。
- 森永スパークショー(フジテレビ)
- シャボン玉ホリデー(日本テレビ)
- 九ちゃんの夏休み
- 若さとリズム(NHK)
- 明日があるさ(日本テレビ)
- ジャニーズナインショー(日本テレビ)
- ジャニーズセブンショー(日本テレビ)
真家ひろみ
テレビドラマ
ジャニーズ
- へそまがりに突撃! (1965年7月3日、日本テレビ)
- 太陽のあいつ 第9話「スタントカー大混乱!!」(1967年6月22日、TBS) - スタントマン志望の若者たち役
- この回のラストで、同名主題歌をダンスとともに劇中歌として披露している。
- 若い季節(NHK) - あおい輝彦のみ出演
真家ひろみ
- アーラわが君(1969年4月2日 - 1970年3月25日、フジテレビ)
- 戦いすんで日が暮れて(1969年、日本テレビ) - 西郷大一郎役
- 太陽にほえろ! 第6話「手錠と味噌汁」(1972年、日本テレビ) - 谷昭一役
- ウルトラマンA 第37話「友情の星よ永遠に」(1972年、TBS) - 加島役
- クレジットは“まいえ宏満”となっている。
- Gメン'75 第192話「バラバラ殺人事件」(1979年、TBS) - 野口一郎役
- 雲霧仁左衛門(1979年、フジテレビ) - 忠吉役
- 鬼平犯科帳(萬屋錦之介版)(1980年4月1日 - 9月30日、テレビ朝日) - 山田市太郎役
- 峠の群像(1982年、NHK)
映画
ジャニーズ
- 下町の太陽(1963年4月18日、松竹)
- やぶにらみニッポン(1963年12月1日、東宝)
- あの雲に歌おう(1965年1月15日、東映)
- 青春大統領(1966年4月27日、日活)
- クレージー黄金作戦(1967年4月29日、東宝)
- 君は恋人(1967年11月3日、日活)
真家ひろみ
- ひばり・橋の花と喧嘩(1969年7月5日、松竹) - 深作直助役
- 戦いすんで日が暮れて(1970年1月31日、松竹) - 西郷大一郎役
- 花の不死鳥(1970年7月1日、松竹)
- 喜劇 あゝ軍歌(1970年9月15日、松竹) - 若者役
- 東京チャタレー夫人(1977年8月20日、日活ロマンポルノ) - 加納達則役
- 杳子(1977年10月22日) - 杳子の恋人役
中谷良
- 怪獣の観た夢(1992年4月、マクザム)
- 北公次主演のOVA作品。
舞台
ジャニーズ
- 焔のカーブ(1965年4月・日生劇場、作・石原慎太郎、音楽・中村八大)
- 夏の踊り 〜四つの約束〜 / 喜劇・青春大騒動(1965年8月1日 - 26日、梅田コマ・スタジアム)
- 宝島(1966年1月、日生劇場、作・石原慎太郎、音楽・中村八大)
- いつかどこかで 〜 フォーリーブス物語(1967年6月、大阪フェスティバルホール、脚本・ジャニー喜多川)
中谷良
- レッツ・ゴー フォーリーブス(1969年12月、大阪フェスティバルホール/日生劇場) - 鳥羽家の甥の良三役
- 第2幕「オー・マイ・ママ」に出演。
- 郷ひろみヤングミュージカル 走れ あしたに!!(1974年) - 高校教師役
- 郷ひろみのコンサート内でのミュージカル。
- オリジナルミュージカルプレイ 友情(1975年1月) -中谷良三役
- 「フォーリーブス リサイタル'75」内でのミュージカル。
- ライブ・ミュージカル 少年たち 〜フォーリーブス・不朽の名作〜(1975年4月5日 - 5月5日) - 中谷良三役
真家ひろみ
ステージ
- 第19回新春ウエスタン・カーニバル(1963年1月14日 - 21日、日本劇場)
- 第20回ウエスタン・カーニバル(1963年5月5日 - 12日、日本劇場)
- 第21回ウエスタン・カーニバル(1963年9月2日 - 8日、日本劇場)
- 第22回新春ウエスタン・カーニバル(1964年1月14日 - 2月21日、日本劇場)
- 第23回ウエスタン・カーニバル(1964年5月5日 - 12日、日本劇場)
- 第24回ウエスタン・カーニバル 〜ペギー・マーチがやってきた(1964年8月26日 - 9月1日、日本劇場)
- 第25回新春ウエスタン・カーニバル(1965年1月14日 - 21日、日本劇場)
- 第26回ウエスタン・カーニバル(1965年5月5日 - 12日、日本劇場)
- 第27回ウエスタン・カーニバル(1965年8月28日 - 9月3日、日本劇場)
- 詳細不明、ザ・ピーナッツのショーに出演(1965年9月、梅田コマ・スタジアム)
- ジャニーズ・ショー(1965年12月22日 - 24日、日本劇場)
- 第28回新春ウエスタン・カーニバル(1966年1月15日 - 21日、日本劇場)
- ジャニーズリサイタル(1966年、日生劇場)
- 第29回ウエスタン・カーニバル(1966年5月5日 - 12日、日本劇場)
- 第30回ウエスタン・カーニバル(1966年8月27日、日本劇場)
- 第31回新春日劇ウエスタン・カーニバル(1967年1月15日 - 21日、日本劇場)
- 第32回ウエスタン・カーニバル(1967年5月5日 - 12日、日本劇場)
- 第33回ウエスタン・カーニバル (1967年8月26日 - 9月1日)
- ピーナッツ・ホリデイ〜ジャニーズと共に!(1967年9月2日 - 8日、日本劇場)
- 解散コンサート(1967年11月20日、渋谷公会堂)
- オールスター・歌の祭典(1969年12月13日、日本劇場)
- 1日限りの再結成ステージ。
書籍
ジャニーズ
- ジャニーズ'65(1965年10月31日) - 写真集
中谷良
- ジャニーズの逆襲(1989年10月、データハウス)
真家ひろみ
- ハイ!どうぞ - ジャニーズ・タクシー奮走記(1993年5月、マガジンハウス)
脚注
注釈
出典
参考文献
- 矢野利裕 『ジャニーズと日本』 講談社現代新書、2016年12月20日。ISBN 978-4-06-288402-0。
関連項目