シュメール
シュメール(アッカド語: Šumeru; シュメール語: テンプレート:Cuneiform[注 1] - ki-en-ĝir15)は、メソポタミア(現在のイラク・クウェート)南部を占めるバビロニアの南半分の地域[1]、またはそこに興った最古の都市文明である[2]。初期のメソポタミア文明とされ、チグリス川とユーフラテス川の間に栄えた。
民族・言語
シュメール人は自らを「ウンサンギガ」(シュメール語: テンプレート:Cuneiform - ùĝ saĝ gíg-ga (発音:uŋ saŋ giga)、「黒頭の民」の意)と呼び、その土地を「キエンギ」(シュメール語: テンプレート:Cuneiform - ki-en-ĝir15、「君主たちの地」の意)と呼んでいた。
「シュメール」という用語はアッカド人により用いられた異称で、このことはアッカドやその北東のスバル人へと知覚された関係を示す。アッカド語の「シュメール」はおそらく彼らが「メソポタミア南部のシュメール人地域」を方言で表したものであろう。彼らが「キエンガ」(「カンガ」とも)と自称する言語学的グループの異称のままであった。シュメールとはたんに言語学的な概念であり、シュメール語についてのみ適用され、民族集団としてのシュメール人を分離して示すことはできないともいわれ、その場合、シュメール人は正確には「ウンサンギガ」あるいは「キエンギ人」ないし「言語学的シュメール人」と呼ばれる。スバル人による異称は、メソポタミアやレバントにおけるセム語を話すさまざまな言語グループと結びついていて、シュメール語の言語的基盤とは関係がなかった。そのほかシュメール語と、エラム語やドラヴィダ語との言語学的結びつきを指摘する学者もいるが、言語学においてより一般的に受け入れられている説では、シュメール語は孤立した言語であり、たとえばアッカド語がセム語族に属するような形での近縁関係にある言語をもっていない。
シュメールの言語、文化、また、おそらくは外見も周囲のセム系の民族とは異なっていた。しかしシュメールの男子像を見る限り、大きく彫りの深い目、高い鼻、巻き毛で髭が多いなどセム系と変わりないような容貌をした像もあり、民族系統は未だ謎である。アッカド王朝以前の遺跡に見られるシュメール人の容貌は剃髪した彫りの浅い髭のない傾向が多く見られ、アッカド人とは書き分けられているようである。創世記では洪水後シナル(シュメール地方)に住み着いたのは「東からやってきた人々」とされており、言語的また容貌的観点からモンゴロイドである可能性もある。シュメール人は広範に征服民か移住民であると信じられている。しかしそのような移住がいつ行われたのか、またシュメール人の地理的な起源がどこなのかを正確に決定することは難しい。一部の考古学者はシュメール人が実際にはメソポタミア平原に出自を持つとの観点にいたっている。
前史
中石器時代
新石器時代
新石器革命(紀元前10000年 - 紀元前7000年)以降にティグリス・ユーフラテスに囲まれた“肥沃な三日月地帯”において、これまでの狩猟と採集の生活から、牧畜(牛・羊の飼育)と農耕(麦類栽培)を主体とした生活が行われるようになった[注 2]とみられる遺構が、紀元前8000年頃のJarmoから発見されている。
ハラフ文化
ハラフ文化は、「ハラフ期」(紀元前6000年-紀元前5300年)に栄え、紀元前5000年頃にメソポタミア南部から広がったウバイド文化に継承された。
ウバイド文化
小規模の農業をもつ組織化され紀元前5500年頃に始まったウバイド文化は、この地域において現在確認されている最古の文化層である。ウバイドは、ウル市から西6キロメートルに位置する遺跡名である。ウバイド文化は、ザグロス高原北西部付近(Jarmoなど)に文化的根拠地をもち、ウバイドが主体[注 3]となった。[注 4]
当初は天水農耕に頼っていた彼らであったが、ウバイド2期(ウバイド文化中期、紀元前4800年-紀元前4500年)には灌漑農法を考案し、これまでの天水農法とは比較にならないほどの農業能率と農業収益を実現し、年間降水量200mmの限界線を超えて周辺地帯にまで農耕文化は拡大、穀物の収穫は大幅に増加した。これによって、ウバイド文化は他の文化を圧倒し、西アジア全域に影響を与えた。
ウバイド期は紀元前3800年頃に短期間のうちに終焉を迎えたと考えられている。アラビア半島東部やオマーンでの考古学調査から、この時期が湖水面の低下、砂丘の活動開始などの直後[3]であることが明らかになり[注 5]、乾燥の広がりによって耕作活動が不可能になった。エリドゥからウルクへ移住したという神話[注 6]が残されている。
歴史
シュメールの歴史は、シュメール人が文明を築いてから、アッカドやバビロニアの支配を受け、さらにバビロニアがペルシャ帝国に併合されてシュメール人が姿を消すまで続いた。
シュメール都市文明の成立
ウルク期
ウバイド期に続く次の時期をウルク期(紀元前3500年-紀元前3100年)と呼び、この時期は都市文明の開始期である。都市文明の担い手はシュメール人だった。ウルク文化期後期には支配階級や専門職人や商人が現れ、ウバイド文化期には認められなかった円筒印章やプラノ・コンヴェクス煉瓦が登場した。紀元前3200年頃にウルクでウルク古拙文字と呼ばれる絵文字が生まれた。ほぼ同時期に、東のエラムでは原エラム文字(英: Proto-Elamite script)やエラム線文字(英: Linear Elamite)が使われ、エジプト初期王朝時代ではヒエログリフとヒエラティックが使われていた。David McAlpinらは、原エラム文字とインダス文字が非常によく似ていると指摘している[4]。これら相互の文化的影響は未解明である。
ジェムデト・ナスル期
ウルク期につづくジェムデト・ナスル期(紀元前3100年-紀元前2900年)になると、紀元前3000年頃、銅にすずを混ぜる青銅合金の製造法が発見され、青銅製の武器が作られた。銅の供給地はバット遺跡。スズの供給地はトロス山脈のケステル。武器の発達によって都市国家間の戦乱時代となり、ウルクの市域は最大に達し、ジェムデト・ナスル文化はペルシャ湾岸まで達した。 しかし、ジェムデト・ナスル期末期にシュルッパクの王ウバル・トゥトゥの治世下で、メソポタミア全域が大洪水に見舞われ、ウルクの繁栄が終わり、シュメールの中心はキシュに移った。
初期王朝時代
初期王朝時代(紀元前2900年-紀元前2350年)には、ウル、ラガシュのような多くの新興シュメール都市国家が成立し、王朝が成立した。考古学的に実在が確認されている最古の王は、紀元前2800年頃のキシュ第1王朝の王エンメバラゲシである。アワン朝古エラム時代(紀元前2700年頃)、3代に渡ってシュメールを支配したと伝えられる。紀元前2700年頃、シュメール下流の都市が繁栄し、キシュはさびれた。
紀元前2600年頃と考えられているウルク第1王朝の王ギルガメシュは『ギルガメシュ叙事詩』によってその名を知られているが、エンメバラゲシの実在が確認された事から実在が確実視されている。シュメールとの交易相手にはen:Majan (civilization)、ディルムン、en:Meluhhaが知られており、この時代には広大な交易網が形成されていた。ラガシュの王ウル・ナンシェの碑文にディルムンと交易していた記録が残っている。en:Meluhhaがインダス文明であるとする説をヘルシンキ大学のアスコ・パルボラ博士とen:Simo Parpolaら多数の学者が支持している。楔形文字が完全な文字体系に整理されたのは紀元前2500年頃である。伝説ではウルク第1王朝の王エンメルカルが文字を使ってアラッタに降伏を勧告した(エンメルカルとアラッタの領主)。
ハマズィ朝古エラム(紀元前2500年-紀元前2400年)時代、エラムが再びシュメールを支配したと伝えられる。
初期王朝時代後期の150年に、シュメール地方の覇権をめぐって都市国家間の合従連衡の動きが活発になり、時代が転換した[5]。戦勝記念碑ハゲワシの碑(Stele of the Vultures)によれば、ウル・ナンシェの孫エアンナトゥムの治世(紀元前2450年)にラガシュとウンマの間でチグリス川沿岸の土地「グ・エディン・ナ」[注 7](シュメール語: GU.EDEN.NA)で水利権を巡って「ラガシュ・ウンマ戦争」と呼ばれる記録に残る世界最古の戦争を100年に渡って行なった。当初、ウルク第2王朝が優勢な地位を占め、ウルク第2王朝の王エンシャクシュアンナが「国土の王」を初めて名乗り、ラガシュ側に加勢した。紀元前2330年頃、ウンマ王のルガルザゲシが、ラガシュのウルイニムギナを破って初めてシュメール地方の統一を果たし、ウルク第3王朝が成立した。ウルク第3王朝は20年ほど続いた。
アッカド帝国の成立
初期王朝時代の次がアッカド帝国時代(紀元前2350年-紀元前2113年)である。「アッカド(英: Akkad)」とは、サルゴンが作ったバビロニアの北にある中心都市「アガデ(英: Agade)」[注 8]の別称である。そこの住民は、シュメール語と異なるセム語派のアッカド語を話すため、シュメール人からアッカド人と呼ばれた。
アッカド王のサルゴンは、当時では特殊であった常備軍を有することでシュメールに対する軍事的優位性を確保すると、統一されたばかりのシュメールに攻め入ってルガルザゲシを破り、シュメール地方とアッカド地方からなるメソポタミアの統一を果たした。
次王リムシュはすぐに暗殺され、マニシュトゥシュが第3代の王になった。第4代の王、ナラム・シンは新たな王号として「四方世界の王」を採用し、シリア、アナトリアへ積極的に軍事遠征を行った。このとき(BC2300頃)アッカド帝国の版図は最大になった。アッカド王朝以降、アッカドの文化はオリエント全域に影響を与え、アッカド語はこの地域の共通語として使用されるようになった。
グティ朝
ナラム・シンの死後、シャル・カリ・シャッリの時代には、アムル(マルトゥ)、エラム[注 9](アワン朝古エラム時代)、グティなどの異民族が侵入し、「誰が王で、誰が王でなかったか」と称される無政府状態に陥った。アッカド帝国の支配体制の詳細が明確ではない。この混乱期にアッカド帝国の支配力は弱体化し、被支配下にあったシュメール諸都市国家がそれぞれの国境争いで離反、割拠した[注 10]。 グティ朝のもとで、ラガシュ王のグデアが貢納して繁栄し、芸術面で繁栄したことはグデア座像によって知られている。ナラム・シンの時代からわずかな期間で彫刻技術が飛躍的に向上した理由が何だったのかは明らかになっていない。
ウル第三王朝
この混乱をおさめたのがウルクの王であったウトゥ・ヘガルである。さらにウトゥ・ヘガル配下の将軍であったウル・ナンムがウル第三王朝を創始した(紀元前2113頃)。ウル第三王朝(紀元前2113年-紀元前2006年)と呼ばれているのは、シュメール人によって再建された最後の王朝の時代である。なお、ウル第三王朝と呼ばれるのは、三番目の王朝という意味ではないことに注意、これは考古学的にテル(遺丘)の第三番目ストラトス(地層区分)に位置する遺跡という意味の呼称である。
政治的には中央集権制度を整備した。初代ウル・ナンム王、あるいは2代目シュルギ王の時代には、世界最古の法典である「ウル・ナンム法典」が記された。この法典は後に遊牧民系民族であるアモリ人の国家で制定された「ハムラビ法典」とは異なり、「同害復讐法」を採用していないのが特徴である。
地方の諸国家が強さを増すとともに、シュメール人はメソポタミアの多くの部分で政治的な覇権を失い始めると、ウル第三王朝から支配下の諸都市が離反し、紀元前2004年に、東方のシュマシュキ朝古エラムの王キンダットゥによるウル占領によってシュメール人国家は滅亡した(『ウル市滅亡哀歌』)。
没落
イシン・ラルサ時代
キンダットゥに占領されたシュメールのウルは、アムル人のイシュビ・エッラに奪還され、イシン第1王朝が成立した。リピト・イシュタル法典が知られている。紀元前2000年頃、アムル人が南部を支配する間に、アルメニアのフルリ人がミタンニ帝国を打ち立てた。両者とも、古代エジプトとヒッタイトに対抗して自らを守った。ヒッタイトはミタンニを破ったが、バビロニア人によって撃退された。紀元前1757年頃、バビロン第1王朝のハンムラビがシュメール及びアッカドを統一し、イシン・ラルサ時代が終わった。
カッシート朝
紀元前1460年頃、カッシート人がバビロニア人を破った。前1200年のカタストロフ。紀元前1150年頃、エラム人の王シュトルク・ナフンテ1世がカッシートを打ち負かし、バビロンを陥落させてバビロニアを支配下に治めた。
イシン第2王朝
バビロニアには新たにイシン第2王朝が興り、紀元前1129年頃にネブカドネザル1世がエラム(シュトルク朝、Shutrukid dynasty)を破った。
新アッシリア帝国
ティグラト・ピレセル3世率いる新アッシリア帝国が強勢となってその後約300年間はエジプトを除くオリエント世界を支配した。
新バビロニア王国
紀元前625年、カルデアのナボポラッサルがアッシリアを破り、新バビロニア王国が建国された。
アケメネス朝ペルシア帝国
紀元前525年にアケメネス朝ペルシア帝国のカンビュセス2世によって古代オリエントは統一された。
国家形態
都市国家
シュメール人はさまざまな都市国家に居住し、それぞれジッグラトと呼ばれる神殿の周囲に集住していた。彼らは神がそれぞれの都市を所有すると信じていた。主だった大きな都市は、エリドゥ・キシュ・ウルク・ウルなどである。王たちは、軍隊や商業を支配し、都市を統治した。 初期王朝時代からウル第3王朝までの期間は、王権が拡大され、都市国家[注 11]が領域国家[注 12]、さらに統一国家へと発展する時期でもある。
おもな都市国家にウル、ウルク、ウンマ、エリドゥ、キシュ、シッパル、シュルッパク、ニップル、マリ、ラガシュ、ラルサがある。
王の称号
初期王朝時代には都市の王たちは、それぞれの都市の習慣に従って、「エン」[注 13]「ルガル」「エンシ」などの称号を用いていた。 初期王朝末期になりエンシャクシュアンナが初めて「国土の王」(ルガル・カラムマ)、ついでアッカド王朝初代のサルゴンから「全土の王」(シャル・キッシャティ)という称号を使用する。これは、王権が都市国家の限定された地区にとどまらず、より広い領域に及んでいることを表したものである。さらにアッカド王朝第4代ナラム・シン王が「四方世界の王」(シャル・キブラティム・アルバイム)[注 14]の称号を用いたことは、メソポタミア地域にかかわらず、周辺諸国をも支配下におさめた統一国家を形成したことの指標であると考えられる。
シュメール王名表
また、「シュメール王名表」と呼ばれる記録が角柱として残っている。以下、概要。
王権が天から降って、まずエリドゥにあった。エリドゥではアルリムが王となり、二万八千八百年統治した。アラルガル(Alalĝar)は三万六千年統治した。二王は六万四千八百年統治した。大洪水が地を洗い流したのち、王権が天から降り、それはまずキシュにあった。キシュは戦いで敗れ、王権はエアンナに移された。そこでは太陽神ウトゥの子、メスキアッガシェルが王と大祭司を兼ね、三百二十四年統治した。ウルクは戦いで敗れ、その王権はウルに移された。ウルではメスアンネパダが王となり、八十年統治した。四人の王が百七十七年統治した。ウルは戦いで敗れた。・・・・
経済
シュメール人は、奴隷を使役した。女性の奴隷は、織物・圧搾・製粉・運搬などで働いた。
石材・銀・銅・木材が、インドやアフリカから来た。ラクダの隊商が、雄牛に引かれた荷車やそりとともに、品物をシュメールへと運んで来た。
農業
シュメール人は大麦・ヒヨコマメ・ヒラマメ・雑穀・ナツメヤシ・タマネギ・ニンニク・レタス・ニラ・辛子を栽培した。また魚や家禽を狩り、ウシ・ヒツジ・ヤギ・ブタを飼育した。 主要な役畜としては雄牛を、主要な輸送用動物としてロバを使役した。
シュメール人の農業は灌漑に依存し、灌漑は羽根つるべ・運河・水路・堤防・堰・貯蔵庫を使って行われた。運河の維持の為に修復作業と沈泥の除去がたびたび実行され、政府は国民に運河で働くことを求めたが、富裕な者は免除された。
農民は運河によって畑に水を引き、雄牛に地面を踏みつけさせて雑草を枯れさせてからつるはしで畑を引きずり、畑土が乾いた後で彼らは鋤ですき、馬鍬でならし、熊手で掻き、根掘り鍬で土を砕いた。乾燥した秋には、刈り取る者・束ねる者・束を整理する者の3人1チームで収穫した。
農民は、穀物の上部を茎から分離するために脱穀用車を用い、穀粒を引き離すために脱穀用のそりを用いた。穀物と殻はふるいわけられた。
他にも、シュメール人は最初に植物と動物の両方を育てていたと考えられているが、前者の場合は突然変異の草を系統的に栽培・収穫することであり、これは今日一粒小麦や二粒小麦として知られているものである。後者は、原種のヒツジ(ムフロンに似る)やウシ(ヨーロッパヤギュウ)を出産させて飼育することである。
文化
宗教思想
シュメールの神殿は、中央の本殿と一方の側に沿った側廊から成っていた。側廊は、神官の部屋の側面に立っていたであろう。一つの端には、演壇、および動物や野菜を生贄に捧げる日干しれんがのテーブルがあったであろう。穀物倉や倉庫は通常は神殿の近くにあったろう。後にシュメール人は、人工的な多層段丘「ジッグラト」の頂上に神殿を置き始めた。
シュメール人は、地母神であるナンム、愛の女神であるイナンナまたはイシュタル、風神であるエンリル、雷神であるマルドゥクなどを崇拝した。シュメール人が崇拝する神々(𒀭 - DINGIR - ディンギル)は、それぞれ異なる都市からの関連を持っていた。神々の信仰的重要性は、関連する諸都市の政治的権力に伴って、しばしば増大したり減少したりした。言い伝えによれば、ディンギル(神)たちは、彼らに奉仕させる目的で、粘土から人間を創造した。ディンギルたちは、しばしば彼らの怒りや欲求不満を地震によって表現した。シュメール人の宗教の要点が強調しているのは、人間性のすべては神々のなすがままにあるということである。
社会思想
シュメールにおいて女性は他の文明よりも高い地位を達成したが、文化は主として男性により支配され続けた。史家アラン・I・マーカス曰く「シュメール人は、個人の人生においてやや厳しい展望を持っていた」。
あるシュメール人は「私は、涙、悲嘆、激痛、憂鬱とともにある。苦痛が私を圧倒する。邪悪な運命が私を捕らえ、私の人生を取り払う。悪性の病気が私を侵す」と記している。 また別のシュメール人はこう書いている。「なぜ、私が無作法な者として数えられるのか? 食べ物はすべてあるのに、私の食べ物は飢餓だ。分け前が割り当てられた日に、私に割り当てられた分け前が損失をこうむったのだ」
天文学
シュメール人は、宇宙がスズ製のドームに囲まれた平らな円盤から構成されると信じていた。シュメール人の「来世」は、悲惨な生活で永遠に過ごすためのひどい地獄へ降下することを含んでいた。
数学
紀元前3000年頃には、度量衡などに関する記録がある。紀元前2000年頃に「1」と「10」を表す記号によって60進法が整理され、天文学の分野が発展した。分数や小数の概念も存在し、徴税や配分などの管理、農業における耕地面積の計算、建築などに用いられた。
文学
シュメール文学の大部分は、アッカド語の翻訳をはじめ、アッシリアやバビロニアでの複製を通じて間接的に保存されている。叙事詩、讃歌、知恵文学などがあり、ギルガメシュを主人公とした一連の作品のほか、農業の方法が書かれた『農夫の教え』、学校をテーマとした『学校時代』などがある。記録が残っている中で最古の文学者として、エンヘドゥアンナ王女が知られている[6]。
美術と工芸
シュメールの陶工は、陶器を杉油の油絵で飾り立てた。陶工は、陶器を焼くために必要な火を起こすために弓ぎりを用いた。石細工や宝石細工には、象牙・金・銀・方鉛鉱が使われた。
技術
シュメール人は、のこぎり・革・のみ・ハンマー(つち)・留め金・刃・釘・留針・宝石の指輪・鍬・斧・ナイフ・槍・矢・剣・にかわ・短剣・水袋・バッグ・馬具・ボート・甲冑・矢筒・さや・ブーツ・サンダル・もりなどを製造する技術を持っていた。
軍事
城壁は、シュメールの都市を防御した。シュメール人は、彼らの都市間の包囲戦に従事した。日干しれんがの壁は、れんがを引きずり出す時間的余裕のある敵を防ぎきれなかった。
シュメール人の軍隊は、ほとんどが歩兵で構成されていた。そのうち軽装歩兵は、戦斧・短剣・槍を運搬した。正規の歩兵は、さらに銅製の兜・フェルト製の外套・革製のキルトなどを着用した。シュメールの軍隊は、古代ギリシャ同様の重装歩兵を主力とし、都市防衛に適したファランクスを編成していたことで知られる。シュメール軍は投石器や単純な弓を使用した(後世に、人類は合成の弓を発明する)。
シュメール人は戦車を発明し、オナガー(ロバの一種)を牽引に利用した。初期の戦車は後世の物に比べて、戦闘時においてあまり有効に機能せず、搭乗員は戦斧や槍を運び、戦車はおもに輸送手段として役だったとされる。戦車は、二人の搭乗員が乗り込んだ四輪の装置で、4頭のオナガーを牽引に利用していた。台車は、一つの織られた籠と頑丈な三片設計の車輪から構成されていた。
建築
シュメール人は、控え壁(補強壁の一種)・イーワーン・半円柱・粘土釘などを用いた。チグリス・ユーフラテス両河の平原には鉱物や樹木が不足していたため、シュメール人は平らまたは凸の日干しれんがで建物をつくったが、それらはモルタルあるいはセメントで固定されてはいなかった。平凸のれんがは(丸みを帯びて)多少不安定で、シュメール人のれんが工は、れんがの列を残りの列に対して垂直に置き、その隙間を瀝青・穀物の茎・沼地のアシ・雑草などで埋めたと推測されている。
交通
シュメール人のボートの型は次の三つである。
- 革製のボートは、アシや動物の皮膚から成っていた。
- 帆掛け舟は、瀝青で防水をした特徴がある。
- 木製オールの付いた船は、ときには近くの岸を歩く人や動物によって上流に引かれた。
医術
シュメール人は、尿・酸化カルシウム・灰・塩から硝石を生産した。彼らは、ミルク・ヘビの皮・カメの甲羅・カシア桂皮・ギンバイカ・タイム・ヤナギ・イチジク・洋ナシ・モミ・ナツメヤシなどを組み合わせた。彼らは、これらとワインを混ぜ合わせて、その生成物を軟膏として塗った。あるいはビールと混ぜ合わせて、口から服用した。
シュメール人は、病気を魔物の征服とし、体内に罠を仕掛けられるようになると説明した。薬は、身体内に継続的に住むことが不快であることを、魔物に納得させることを目標とした。彼らはしばしば病人のそばに子羊を置き、そこに魔物を誘い込んで屠殺することを期待した。利用可能な子羊でうまくいかなかったときは、彫像を使ったかもしれない。万一、魔物が彫像へ入り込めば、彼らは像を瀝青で覆うこともした。
遺跡発掘
1877年、フランス隊によってテッロー(シュメール都市ラガシュ)遺跡が発掘され、シュメール文明の存在が明らかにされた。以後20世紀の20年代にかけて、シュメールの主要都市であるニップル・ウル・ウルクの発掘が米・英・独によって行われ、シュメール語で書かれた楔形文字粘土板が多数出土した[7]。1922年に始まったイギリス人考古学者レオナード・ウーリーによるウルでの発掘はよく知られている。
日本における俗説と表記
第二次世界大戦中に、「高天原はバビロニアにあった」とか天皇呼称の古語「すめらみこと」は「シュメルのみこと」であるといった俗説が横行した[8]。このため、シュメール学の京都大学・中原与茂九郎[注 15]がこれを避けるため「シュメール」と長音記号を入れて表記した[8]。これが現在の日本語の慣習の起源である[8]。
1940年、小島威彦と仲小路彰と陸軍軍人高嶋辰彦の発案で「スメラ学塾」が開講され、その思想に感化された川添紫郎(小島威彦のいとこ[9]、のちにイタリア料理店「キャンティ」オーナー)や建築家の坂倉準三らが「スメラクラブ」という文化サロンを結成した[10]。塾頭には末次信正海軍大将が就いた[11]。仲小路は、上代において日本を根軸とする「スメラ太平洋圏」があり、進行中の太平洋戦争を「上代スメラ太平洋圏復興への皇御軍(すめらみいくさ)」と考えていた[12]。しかし、坂倉の義父である西村伊作は、「(坂倉らが関係しているスメラという団体は)人類の根本の人種であるスメル人が日本にも移り住み、それが日本の天皇のすめら命になったと言っているが、一種の誇大妄想狂だ。坂倉はこの戦争に勝ってオーストラリアを全部取ったら別荘を作って遊びに行ったり、飛行機でパリに買物に飛んで行く、というようなことを空想していた。」と書き残している[13]。
脚注
注釈
- ↑ シュメール語の楔形文字の表示にはUnicodeフォント(Akkadianなど)が必要です。
- ↑ 狩猟採取経済から生産経済へ
- ↑ ザグロス高原から来た住民については何もわかっていない。「シュメル人問題」と呼ばれる未解決問題である。
- ↑ ウバイドの民族系統は不明で、シュメール人が短頭であるのに対してウバイドでは長頭であり、地名などの文字の綴りがシュメール語では説明不可能なものであることから、シュメール人ではないだろうと考えられている。彼らは紀元前5千年紀にはシュメール地方に存在していたと思われる。
- ↑ 6000年前は、完新世の気候最温暖期にあたり、日本でも縄文海進として知られる海水準変動が起こった。
- ↑ イナンナの神話では、エリドゥの守護神エンキから逃げてウルクに辿り着いたイナンナがウルクの守護神になる。
- ↑ 「平野の境界」の意。エデンの園のモデルとされる。
- ↑ 所在地は現在も不明。(前田(2000) 25ページ)
- ↑ イラン高原西南部全域を勢力圏にし、さらにディヤラ地方からメソポタミア中部地域まで勢力を伸ばしていた。(前田(2000) 24ページ)
- ↑ ラガッシュとウンマの国境争いがよく知られている。(前田(2000) 24ページ)
- ↑ 紀元前2900年頃には都市国家の王権が確立し、都市国家分裂期(前田(2000) 23ページ)
- ↑ シュメールとアッカド両地域が一人の王に統一された国家形態(前田(2000) 23ページ)
- ↑ 紀元前3200年頃の粘土板文書に現れる。どのような存在であるかについては議論が続いている。(前田(2000) 24ページ)
- ↑ ウル第3王朝も用いた。(前田(2000) 24ページ)
- ↑ 中原は、日本におけるシュメール研究の基礎を築いた。実証性を欠いた従来の研究動向を批判し、同時代資料の実証的分析によってシュメール王権の展開過程を明らかにした。The Sumerian Tablets in the Imperial University of Kyoto. Tokyo.1928を出版。戦後京都大学でシュメール学を担う後進の育成に努めた。(前田(2000) 23ページ)
出典
- ↑ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
- ↑ 世界大百科事典 第2版
- ↑ Parker, Adrian G.; et al. (2006). “A record of Holocene climate change from lake geochemical analyses in southeastern Arabia”. Quaternary Research 66 (3): 465–476. doi:10.1016/j.yqres.2006.07.001. オリジナルの2008年9月10日時点によるアーカイブ。 .
- ↑ David McAlpin: "Linguistic prehistory: the Dravidian situation", in Madhav M. Deshpande and Peter Edwin Hook: Aryan and Non-Aryan in India, p.175-189
- ↑ 前田(2000) 19ページ
- ↑ 小林登志子『シュメル 人類最古の文明』中央公論新社〈中公新書〉、2005年。198頁
- ↑ 前田徹・川崎康司・山田雅道・小野哲・山田重郎・鵜木元尋 『歴史の現在 古代オリエント』 山川出版社、2000年。ISBN 978-4-634-64600-1。 6ページ
- ↑ 8.0 8.1 8.2 小林登志子 『シュメル──人類最古の文明』、中央公論社〈中公新書〉1818、2005年、ISBN 4121018184 viiiページ「はじめに」。なお、著者はここで「『シュメル』の方がアッカド語の原音に近い表記」であると言っている。
- ↑ 石井妙子「原節子の真実」(新潮社)P.134
- ↑ 石川康子 『原智恵子 伝説のピアニスト』、ベストセラーズ〈ベスト新書〉、2001年。
- ↑ 石井妙子「原節子の真実」(新潮社)P.134
- ↑ 仲小路彰 『世界興廃大戦史 東洋戦史 第二十四巻 上代太平洋圏』、世界創造社、1942年。
- ↑ 『我に益あり―西村伊作自伝』、紀元社、1960年。
外部リンク
- The History of the Ancient Near East
- Sumerian texts with partial translations
- シュメルバビロン社会史 井上芳郎著 (ダイヤモンド社, 1943)