サリン

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サリンドイツ語: Sarin)は、有機リン化合物神経ガスの一種。正式名称はイソプロピルメチルフルオロホスホネート

歴史

1902年ドイツ帝国で初めて合成された。その毒性に最初に着目したのはナチス・ドイツであり、第二次世界大戦中に量産を計画し、敗戦までに7000トン以上のサリンを貯蔵していたにもかかわらず、終戦まで一度も使うことはなかった。なお、「サリン」の名称は、ナチスでサリン開発に携わったシュラーダー (Gerhard Schrader)、アンブローズ(Otto Ambros)、リッターDeutsch版 (Gerhard Ritter)、フォン・デア・リンデ (Hans-Jürgen von der Linde) の名前から取られた[1]

第二次世界大戦末期、アドルフ・ヒトラーの側近でナチ・ドイツの宣伝大臣であったヨーゼフ・ゲッベルスは、連合国ドレスデン爆撃への報復として、「サリン」を実戦に投入することを主張した。しかし、第一次世界大戦毒ガスによって視神経脳神経に一過性の障害を負い喉や眼を負傷したという経験を持つヒトラーは毒ガス使用には消極的で、その結果、ドイツ軍がサリンを戦争に使用することはなかった。また、同じ枢軸国であった大日本帝国に対してさえ、サリンの技術は提供されなかった。

ファイル:Demonstration cluster bomb.jpg
オネスト・ジョンの弾頭の内部を見えるようにしたもの。サリンを詰める多数のM139小型化学弾が見える。なお、この写真はデモ用の弾頭で実弾ではない。(1960年頃)
ファイル:Sarin test rabbit.jpg
ウサギの入った籠を持ってサリンガスのガス漏れが無いかチェックしている。(1970年撮影)

人体への機序

サリンは神経伝達物質アセチルコリンと似た構造を持つ。サリンはアセチルコリンを加水分解するアセチルコリンエステラーゼ(AChE)の活性部位に不可逆的に結合することで、AChEを失活させる。それによりアセチルコリンの分解を阻害し、神経伝達を麻痺させる作用が働く[5]

症状

サリンに曝露すると1分と経たずに以下のような症状が出る。曝露量が多い場合、即座に重症となり死亡する場合もある。

毒性

殺傷能力が非常に強く、吸収した量によっては数分で症状が現れる[6]。また、呼吸器系からだけでなく皮膚からも吸収されるため、ガスマスクだけではなく対応する防護服を着用しなければ防護できない[7] [8]

経皮毒性の一例を示すと、経皮投与におけるヒトの半数致死量(LD50)は28 mg/kgである[7]。これは、体重60 kgのヒトが1680 mg(約1.5 mL)のサリンを経皮吸収すると、その半数が死亡するということである。また、皮膚に一滴垂らすだけで確実に死に至るとの記述も存在する[5]

「気体比重は4.86と空気より重く、その場にとどまりやすい」とも言われるが、ありえる濃度は0.3% (3000ppm) 以下であり、そのときの気体比重は1.01でしかなく、ほとんど関係がない。また、化学的に不安定な物質で、熱分解加水分解されやすい[7]

後遺症

サリンの被害者にどのような後遺症が残るのか、これについて、医学的見地からの専門的な研究が実施されたのは世界中で唯一、日本における事例だけである。

これは松本サリン事件地下鉄サリン事件の二回にわたる惨事が引き起こされ、両事件で多数の患者が発生しているためで、多数の患者を医学的に追跡調査できた稀な事例という点で、世界的にも類を見ないことである。ただし、両事件では100以上の論文が発表されているものの、新たな知見は見出されなかった。これはすでに神経剤の臨床試験データが数百人分存在するからである。

後遺症には、主に心的外傷後ストレス障害などの心的な物と、目がかすむ、身体がだるい、熱が出るなど軽微な物から、完全に身体を動かせないほどの重度な物までがある。身体的な後遺症の原因は中枢神経系や副交感神経の回復不能な損傷だと言われている。10年以上が経過しても回復が見られない事例が多く、一生涯にわたる障害になると思われる。なお、地下鉄サリン事件で使用されたサリンは不純物が多く含まれているものであり、サリン以外の毒性も影響している可能性がある。

これはサリン以外の神経ガスでも同様の後遺症が残る可能性が高いと言われており、神経ガスの被害者は助かったとしても、一生涯にわたる重い障害を背負う可能性が高いことを示している。

有機リン系農薬に見られる遅発神経障害(1~3週間以降)は起こらないとされる。これはサリンの急性毒性が高いために、ごく少量で中毒し、アセチルコリンエステラーゼ阻害作用が高い反面、神経毒エステラーゼ阻害作用はそれほど高くないことによる。

合成法

サリンの合成は、有機リン化合物合成における手法を通じて行われる。

具体的には、三塩化リンなどのリン塩化物から亜リン酸トリメチルを合成し、さらにメチルホスホン酸ジメチルを経て、メチルホスホニックジクロライドフッ化水素(HF)またはフッ化ナトリウム(NaF)を反応させることによりメチルホスホニルジフルオリドを得る。これがサリンの最終前駆体となる。

メチルホスホニルジフルオリドイソプロピルアルコールや金属イソプロピル化物を反応させるとサリンが生成する。ただし、サリンそのものは反応性が高い上に漏洩した場合に非常に危険であることから、一般的な化学兵器砲弾爆弾においてはメチルホスホン酸ジフルオリドとイソプロピル化合物を分離状態で同梱しておき、兵器として使用する時に混合する方法が用いられた(バイナリー方式)。オウム真理教の場合はこれとは異なり、あらかじめサリンを合成しておき、池田大作サリン襲撃未遂事件松本サリン事件では貨物自動車を改造して設置した噴霧装置を用いて、滝本太郎弁護士サリン襲撃事件では遠沈管地下鉄サリン事件ではサリンを有機溶剤に溶解させたものを袋に密閉し、穴をあけて染み出させることによる散布が行われた[9][10]

しかし、サリンは合成過程における中間生成物の段階で既に極めて毒性が高く、廃棄物もまた高い毒性を持つ。さらに生成過程で使用される化学物質は腐食性も高くガラスを腐食させるので、通常のフラスコなどでは合成できず、高度に専門的な知識と技術、設備が必要となる。これら設備を持たない者が合成を試みたところで、その合成過程で負傷・死亡する危険性が高い。

日本では、かつて長野県警察が市販の農薬からサリンの合成が可能であると主張していたが、これは完全に誤りである。確かにイソプロピルアルコールは工業原料・有機溶剤などとして一般に広く市販されており、前駆体であるリン塩化物についても法規制が敷かれているものの、化学工業や化学実験などで汎用される物質であることから入手が比較的容易なのは事実である。しかし、サリンは熱や水で容易に分解する上、合成段階では極めて不安定になる性質を持つため、サリンに至る製造工程では様々な化学用機材や高度な脱水技術のほか多段階の反応制御・精製技術・温度管理が必要であり、また多くの危険を伴う作業となる。上述した通り、オウム真理教もサリン製造にあたっては、それを目的とした研究室や大掛かりなサリンプラントを建造し、化学方面の高度な専門的知識に知悉した土谷正実らの信者が携わり、長谷川ケミカルなどのダミー会社を経由して原料を取得している。オウム真理教に対する査察においてオウム真理教の施設からは三塩化リン・フッ化ナトリウム(メチルホスホン酸ジメチル・メチルホスホン酸ジクロライドからメチルホスホン酸ジフルオリドを合成する段階で使用)などが発見され、それまではあくまで疑惑であったオウム真理教のサリン製造を裏付ける強力な物証となった。

日本ではオウム真理教以外では唯一、化学兵器の禁止及び特定物質の規制等に関する法律及び施行令により、陸上自衛隊化学学校さいたま市北区日進町、陸自大宮駐屯地所在)において、殺傷能力が高いサリンを含む複数の毒ガスの製造・保管を行っていた[11]。サリンも年間でグラム単位の合成を行っている[12]

対策

自然環境中には存在しない。加水分解によってフッ素が水分子の水素原子と結びつき、それが同じ水分子の水酸基と入れ替わることにより、サリンはフッ化水素メチルホスホン酸イソプロピルに変化し、さらに後者はメチルホスホン酸イソプロピルアルコールに分解する。したがって水源地や浄水場にサリンを投げ込んだところで直ちに加水分解されるほか、活性炭処理やオゾンによる高度浄水処理の工程を通ればほぼ完全に無毒化される。また、塩基性条件下で加水分解が加速されることを利用して、サリンの除染には塩基性水溶液が用いられる[6]

日本ではオウム真理教による松本サリン事件1994年)と地下鉄サリン事件1995年)を受けて、サリン等による人身被害の防止に関する法律(平成7年4月21日法律第78号)が施行され、所持や生産などが禁止されている。自衛隊や警察、海上保安庁の対テロ訓練では、国際テロリストがサリンを散布して多数の死傷者が発生するといった状況が想定されていることが多い。北朝鮮も製造・所持をしている疑いがある[13]。北朝鮮は日本列島を攻撃可能な弾道ミサイルを保有しており、弾頭に化学兵器類を搭載して発射できるとされる。ただし、熱に弱い性質のサリンを大気圏再突入時の高熱から防ぐ技術が必要となる[14]

治療薬

脚注

  1. Richard J. Evans (2008). The Third Reich at War, 1939-1945. Penguin. ISBN 978-1-59420-206-3. Retrieved on January 13, 2013. 
  2. Schmidt, Ulf (2006). "Cold War at Porton Down: Informed Consent in Britain’s Biological and Chemical Warfare Experiments". Cambridge Quarterly of Healthcare Ethics (Cambridge Journals) 15 (4): 366–380
  3. サリンを使ったのはアサドか反体制派か ニューズウィーク日本語版
  4. “米軍、シリアへミサイル攻撃 「サリン」使った「化学攻撃」に反応”. BBC News (BBC). (2017年4月7日). http://www.bbc.com/japanese/39523891 . 2017閲覧. 
  5. 5.0 5.1 オウム裁判対策協議会 - Sarinとは
  6. 6.0 6.1 Tempest Publishing 編著 『初動要員のための 生物化学兵器ハンドブック』 小川和久監訳 西恭之訳、啓正社、2000年、78-80頁。ISBN 4-87572-114-5。
  7. 7.0 7.1 7.2 神奈川県化学物質安全情報提供システム - サリン
  8. サリン約200mgが服の上から皮膚に付いただけで成人男性が死亡することは、イギリスがロナルド・マディソン二等兵に行った人体実験で証明されている。
  9. 平成7合(わ)141 殺人等 平成16年2月27日 東京地方裁判所
  10. 平成7合(わ)148 殺人,同未遂,犯人蔵匿被告事件 平成14年10月11日 東京地方裁判所
  11. 化学兵器の禁止及び特定物質の規制等に関する法律 第三十四条及び施行令第六条
  12. 衆議院議員塩川鉄也君提出陸上自衛隊化学学校と特定物質に関する質問に対する答弁書 内閣衆質一八四第三号 平成二十五年八月十三日
  13. 北朝鮮における対日諸活動警察庁。平成15年度 機械産業の対外経済活動に与える安全保障関連動向調査報告書(安全保障情報調査編)社団法人 日本機械工業連合会 ・ 財団法人 安全保障貿易情報センター
  14. 中朝国境でサリン検出 北朝鮮から風吹く時に2回 朝日新聞社2009年10月9日

関連項目

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