サッカードイツ代表
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国または地域 | ドイツ | |||
協会 | ドイツサッカー協会 | |||
愛称 | Die Mannschaft, Die Nationalelf | |||
監督 | ヨアヒム・レーヴ | |||
最多出場選手 | ローター・マテウス(150試合) | |||
最多得点選手 | ミロスラフ・クローゼ(71得点) | |||
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初の国際試合 |
1908年4月5日スイス 3-5 | |||
最大差勝利試合 |
1912年7月1日ロシア 16-0 | |||
最大差敗戦試合 |
1909年3月16日イングランド(アマチュア) 0-9 | |||
FIFAワールドカップ | ||||
出場回数 | 19回(初出場は1934) | |||
最高成績 | 優勝(1954、1974、1990、2014) | |||
UEFA欧州選手権 | ||||
出場回数 | 12回 | |||
最高成績 | 優勝(1972、1980、1996) | |||
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サッカードイツ代表(ドイツ語:Deutsche Fußballnationalmannschaft ドイチェ・フースバルナツィオナルマンシャフト)は、ドイツサッカー協会(DFB)により編成されるドイツのサッカーのナショナルチーム。愛称はマンシャフト[Mannschaft](ドイツ語で“チーム”、“集団”の意)。
1990年のドイツ再統一に際して、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)がドイツ民主共和国(東ドイツ)を編入した経緯があるため、慣例的に西ドイツ代表の歴史、記録はドイツ代表のものに含まれる。逆に東ドイツの歴史、経歴は現在のドイツ代表とは別個に扱われる。東ドイツ代表に関してはサッカー東ドイツ代表を参照のこと。
また、ここにおいて東西別に代表が編成される1952年から東西ドイツが再統一される1990年までの事項に関しては、「西ドイツ代表」と呼称されていたものに相当する。
Contents
概要
ドイツ代表は、西ドイツ時代を含め世界を代表する強豪国の一つである。FIFAワールドカップでの成績は優勝4回、準優勝4回、決勝戦には8回進出している。また1954年大会から2014年大会まで16大会連続でベスト8以上に進出という記録を残した(1950年大会は不参加、2018年大会はグループリーグ敗退)。これはブラジルの7大会連続(1994年大会から継続中)やアルゼンチンの5大会連続(1974年大会から1990年大会まで)を大きく引き離している。ベスト4以上進出についても、2014年大会で史上初の4大会連続を達成した。また、2位以上、3位以上、ベスト4以上、ベスト8以上の全てにおいて単独の世界最多進出国である。優勝回数のみが、ブラジルに次ぐ2位(イタリアと並ぶ)となっている。UEFA欧州選手権での優勝回数は3回、準優勝3回、都合決勝戦には6回進出している事になる。この数字もヨーロッパ最多を誇る。こうした、浮き沈みのない安定度については、とりわけ欧州では畏怖され、英国の名選手ゲーリー・リネカーは「フットボールとは、22人がボールを奪い合い 最後はドイツが勝つスポーツ」との名言を残した。FIFAランキングで1位になった経験を持つ8チームの1つでもある。
20世紀から21世紀の世紀転換期において、ドイツ代表にもヨーロッパ各地で見られる移民の影響が反映されるようになった。ドイツでの特徴として中央ヨーロッパ、バルカン半島、そして特にトルコ系移民がドイツ代表に選出されることが増えていることが挙げられる。これは、神聖ローマ帝国、ハプスブルク帝国、プロイセン王国といった旧ドイツ系国家が、海岸線が少なく欧州の中央に位置する事情から、伝統的に他大陸よりは欧州内で東方へ植民地を広げてきた歴史を反映している。隣国のフランスやイングランドほど多くはないが、これらのナショナルチームと同様にアフリカ系の移民選手も誕生している。
2000年代中期までは恵まれたフィジカルを活かした肉弾戦と安定した足元の技術、強靭な精神力(日本では「ゲルマン魂」と表現されることが多く、少年週刊ジャンプ「キャプテン翼」ジュニアユース編などでも使用されていた)[1][2]を重視したプレースタイルで知られていたが、クリンスマン政権以降元々のフィジカルに加え組織的な守備とパスワーク、綿密なデータを組み合わせた柔軟なスタイルに変動しつつある。伝統的にゴールキーパーに同世代で世界クラスの選手を複数輩出していることでも知られ、重要な大会の際監督を常に悩ます種となっている。チームの特徴としてPK戦に強く、ワールドカップで4度PK戦を経験しているが敗退したことはない。なお、4度のPK戦でPKを外したのは1982年スペイン大会準決勝フランス戦のウリ・シュティーリケのみである(W杯とEUROで合計37人が蹴りそのうち32人が成功している)。
ユニフォームは白いシャツとソックス、黒いパンツをホーム用に用い、現在の国旗(プロイセン王国の国旗が白と黒である)の色をチームカラーとしない(他にイタリア、オランダ、日本などがある)珍しい仕様である。エンブレムはドイツの国章であるワシをアレンジしたものでモノクロで(ユニフォームのデザインによって黒地に白抜きのネガになる場合がある)三重の円で囲み、その上にDEUTSCHER(ドイツ)、下に BUNDES FUSSBALL BUND(サッカー協会)をそれぞれ配している(外円の下の部分が国旗の黒、赤、白に区切られる)。さらにW杯優勝を示す星を4つ配している。
西ドイツ時代から世界トップクラスの実力と実績を残してきたが、イタリアを大の苦手としている。W杯予選では未対戦で本大会は2分3敗。
歴史
第二次世界大戦以前
ドイツ帝国時代の1900年に成立したドイツサッカー連盟(DFB)は1904年にFIFAの創立メンバーとなり、1908年に初の代表チームを編成した。バーゼルでのアウェーゲームとなった初試合ではスイスに敗れ、翌1909年にはイングランドに同代表史上最悪スコア(0-9)での惨敗を喫したが、6試合目となる同年のスイス戦(カールスルーエで開催)で初勝利を挙げた。1912年のストックホルム五輪でオリンピック初出場を果たしたが、予選ラウンドでオーストリアに敗れた。なお、この後のロシア戦の勝利(16-0)がドイツ代表の史上最良スコアとなっている(サッカー競技参照)。その後、1914年4月にオランダとアムステルダムで対戦したのを最後に、第一次世界大戦による活動中止を余儀なくされた。
第一次大戦の敗北で帝政が崩壊し、ワイマール共和国へ移行してから3年後、1920年にドイツ代表は再び活動を開始した(6月27日、チューリッヒでスイスに1-4で敗北)。以後もスイス・オランダ・スウェーデンなどの近隣諸国との対戦を重ね、1928年にはアムステルダム五輪のサッカー競技にも参加した。
1933年にアドルフ・ヒトラーが政権を獲得してナチス・ドイツ体制が成立した後もドイツ代表の活動は活発で、1934年のイタリア大会でFIFAワールドカップに初参加すると3位に入り、1936年には開催国だったベルリン五輪でベスト8となった(サッカー競技参照)。ゼップ・ヘルベルガーが監督になったドイツ代表は1938年6月開催のW杯フランス大会にも出場を決めていたが、3月にドイツがアンシュルスでオーストリアを併合すると、ドイツ代表は「オストマルク」と改称された旧オーストリア地域代表との親善試合を行い、オーストリア出身選手をドイツ代表に組み込んでW杯に臨んだ。しかし、1回戦で再試合の末にスイスに敗れ、ベスト8および勝利をいずれも史上唯一で逃している。
1939年9月に第二次世界大戦が始まってもドイツ代表の活動は活発で、イタリアやハンガリーなどの枢軸国や、スイス・スウェーデンなどの中立国、それにドイツによって創立されたクロアチア独立国やスロヴァキア共和国(独立スロヴァキア)などとの対戦を行った。しかし、1942年11月22日のスロヴァキア戦(ブラチスラヴァ、5-2で勝利)を最後に活動を停止し[3]、1945年5月のドイツ降伏と共に代表チームやドイツサッカー連盟も消滅した。
西ドイツ時代
第二次大戦後、ドイツは東方の領土を失った上で連合国による分割統治を受け、1949年にはドイツ連邦共和国(西ドイツ)とドイツ民主共和国(東ドイツ)の成立により東西分断が確定した。西側では1950年にDFBが旧名のまま復活し、同年11月22日にはシュトゥットガルトでスイス相手に西ドイツ代表としての初試合を行った(1-0で勝利)。監督にはナチスへの協力により戦争責任を追及されていたヘルベルガーが復帰した。一方、1952年9月21日にはサッカー東ドイツ代表の初試合が行われた。
DFBのFIFA復帰が認められてからの初大会となった1954年大会は、当時マジック・マジャールと呼ばれたハンガリー相手に決勝戦で3-2で勝利した(ベルンのバンクドルフ・スタジアムで開催)。これがワールドカップにおけるドイツの初優勝である。この大会ではグループリーグでもハンガリーと対戦していて、その時は3-8で敗れている。現在ではこの敗戦も含めてヘルベルガー監督にはしたたかな計算があったと考えられている。この勝利は「ベルンの奇跡」(de:)と呼ばれ、復興途上の西ドイツ国民に大きな希望を与えた[4]。一方、マジック・マジャールは1956年のハンガリー動乱により多くの主力選手が亡命し、再戦の機会を与えられないまま消滅した。
1966年大会では、決勝まで進んだ。対戦相手はAマッチ8試合で7敗1分の地元イングランドであった。試合は1-2で迎えた後半ロスタイムにヴェーバーが同点ゴールを決める粘りを見せる。結局延長前半10分過ぎに放たれたジェフ・ハーストのゴールが決まり、その後ハーストにもう1点浴びて力尽きた。延長の最初のゴールはボールがバーを直撃した後に地面を叩いたが、ゴールラインの中か外か非常に微妙な位置に落ちており、主審は副審にも確認してゴールの判定を下した。コンピュータグラフィックなどによるシミュレーションではゴールの外と言う説が有力になっており、86年大会のディエゴ・マラドーナの神の手ゴールと並んで大会史上に残る疑惑のゴールとしても知られる。
1970年大会では、準々決勝でイングランドと再び顔を合わせた。後半5分までに2点を先制される苦しい展開だったが、23分にフランツ・ベッケンバウアー、36分にゼーラーがゴールを挙げて同点に追いつくと、延長後半3分にゲルト・ミュラーが決勝点を挙げ、前回大会の雪辱と準決勝進出を果たした。準決勝のイタリア戦は、前半7分に先制されその後カテナチオと呼ばれるイタリア伝統の堅い守備に苦しんだが、試合終了間際のロスタイムにシュネリンガーが同点ゴールを挙げた。そして延長前半5分にミュラーが勝ち越し点を決めるが今度はイタリアが反撃し、8分、11分と立て続けにゴールを挙げて再逆転する激しいシーソーゲームとなった。しかし西ドイツも延長後半5分にミュラーが同点ゴールを挙げる粘りを見せる。その2分後にジャンニ・リベラに決勝ゴールを浴びて力尽きたが、2200メートルと言う高地での過酷な状況に加え、後半に右肩を脱臼しながらも選手交代の枠を使い切ってしまったために試合終了までピッチに立ち続けたベッケンバウアーの奮闘など、印象に残る試合となった。
1974年大会ではトータルフットボールを掲げたオランダとの決勝戦で、フランツ・ベッケンバウアー率いる西ドイツ代表はリベロという概念をピッチに持ち込み、2度目のワールドカップ優勝を成し遂げた。
1982年大会準決勝のフランス戦では、1-1で迎えた延長前半2分にトレゾール、さらに8分にはアラン・ジレスのゴールでフランスにリードを奪われる。しかし直後に怪我でスタメンを外れていたカール=ハインツ・ルンメニゲが入ると流れが変わり、12分にそのルンメニゲが、そして延長後半3分にはフィッシャーがオーバーヘッドで劇的な同点ゴールを挙げる。試合はこのままPK戦へ突入し、5-4で西ドイツが決勝に進んだ。しかしGKハラルト・シューマッハーがフランスのパトリック・バチストンと交錯、重傷を負わせるという場面もあった。
1986年大会は世代交代の過渡期で苦戦の連続だったが、準決勝で因縁のフランスを退けて2大会連続で決勝に進んだ。アルゼンチンとの決勝ではディエゴ・マラドーナを抑えながらも前半21分にホセ=ルイス・ブラウン、後半10分にホルヘ・バルダーノにゴールを許す苦しい展開となった。その後後半28分にルンメニゲ、更に36分にはルディ・フェラーがゴールを挙げて一時は同点に追いつく粘りを見せたが、3分後に攻めあがった裏をマラドーナにスルーパスで突かれ、独走したホルヘ・ブルチャガに決められて2-3で力尽きた。
1982年、1986年と2大会続けて決勝で敗れたが、1990年大会は、前回大会の雪辱を期して引き続きベッケンバウアーが監督としてドイツ代表を率いて参加した。欧州予選は引分以下なら敗退となっていた最終戦でウェールズとホームで対戦し、逆転での2-1の勝利で辛くも突破を果たす。本大会では安定感を取り戻し、一度も相手にリードを許した時間帯を作らず、前回に続いて決勝ではディエゴ・マラドーナ擁するアルゼンチンと対戦。この試合ではマラドーナをギド・ブッフバルトが完封するなど守備的に進行し、アンドレアス・ブレーメのPKによる得点で1-0で勝利して3度目の優勝を果たした。
東西ドイツ統一後
1990年のドイツ再統一により、東西のナショナルチームが合体。ナショナルチームの名前から「東」「西」が外れた「ドイツ代表」が再生した。このチームは大半が旧西ドイツ代表選手で占められたが、旧東ドイツからはマティアス・ザマーが選出され、やがて統一ドイツ代表の主力となった[5]。
ベルティ・フォクツに監督が変わり、統一ドイツとして初めての国際舞台は1992年、スウェーデンでの欧州選手権だった。クラウス・アウゲンターラー、ピエール・リトバルスキーが代表から引退した以外は90年W杯のメンバーはほとんど不動で、グループリーグでオランダに2年前の借りを返されたものの、準決勝で地元のスウェーデンに3-2と競り勝って決勝に進出。しかし、急遽の代替出場ながらもイングランド、フランス、オランダと強豪国を抑えて決勝に進出したデンマークの勢いに圧され、0-2で敗れ準優勝に終わった。
1994年アメリカW杯。欧州のTV中継時間に合わせるため、デーゲームが続いたことでベテラン揃いのドイツはアメリカでの殺人的な暑さに苦しめられた。準々決勝までたどり着いたが、ボリビア、韓国、ベルギーに勝利するも1点差、内容でも苦しい勝負が続いた。準々決勝のブルガリア戦、ドイツは後半2分にマテウスがPKで先制するが、30分にストイチコフにFKを決められると、その3分後にはヨルダン・レチコフにダイビングヘッドを決められて1-2で敗退。この大会を最後にギド・ブッフバルト、ルディ・フェラー、アンドレアス・ブレーメなどの4年前の優勝メンバーは代表を引退したが、フォクツは留任となった。
1996年、イングランドでの欧州選手権ではマテウスの後継者として攻守に貢献したザマーの活躍で優勝した。特に、地元イングランド相手にPK勝ちした準決勝、そして決勝ではチェコ相手に苦戦しながらもゴールデンゴールでの逆転勝利を収めた。ザマーの他にもオリバー・ビアホフ、クリスティアン・ツィーゲやメーメット・ショルといった新戦力が台頭していた。
しかし、ザマー、ショルは2年後のフランスW杯を長引く故障で辞退。ザマーの代役にフォクツの最終的にとった策は、37歳のマテウスの代表復帰だった。組み合わせにも恵まれ、準々決勝まで進んだが、ベテランに頼るチームは準々決勝のクロアチア戦で0-3の完敗。世代交代が必要なことは明らかとなった。大会後、フォクツは辞意を表明したが、世代交代を先送りしてきた代表チームの現状からか後任が決まらず、すぐには辞められない事態となった。1998年10月にエーリッヒ・リベックが後任監督となり、フォクツは退任となった。
しかし、リベックは指導者として約2年のブランクがあり、選手の把握やコミュニケーションが当初から心配されていた。2年後のオランダ、ベルギーでの欧州選手権、彼もマテウスを招集した。世代交代を先送りしたツケが回り、結果は1分2敗のグループリーグ最下位。得点は初戦のルーマニア戦の1点のみで、最後のポルトガル戦は、既に1位通過を決めてメンバーを落としてきた相手に0-3の惨敗という内容だった。リベック、そしてマテウスには批判が浴びせられ、両者共に代表を去った。後任には中堅クラブのレバークーゼンを率いてブンデスリーガの強豪に育て上げたクリストフ・ダウムに一旦は内定したが、ダウムのコカイン服用が明らかとなり取り消された。結局、90年W杯優勝の立役者の1人で、コーチ経験のないルディ・フェラーが監督に就任する事となった。
日韓W杯予選は大苦戦の連続だった。イングランドと同組だったが、予選初戦だったアウェーで1-0と勝ったものの、その後のホームでは1-5と惨敗。予選で敗れたのは1986年大会での、突破確定後に行われたホームのポルトガル戦以来2度目だった。それでも最終戦に勝てば1位で出場権獲得が決まるという状況だったが、ホームでフィンランド相手にスコアレスドローに終わり、2位で回ったプレーオフの末にウクライナを破って出場権を獲得した。予選での状態から大会前にドイツを優勝候補に上げる声はあまり聞かれず、グループリーグではアフリカの雄カメルーン、予選でオランダを蹴落としたアイルランドと同組となった事で、グループリーグ敗退も囁かれていた。
しかし、本大会に入るとこれまでの不振を払拭するように快進撃を見せる。初戦のサウジアラビア戦を8-0で圧勝すると、アイルランドには終了間際に引き分けに追いつかれたが、第3戦のカメルーン戦では退場者を出しながらも2-0と勝利し、グループリーグを首位で通過。そして、当初決勝トーナメントでの激突が予想されたポルトガル、イタリア、スペインといった強豪国が先に敗退し、対戦相手に恵まれた決勝トーナメントでは、パラグアイ、アメリカ、韓国をそれぞれ1-0で手堅く降し、決勝戦まで勝ち上がった。しかし、大会を通じて初の強豪国との対戦となった決勝のブラジル戦では、攻撃の柱のミヒャエル・バラックが累積警告で出場停止になったこともあり、ブラジルの分厚い攻撃力を前に0-2と完敗した。なお、この大会ではミロスラフ・クローゼ、トルステン・フリンクス、クリストフ・メツェルダーなど、次代を担う若手選手が台頭している。
2004年の欧州選手権ではオランダ、ラトビア、チェコと強豪揃いのグループに組み込まれた。初戦のオランダ戦は1-1のドローでまずまずのスタートを切ったが、格下のラトビアとの2戦目をスコアレスドローで終える誤算となり、3戦目では既にグループ1位で決勝トーナメント進出を決め、メンバーを落としてきたチェコ相手に1-2の逆転負け。攻撃力が振るわずに決勝トーナメント進出を逃し、フェラーは監督を辞任した。
2006年のワールドカップドイツ大会は「ドイツ代表」がホストとなる最初の大会になった。フェラーの後を継いだ監督のユルゲン・クリンスマンは若手を積極的に登用したが、親善試合では結果が出せず、大会直前には日本代表と引き分けるなど地元開催ながら下馬評は決して高いものではなかった。しかし、ホームでの圧倒的なドイツ国民の声援と大会得点王となったクローゼや、ルーカス・ポドルスキの活躍を受けてグループリーグを突破、決勝トーナメント1回戦でスウェーデンを、準々決勝では優勝候補の一つに挙げられていた因縁のアルゼンチンをPK戦の末破り、準決勝進出。しかし、準決勝では相性の悪いイタリアに延長の末敗れ、2大会連続の決勝進出はならなかった。3位決定戦では、ポルトガルを下して3位となっている。クリンスマンはワールドカップ後に辞任し、ヨアヒム・レーヴが監督となった。
2008年の欧州選手権は1996年大会以来の決勝進出を果たしたが決勝でスペインに敗れ準優勝に終わった。
2010年のワールドカップ南アフリカ大会では、攻撃の要であるミヒャエル・バラックを怪我で欠くなど主力に故障が相次いだが、メスト・エジルやトーマス・ミュラーなどの若手が十分にその穴を埋めた。グループリーグではセルビアに敗れたものの2勝1敗で突破し、決勝トーナメント1回戦では因縁の相手イングランドを鋭いカウンターで4-1と下した。このイングランド戦ではイングランドのフランク・ランパードの放ったシュートが明らかにゴールラインを超えていたのに審判がノーゴールの判定を下すという誤審があり、一部では1966年のハーストの「幻のゴール」のリベンジなどと報じられた[6]。準々決勝では、1990年大会の決勝を最後にAマッチ6試合勝利が無かったアルゼンチンにも4-0と圧勝した。しかし、欧州選手権決勝の雪辱を果たすべく臨んだ準決勝でスペインに再び敗れ、2大会ぶりの決勝進出は出来なかった。しかし、3位決定戦ではウルグアイを下し、2大会連続で3位となった。なお、この大会では、ドイツの試合結果を予言するタコのパウルが本大会のドイツ戦の勝敗をすべて的中させ、話題となった。
2012年の欧州選手権では予選を全勝で突破し、本大会でもポルトガル、オランダ、デンマーク、ギリシャに4連勝して準決勝まで進んだが、マリオ・バロテッリのゴールなどで苦手のイタリアにまたしても敗れた。
2014年のワールドカップブラジル大会では、1次リーグ・グループGを2勝1分けで1位通過、決勝トーナメント初戦のアルジェリアには延長までもつれて苦戦したものの2-1で下し、準々決勝では1-0でフランスを退け、4大会連続の準決勝進出を決めた。開催国ブラジルと2002年の決勝以来の対戦となった準決勝では、ネイマール、チアゴ・シウヴァを欠くブラジルに対し前半だけで5点を奪い、7-1で圧勝(ブラジルが歴史的惨敗を喫したため、開催地にちなんで「ミネイロンの惨劇(または、ミネイロンの悲劇)(Mineiraço)」[7]などと呼ばれた)した。この試合ではクローゼが2点目を決めてワールドカップの通算得点記録を16とし、単独トップに立った。決勝では3大会連続の対戦となるアルゼンチンに対し、延長戦までスコアレスでもつれたが、延長後半8分に途中出場したマリオ・ゲッツェがゴールを奪い、この1点を守り切って西ドイツ時代から通算して4度目、東西ドイツ統一後初めての優勝を決めると同時に南米で開催されたワールドカップで初めて優勝した欧州のチームとなった[8]。また大会を通じて活躍したキーパーのマヌエル・ノイアーが最優秀ゴールキーパーに選出された[9]。大会終了後に発表されたFIFAランキングでは、20年ぶりに首位に返り咲いた[10]。一方で、長年代表で主力として活躍したフィリップ・ラーム[11]、クローゼ[12]、ペア・メルテザッカー[13]の3人が代表引退を表明した。
2016年の欧州選手権本大会ではグループリーグを首位で通過し、ラウンドオブ16ではスロバキアに勝利、準々決勝では前大会の準決勝で敗れていた苦手のイタリアに延長PK戦の末に勝利した。しかし、準決勝で開催国フランスに敗れた。大会終了後、2018年のロシアW杯までレーブ監督の続投が決まり、シュヴァインシュタイガーとポドルスキが代表引退を表明した。
前回ワールドカップ 優勝国として、自国開催以来3大会ぶりに出場したFIFAコンフェデレーションズカップ2017では、グループB首位から、準決勝でメキシコ、決勝でチリを破り同大会初優勝を果たす。
2018年のワールドカップロシア大会では、グループF初戦でメキシコにイルビング・ロサノのゴールで0-1で敗れた。2戦目のスウェーデンでは先制を許したものの追いつき、試合終了間際にトニ・クロースのゴールで2-1と辛勝した。3戦目の韓国戦では、再三の決定機にゴールを決められず、逆に後半アディショナルタイムにキムヨングォンに先制ゴールを許し、その後パワープレイに出たところをGKマヌエル・ノイアーが相手陣内でボールを奪われ、ロングパスからソンフンミンに2点目を決められて敗れた。結局1勝2敗勝点3、得失点差と直接対決の結果がともに勝点で並ぶ韓国を下回り、グループFの最下位で大会を終えた。グループリーグ方式が導入されて以降初のグループリーグ敗退となり、併せてノックアウトステージへの連続出場、連続ベスト8、連続ベスト4などの記録も途切れることとなった。ワールドカップ本大会で1勝しか挙げられなかったのは、西ドイツ代表として出場した1978年アルゼンチン大会以来40年ぶりで、総得点2点は、1938年フランス大会の3点(同点再試合を含む2試合)を下回る過去最低記録となった。また、2010年大会のイタリア、2014年大会のスペインに続いて、前回大会優勝国が3大会連続でグループリーグ敗退となった[14]。さらに、1998年フランス大会から続く、ワールドカップ前年開催のコンフェデレーションズカップ優勝国はワールドカップ本大会で優勝出来ないというジンクスも継続することとなった[15]。
成績
FIFAワールドカップ
開催国 / 年 | 成績 | 試 | 勝 | 分 | 負 | 得 | 失 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1930 | 不参加 | ||||||
1934 | 3位 | 4 | 3 | 0 | 1 | 11 | 8 |
1938 | 1回戦註1 | 2 | 0 | 1 | 1 | 3 | 5 |
1950 | 不参加註2 | ||||||
1954 | 優勝 | 6 | 5 | 0 | 1 | 18 | 12 |
1958 | 4位 | 6 | 2 | 2 | 2 | 12 | 14 |
1962 | ベスト8 | 4 | 2 | 1 | 1 | 4 | 2 |
1966 | 準優勝 | 6 | 4 | 1 | 1 | 15 | 6 |
1970 | 3位 | 6 | 5 | 0 | 1 | 17 | 10 |
1974 | 優勝 | 7 | 6 | 0 | 1 | 13 | 4 |
1978 | 2次リーグ敗退 | 6 | 1 | 4 | 1 | 10 | 5 |
1982 | 準優勝 | 7 | 3 | 2 | 2 | 12 | 10 |
1986 | 準優勝 | 7 | 3 | 2 | 2 | 8 | 7 |
1990 | 優勝 | 7 | 5 | 2 | 0 | 15 | 5 |
1994 | ベスト8 | 5 | 3 | 1 | 1 | 9 | 7 |
1998 | ベスト8 | 5 | 3 | 1 | 1 | 8 | 6 |
2002 | 準優勝 | 7 | 5 | 1 | 1 | 14 | 3 |
2006 | 3位 | 7 | 5 | 1 | 1 | 14 | 6 |
2010 | 3位 | 7 | 5 | 0 | 2 | 16 | 5 |
2014 | 優勝 | 7 | 6 | 1 | 0 | 18 | 4 |
2018 | グループリーグ敗退 | 3 | 1 | 0 | 2 | 2 | 4 |
合計 | 出場19回/優勝4回 | 109 | 67 | 20 | 22 | 226 | 125 |
- 註1 この大会の出場権を得ていたオーストリアは直前にドイツに併合(ドイツ・オーストリア合邦)されたため棄権扱いとなり、旧ドイツと旧オーストリア両国の選手がドイツ代表として出場。
- 註2 ドイツサッカー協会のFIFAへの復帰が認められていなかった。
FIFAコンフェデレーションズカップ
(関連する大会のみ表記)
UEFA欧州選手権
開催国 / 年 | 成績 | 試 | 勝 | 分 | 負 | 得 | 失 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1960 | 不参加 | ||||||
[[ファイル:テンプレート:Country flag alias ESP1945|border|25x20px|テンプレート:Country alias ESP1945の旗]] 1964 | |||||||
1968 | 予選敗退 | ||||||
1972 | 優勝 | 2 | 2 | 0 | 0 | 5 | 1 |
[[ファイル:テンプレート:Country flag alias Yugoslavia|border|25x20px|テンプレート:Country alias Yugoslaviaの旗]] 1976 | 準優勝 | 2 | 1 | 1 | 0 | 6 | 4 |
1980 | 優勝 | 4 | 3 | 1 | 0 | 6 | 3 |
1984 | グループリーグ敗退 | 3 | 1 | 1 | 1 | 2 | 2 |
1988 | ベスト4 | 4 | 2 | 1 | 1 | 6 | 3 |
1992 | 準優勝 | 5 | 2 | 1 | 2 | 7 | 8 |
1996 | 優勝 | 6 | 4 | 2 | 0 | 10 | 3 |
2000 | グループリーグ敗退 | 3 | 0 | 1 | 2 | 1 | 5 |
2004 | グループリーグ敗退 | 3 | 0 | 2 | 1 | 2 | 3 |
2008 | 準優勝 | 6 | 4 | 0 | 2 | 10 | 7 |
2012 | ベスト4 | 5 | 4 | 0 | 1 | 10 | 6 |
2016 | ベスト4 | 6 | 3 | 2 | 1 | 7 | 3 |
合計 | 出場12回/優勝3回 | 49 | 26 | 12 | 11 | 72 | 48 |
選手
出場試合数ランキング
- 2018年9月12日時点
順位 | 名前 | 出場 | 得点 | 期間 |
---|---|---|---|---|
1 | ローター・マテウス | 150 | 23 | 1980-2000 |
2 | ミロスラフ・クローゼ | 137 | 71 | 2001-2014 |
3 | ルーカス・ポドルスキ | 130 | 49 | 2004-2017 |
4 | バスティアン・シュヴァインシュタイガー | 121 | 24 | 2004-2016 |
5 | フィリップ・ラーム | 113 | 5 | 2004-2014 |
6 | ユルゲン・クリンスマン | 108 | 47 | 1987-1998 |
7 | ユルゲン・コーラー | 105 | 2 | 1986-1999 |
8 | ペア・メルテザッカー | 104 | 4 | 2004-2014 |
9 | フランツ・ベッケンバウアー | 103 | 14 | 1965-1976 |
10 | トーマス・ヘスラー | 101 | 11 | 1988-2000 |
11 | ミヒャエル・バラック | 98 | 42 | 1999-2011 |
12 | トーマス・ミュラー | 96 | 38 | 2010- |
12 | ベルティ・フォクツ | 96 | 1 | 1967-1978 |
14 | ゼップ・マイヤー | 95 | 0 | 1966-1979 |
カール=ハインツ・ルンメニゲ | 95 | 45 | 1976-1986 | |
16 | メスト・エジル | 92 | 23 | 2009- |
17 | ルディ・フェラー | 90 | 47 | 1982-1994 |
18 | トニ・クロース | 88 | 13 | 2010- |
19 | アンドレアス・ブレーメ | 86 | 8 | 1984-1994 |
オリバー・カーン | 86 | 0 | 1995-2006 | |
21 | アンドレアス・メラー | 85 | 29 | 1988-1999 |
22 | アルネ・フリードリヒ | 82 | 1 | 2002-2011 |
23 | カールハインツ・フェルスター | 81 | 2 | 1978-1986 |
ヴォルフガング・オヴェラート | 81 | 17 | 1963-1974 | |
ベルント・シュナイダー | 81 | 4 | 1999-2008 | |
26 | マヌエル・ノイアー | 80 | 0 | 2009- |
27 | マリオ・ゴメス | 78 | 31 | 2007- |
28 | サミ・ケディラ | 77 | 7 | 2009- |
得点数ランキング
- 2018年9月12日時点
順位 | 名前 | 得点 | 出場 | 期間 | 得点率 |
---|---|---|---|---|---|
1 | ミロスラフ・クローゼ | 71 | 137 | 2001-2014 | 0.52 |
2 | ゲルト・ミュラー | 68 | 62 | 1966-1974 | 1.10 |
3 | ルーカス・ポドルスキ | 49 | 130 | 2004-2016 | 0.38 |
4 | ユルゲン・クリンスマン | 47 | 108 | 1987-1998 | 0.44 |
ルディ・フェラー | 47 | 90 | 1982-1994 | 0.52 | |
6 | カール=ハインツ・ルンメニゲ | 45 | 95 | 1976-1986 | 0.47 |
7 | ウーヴェ・ゼーラー | 43 | 72 | 1954-1970 | 0.60 |
8 | ミヒャエル・バラック | 42 | 98 | 1999-2011 | 0.43 |
9 | トーマス・ミュラー | 38 | 96 | 2010- | 0.41 |
10 | オリバー・ビアホフ | 37 | 70 | 1996-2002 | 0.53 |
11 | フリッツ・ヴァルター | 33 | 61 | 1941-1958 | 0.54 |
12 | クラウス・フィッシャー | 32 | 42 | 1977-1982 | 0.76 |
13 | マリオ・ゴメス | 31 | 78 | 2007- | 0.43 |
13 | エルンスト・レーナー | 31 | 65 | 1933-1942 | 0.47 |
監督
名前 | 期間 | 試合数 | 勝 | 分 | 負 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
ドイツサッカー協会技術委員会 | 1908-1927 | 63 | 18 | 13 | 32 | |
オットー・ネルツ | 1928-1936 | 70 | 42 | 10 | 18 | 1934年ワールドカップ第3位 |
ゼップ・ヘルベルガー | 1936-1964 | 162 | 92 | 26 | 44 | 1954年ワールドカップ優勝 |
ヘルムート・シェーン | 1964-1978 | 139 | 87 | 30 | 22 | 1966年ワールドカップ準優勝、1972年欧州選手権優勝 1974年ワールドカップ優勝、1976年欧州選手権準優勝 |
ユップ・デアヴァル | 1978-1984 | 67 | 45 | 11 | 11 | 1980年欧州選手権優勝、1982年ワールドカップ準優勝 |
フランツ・ベッケンバウアー | 1984-1990 | 66 | 36 | 17 | 13 | 1986年ワールドカップ準優勝、1990年ワールドカップ優勝 |
ベルティ・フォクツ | 1990-1998 | 102 | 67 | 23 | 12 | 1992年欧州選手権準優勝、1996年欧州選手権優勝 |
エーリッヒ・リベック | 1998-2000 | 24 | 10 | 6 | 8 | 一時期、ウリ・シュティーリケと共同監督 |
ルディ・フェラー | 2000-2004 | 53 | 29 | 11 | 13 | 2002年ワールドカップ準優勝 |
ユルゲン・クリンスマン | 2004-2006 | 34 | 20 | 8 | 6 | 2006年ワールドカップ第3位 |
ヨアヒム・レーヴ | 2006- | 165 | 108 | 30 | 27 | 2008年欧州選手権準優勝、2010年ワールドカップ第3位 2014年FIFAワールドカップ優勝、2017年コンフェデレーションズカップ優勝 |
合計 | 945 | 554 | 185 | 206 |
関連項目
脚注
- ↑ 例:最後に見せたゲルマン魂 ドイツ精神的な強さ発揮(産経新聞 2010年7月11日)
- ↑ 「日本サッカーの父」と呼ばれるドイツ人サッカー指導者デットマール・クラマーは「ドイツにはゲルマン魂がある。君たち日本人にも素晴らしい大和魂があるじゃないか」と言っている。クラマーコーチと大和魂 メキシコ五輪日本代表(日本トップリーグ連携機構)
- ↑ 翌23日にスターリングラード攻防戦でドイツ軍が包囲され、ドイツの苦境が明白になった。
- ↑ これを元に2003年には同名の映画「ベルンの奇蹟」(Das Wunder von Bern)がドイツで製作・公開された。
- ↑ その後、ディナモ・ドレスデンでもザマーの同僚だったウルフ・キルステンも旧東ドイツ代表からの統一ドイツ代表入りを果たした。
- ↑ ドイツ各紙、誤審問題で「ごめんなさい。イングランド」(サンケイスポーツ 2010年6月29日)
- ↑ ブラジル人はこの屈辱を忘れない W杯準決勝でドイツに叩きのめされたサッカー王国の絶望(ニューズウィーク 2014年7月10日)
- ↑ ドイツ、南米でのジンクスを破る(UEFA公式サイト日本語版 2014年7月13日)
- ↑ W杯=ドイツ代表GKノイアー、「全員で優勝勝ち取った」(ロイター 2014年7月14日)
- ↑ W杯制覇のドイツ、20年ぶりの世界ランク首位に(AFP 2014年07月18日)
- ↑ ラーム、W杯優勝キャプテンとして代表引退 Goal 2014年7月18日
- ↑ クローゼ、ドイツ代表引退を表明 Goal 2014年8月11日
- ↑ ドイツ、メルテザッカーも代表引退 Goal 2014年8月16日
- ↑ “3大会連続の「前回王者グループリーグ敗退」。14年覇者ドイツもW杯の魔物に呑まれる【ロシアW杯】”. フットボールチャンネル. カンゼン (2018年6月28日). . 2018閲覧.
- ↑ “呪いをかけられたドイツとポルトガル 決して優勝できない不幸のジンクスとは(2/2)”. 産経WEST. 産経デジタル (2018年6月7日). . 2018閲覧.
外部リンク
- ドイツサッカー協会公式サイト (ドイツ語) (英語)
- ドイツ代表公式サイト(ドイツ語)
- RSSSFによるドイツ代表の記録
- RSSSFによるドイツ代表選手の記録