コンスタンティヌス朝
コンスタンティヌス朝(コンスタンティヌスちょう、307年 - 363年)は、ローマ帝国の王朝。最初に単独皇帝となったコンスタンティヌス1世の名を採って呼ばれる。なお、『ローマ皇帝群像』によると、王朝の祖コンスタンティウス・クロルスはダルダニアからきた貴族エウトロピウスと、皇帝クラウディウス2世や皇帝クインティルスの姪クラウディアとの間に生まれた息子とされているが、歴史家の多くは、コンスタンティヌス家によるプロパガンダの結果としてこの系譜は粉飾された可能性が高く、地位が高い二人の末裔に見せかけたかったのだろうという結論を下し、実際の出自は不明としている。
歴史
コンスタンティヌス1世からユリアヌスまで、共同統治による同時即位を含めて3代5人(コンスタンティヌス1世の父コンスタンティウス・クロルスを含めると4代6人)の皇帝を出した。ユリアヌスがサーサーン朝ペルシアへの遠征の陣中で没すると、後継者が定まっていなかったため、兵士たちはユリアヌス配下の将軍フラウィウス・ヨウィアヌスを皇帝として擁立し、コンスタンティヌス朝によるローマ帝国支配は終焉を迎えた。ただし、コンスタンティウス1世とコンスタンティヌス1世の血筋自体は後世に存続しており、東ローマ帝国のアナスタシウス1世も子孫の一人である。アナスタシウス1世の姪エイレーネーはコンスタンティヌス朝の後継王朝であるウァレンティニアヌス朝とテオドシウス朝、ローマ帝国末期の有力貴族アニキア家の血を引くアニキウス・オリブリオス・ミノール(西ローマ帝国のウァレンティニアヌス3世の曽孫でもある)と結婚。なお、下記系図にもあるが、ウァレンティニアヌス朝の創始者ウァレンティニアヌス1世はコンスタンティヌス1世の異母弟ユリウス・コンスタンティウスの孫娘ユスティナを後妻としており、夫妻の間に生まれた娘ガッラがテオドシウス朝の創始者テオドシウス1世の後妻となり、ガッラ・プラキディアが生まれており、ガッラ・プラキディアはウァレンティニアヌス3世の母である。
以上の様に、コンスタンティヌス朝、ウァレンティニアヌス朝、テオドシウス朝の3王朝は縁戚関係や婚姻関係を結び、その血筋は少なくとも6世紀の終わりから7世紀の始めまでコンスタンティノープルのローマ貴族であり続けた。
コンスタンティヌス朝皇帝一覧
- コンスタンティウス・クロルス(305年 - 306年) 西方正帝:東方正帝ガレリウスの共同皇帝
- コンスタンティヌス1世(307年 - 337年)
- コンスタンティウス2世(337年 - 361年)
- 共同皇帝コンスタンティヌス2世(337年 - 340年)
- 共同皇帝コンスタンス1世(337年 - 350年)
- 共同皇帝コンスタンティウス・ガッルス(352年 - 354年)
- フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス(361年 - 363年) 「背教者」
系図
ヘレナ | コンスタンティウス・クロルス 西方正帝 | テオドラ (マクシミアヌスの義理の娘) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ミネルウィナ | コンスタンティヌス1世 | ファウスタ (マクシミアヌス娘) | フラウィウス・ダルマティウス | ユリウス・コンスタンティウス | コンスタンティア | リキニウス | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
クリスプス | コンスタンティヌス2世 | コンスタンティウス2世 | コンスタンス1世 | ダルマティウス | ハンニバリアヌス | コンスタンティウス・ガッルス | 娘 | ユリアヌス | リキニウス2世 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
グラティアヌス | コンスタンティア | マグネンティウス | ユスティナ | ウァレンティニアヌス1世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||