ガールズケイリン
ガールズケイリン(GIRL'S KEIRIN)とは、女性の競輪選手による競輪として、2012年7月1日から復活した女子競輪(じょしけいりん)の正式な愛称である。
本項では、かつて競輪の創生期に実施されていた昭和期の女子競輪についても記述する。
Contents
概要
開始当初の競輪は、急激な競輪場開設ラッシュの影響を受け、慢性的に選手不足に陥っていたこともあり、男子のみならず、女子にもその門戸を広げざるを得なくなった。その結果、1949年から1964年まで女性の競輪選手による競走として「女子競輪」が存在したが、後述の通り、人気面の低落から廃止となった。廃止以後、女子競輪はしばらくの間、競輪界では黒歴史扱いされてきた[1]。
だが、1980年代に競艇が女子レース(レディース競走)を新たな起爆剤とするべく、女子選手の大量養成に踏み切り、なおかつ、一定の人気を博すようになった影響を受ける形で、競輪界においても幾度となく女子競輪復活の話が持ち上がった。また、橋本聖子や大菅小百合らによる夏冬両オリンピック出場も、女子競輪復活への契機へと繋がった。
さらに、2005年に日本自転車振興会会長に就任した下重暁子が、就任当初より女子競輪の復活に意欲を見せ[2][3][4][5][6]、これを受けて、2008年から2011年まで各地の競輪場に日本の女性自転車競技選手を集結させてケイリンのエキシビションとして実施させた。 2010年9月30日、日本自転車振興会の後継統括団体であるJKAが、女子競輪の実施概要を明らかにしたことで、復活が事実上決定[7]。2011年4月より合格者を日本競輪学校に入校させて1年間の訓練を経た後、2012年7月より「ガールズケイリン」として正式に復活させることになった。
復活したガールズケイリンは、2012年7月1日、平塚競輪場にて第1期生となる102期生33名により48年ぶりに開催された。以後、毎年約20名の選手がデビューしているが、2014年後期(7月〜12月)から男子選手同様の登録審査制度(いわゆる代謝制度)が導入された[8][9]ことにより、2015年後期末以降、引退する選手も出始めている。
2018年8月1日時点では、102期生24名、104期生15名、106期生12名、108期生14名、110期生20名、112期生17名、114期生21名の計123名が選手として登録されている[10]。
ガールズケイリン(エキシビション)
21世紀に入って、弥彦競輪場における「すぴRITS」や、松戸競輪場における「LOVE9」、小倉競輪場における「SUN FLOWERS(後のスペースエンジェルズ[11])」といったユニットによる模擬レースとは異なり、「レディース・ケイリン」と題して女子競輪が行われた。しかし、これは主に地元で集められた女子選手による模擬レースであり、ファンサービスとしてのアトラクションの一部のため、実際に同レースは車券発売の対象とはなっていない。
また、上記「レディース・ケイリン」とは別に、佃咲江と和田見里美の2人が北京オリンピックに出場したことを契機に、女子自転車選手の強化の一環として、2008年からエキシビションとして「ガールズケイリン」が行われた。これには世界選手権自転車競技大会やUCIトラックワールドカップクラシックスへの出場がままならない、日本の女子自転車競技界の底上げという狙いがある。加えて2012年開催予定のロンドンオリンピックでは、女子ケイリンも正式種目として採用されることが決まり、オリンピックを睨んだ強化策の一環という意味合いもあった。
そして、この頃から水面下では女子競輪の復活が関係団体において議論されており、本格実施に向けた試行としての意味合いが大きかった[12]。
2008年
2008年に佃咲江、和田見里美の2人が北京オリンピックに出場したことを契機に、女子自転車選手の強化の一環という意味合いにより実現。2008年7月から9月まで、「サマービーナスシリーズ」と題して3戦行なわれた。石井寛子が3戦中2戦、岡希美が同1戦優勝。
2009年
2009年には1月から3月まで「2009 Venus Series」と銘打って、全6戦で各地の競輪場で行なわれた。このシリーズに先立ち、サマービーナスシリーズよりも中身の濃いレース内容を目指すべく、合宿も6回行なわれた。なお、競技規則は、国際自転車競技連合(UCI)が定めるケイリンのルールで行なわれ、1日で予選と決勝を行なった[13]。
優勝者は次の通り。
2010年
2010年も2009年同様、1月から3月まで全6戦行われた。同年シリーズ戦では第2、第6戦において、外国人選手の参加も見られた。優勝者は次の通り。
2010年 - 2011年
第4弾となるシリーズが下記の通り行なわれた[14]。
- 第1戦 京王閣 - 石井寛子
- 第2戦 小倉 - 加瀬加奈子
- 第3戦 立川 - 石井寛子
- 第4戦 高松 - 前田佳代乃
- 第5戦 岸和田 - 中止
ガールズケイリン
女子競輪の復活決定
現在では世界自転車選手権において2002年よりケイリン女子が実施されていることや、オリンピック種目としてのケイリン女子正式採用をにらみ[15]、昨今の競輪の売り上げ低迷打開策の一環として、2009年11月にJKAより2012年3月から女子競輪の開催を復活させることが発表された[16][17]。
ガールズケイリンの要項と育成
JKAは当初のスケジュールとして、2010年5月に女子第1回生となる日本競輪学校入学者(定員35名)を募集し、合格者は2011年1月から12月まで同校で養成され、2012年3月にデビューの予定としていたが、競輪場廃止に起因する男子選手の応募要綱変更などがあったため正式の発表がずれこみ、2010年9月30日の記者会見で女子選手の応募要綱等が発表された[18]。
その後の発表で女子選手の募集および養成は、2011年4月に日本競輪学校へ入学する日程で試験などが実施され、2012年7月のデビューで女子競輪を開始するスケジュールとなり、2011年2月25日に1次・2次にわたった日本競輪学校入学試験の合格者が発表され、18歳から48歳の36人が合格した。また復活する女子競輪の愛称は公募されたものの、結局はエキシビションで行われたレースと同称の「GIRL'S KEIRIN(ガールズケイリン)」とすることが発表された[19]。
2011年5月9日にガールズケイリン第1期生となる35人(1人は入学辞退)が日本競輪学校に第102期生徒として入学し、2012年3月22日に卒業レースが行われ24日に33名が卒業した(1人は退学処分、1人は停学処分・留年)。そして5月1日をもって正式に日本競輪学校を卒業した33名が競輪選手(A級2班)として登録され、7月1日からの平塚競輪場を皮切りとして48年ぶりに開催された。
2013年以降も、毎年3月下旬に日本競輪学校を卒業した生徒たち(偶数期、20名前後)が同年5月に選手登録され、同年7月より全国各地の競輪場でデビューしている。
2012年7月以降
通常は1開催につき女子は2個レース(14選手)のみだが、2014年には3概定番組の「オールガールズシリーズ(AG)」も一部で実施された[20]。2015年には1概定番組(優勝者は3名でなく1名)に変更され[21]、2016年には同じく女子6個レース(42選手)が組み込まれた形での開催が「ガールズドリームトーナメント」という名称で行われた[22][23]。
2013年3月より短期登録選手制度で毎年(2015年度は無し)、女子外国人選手もガールズケイリンに数名が参戦している。
2018年4月26日 - 29日開催の函館競輪「GIIIナイター スターライトクラウン」では、毎日3レースがガールズケイリン「FII スターライトティアラ」として行われ、ガールズケイリンとしては初めて4日間開催が行われる[24]。
ガールズケイリンのルール
ガールズケイリンは、従来の競輪とトラックレースとしてのケイリンの折衷となる新しい競走形態の先頭固定競走(インターナショナル)で施行される[25]。男子のKEIRIN EVOLUTIONとおおむね同じレギュレーションである。 従来の競輪ルールとの違いは以下の通り。
- 最大7車立て
- 男子の競走で見られるラインをあからさまに組むことは禁止[26](トラックレースとしてのケイリンのルールに準拠しているため。これが男子の競輪と根本的に異なる点)
- 競走距離は1500 - 1666m、具体的には333mバンク=5周・400mバンク=4周・500mバンク=3周[27]
- 先頭誘導員はスタートラインの半周後方から発進し、スタートライン通過と同時に号砲となる[27]
- 先頭誘導員の退避地点は、333m・400mバンクは残り1周半、500mバンクは残り1周[25]
- 誘導中は、先頭を走る選手の前輪先端が誘導員の後輪後端より前に出てはならない[27]
- 内外線幅の約2倍以上の押圧・押し上げを行ってはならない[27]
- 賞金・手当については、合算して開催3日間全勝の選手で50万円以上、全敗の選手でも20万円程度の収入が得られる額になっている[29]
- 予選はポイント制だが、第1走(初日)よりも第2走(2日目)のほうが、3着までのポイント設定が高くなる[30]
- 第1走は1着から順番に、8・7・6・5・4・3・2で、競走棄権は1、失格及び欠場は0
- 第2走は1着から順番に、11・9・7・5・4・3・2で、競走棄権は1、失格及び欠場は0
ガールズケイリンの自転車
ガールズケイリン専用の自転車は、モノコックのカーボンフレームに、 前輪はスポークホイール、後輪はディスクホイールを装着させており、タイヤはディスクおよびバトンホイール向けとスポークホイール向けでサイズが若干異なる。ハンドルステムは専用部品となるが、ハンドルバーは専用部品または男子向けの部品との選択が可能で、サドルも同様に男子向けとの選択が可能。それ以外の部品は全て男子向けの部品と共用となる[31][32]。
強風など悪天候の中での競走となる時には、リアホイールが横風を受けたときに操縦安定性の問題が発生することから、主催者の判断で男子同様の金属スポークホイールおよびタイヤに換装して競走が実施される[30]。なおガールズケイリンでは開始時より前輪に3本スポークのバトンホイールを装着していたが、これは縦方向へのジャイロ効果が横方向への操舵に影響を及ぼすこともあり[33] 、2016年8月31日の開催より前輪は天候に関わらずスポークホイールとなった[34]。
ユニフォーム
2016年12月1日に、桜をモチーフにしたデザインにリニューアル。前年度からイベント用ジャージを担当してきた[35]株式会社ウエイブワンが制作した[36][37]。
級班・競走得点
級班
2017年7月1日より、全員が新たに新設された『L級1班』の格付けとなっている[38]。但し、男子とは異なり昇降級は当面予定にないため、競走得点に関わらず全員が『L級1班』である。なお、2017年6月末までは、全員がA級2班の格付けであった。
競走得点
ガールズケイリンでは定期的に全選手の直近4カ月平均競走得点順位表を公表していたが、現在はkeirin.jpサイト内「ランキング」のページで最新データが毎日更新されており検索が可能である(男子も含め、最新の年間ないし直近4カ月平均競走得点ベスト50位のほか、獲得賞金ランキングなども検索可能)。なお、特別競走を含めて連勝を続けても直近4カ月平均競走得点は57〜58点台が上限である(1着回数が非常に多い小林優香が2017年7月のガールズケイリンフェスティバル優勝で58.06に乗せたが、ガールズケイリンにおける連勝新記録を達成した時点での梶田舞でも57点台であった)[39]。
ガールズケイリンコレクションでは、1着(8月ステージでは「ガールズドリームレース」)の競走得点は62点である(2着以降は2点ずつ減点、7着は50点)[40]。
また、先述の通り、ガールズケイリンでも代謝制度が導入された[8][9]ため、半期ごとの平均競走得点が47点未満を3期連続(1年半)すると(例外もあるが)強制引退(クビ)となる。実際に、6ヶ月ごとに行われる審査期終了時(毎年6月末と12月末)において、「競輪に係る業務の方法に関する規程」第83条第1項第3号に定める競走成績不良による登録消除の基準に該当する選手に対しては、登録消除に係る調査及び審議を行う間は同規程第134条第1項第3号の規定により出場あっせんが保留となり、事実上の引退に追い込まれる(毎回2名前後が対象となっており、この対象となった選手はいずれも直後に引退している)[41][42][43]。
特別競走
年間5大会実施される。格付けは全てFII。
- オッズパーク杯ガールズグランプリ(2012年 - )
- 年1回、KEIRINグランプリシリーズ(寺内大吉記念杯競輪)の初日(基本的に12月28日)に実施。7名出場による単発競走。
- ガールズケイリンコレクション(2013年 - )
- ガールズケイリンフェスティバル(2014年 - )
- 年1回、サマーナイトフェスティバルに内包。21名(7車立て×3レース)出場で、3日間(2014年は2日間)走。
2018年7月時点で、グランプリ、コレクション、フェスティバル全てで優勝を果たしたのは、小林優香、石井寛子の2人。
テーマソング
以下の曲は選手紹介時や選手入場時にも使用される。
- 2012年度:mihimaru GT『バカポジ〜Don't stop the music〜』
- 2013年度:湘南乃風『STAY GOLD』
- 2014年度:PiSTE BROTHERS feat.湘南乃風 HAN-KUN『2 The Future』
歴代賞金女王
- 2012年:小林莉子(東京) 8,460,000円
- 2013年:中村由香里(東京) 19,489,000円
- 2014年:梶田舞(栃木) 22,454,900円
- 2015年:小林優香(福岡) 29,767,000円 (歴代最高賞金獲得額)
- 2016年:梶田舞(栃木) 24,425,000円
- 2017年:石井寛子(東京) 22,631,000円
- なお、2017年の1年間における、12月31日時点での選手全109名(当年7月にデビューした112期生も含む)の平均取得賞金額は6,666,809円であり[44]、2016年比で50万円の増額[45]となった。また、年間獲得賞金が1000万円以上の選手は、近年は女子選手全体の1割強を占めており、2015年9名 → 2016年12名 → 2017年14名と増加している。
その他
競輪選手同士の結婚
2014年4月の田口守と梓乃(旧姓、三輪)を始めとして、須藤悟と稚明(旧姓、近内。引退)、山本紳貴と奈知(旧姓、篠塚)、川口聖翔と倉野由紀(引退)、野原雅也と小川美咲など、選手同士で結婚する例が増えている。
2014年9月1日から、戸籍上の名前でなく旧姓でも選手登録が可能となった[46]。田口梓乃や田仲敦子のように現姓に合わせて登録変更した選手もいるが、長澤彩、山路藍、田中麻衣美など結婚・改姓後も旧姓のまま現役を続けている選手も多い(田口梓乃も結婚後暫くは旧姓であった)。
ガールズケイリンカフェ
GI・GII開催中の競輪場を始め、競輪場以外でも自転車関連のイベントなどで、不定期にオープン。当日斡旋のないガールズケイリン選手数名が、場内の特設ブースでカフェ店員として来場者をおもてなしする企画。
選手自らが先頭に立ってグッズやドリンクなどの販売を行うため、ファンにとっては選手と直接触れ合える機会とあって人気は高く、開門と同時に押し掛けるファンも見られている[47]。なお、開催予定日と開催予定競輪場は、特設サイトやfacebookなどで告知される。
2015年3月、日本選手権を開催中の京王閣競輪場で初めて開設。最初に店員として登場したのは、地元・京王閣を拠点とする高木真備。それから2016年6月まではガールズケイリンの特別レースが行われる競輪場限定で出店されていたが、それ以降は全てのGI・GII開催中の競輪場で出店しているほか、2016年10月に宇都宮市で行われた「ジャパンカップサイクルロードレース2016」でもオープンするなど、自転車関連のイベントでも特別に出店することもある[47]。
女子競輪
競輪創世記から開催されていた女性選手だけの競輪「女子競輪」にはプロ競輪選手も多数存在し、代表的な女子選手として、奈良の田中和子や神奈川の渋谷小夜子、山口の畑田美千代などがいた。
1948年11月、小倉競輪場での競輪初開催と同時に女子競輪もオープンレースとして開催され、翌1949年10月に開催された第2回全国争覇競輪(川崎競輪場)にて車券発売の対象となる正式レースとなった[48]。女子競輪がスタートした当初は、女性の新職業として大いに脚光を浴びた。なお、女子選手の格付けはB級1・2班(当時はA級5班・B級2班による2級7班制)であった。
当時の自転車は車輪のリムは木製であり、またバンク地面がセメントではなく板張りのところもあった。元選手によると、移動は夜行列車が中心で、四人が向かい合うボックス席の座席と座席の間に板を渡して、足を伸ばして寝ていたこともあった。賞金は、大卒の初任給の平均が9,000円の時代に、多い時で4万円あったという。他に賞品もあり、着物、鶏肉、タンスなどが贈呈されたが、宅配便などなかった時代であり、荷物はすべて自分で持って帰っていたという[49]。
当初は女性選手が女性誌等で「ミス・ケイリン」と取り上げられるなど、多方面に話題を提供したこともあった。競輪二十年史によると、京王閣競輪場では年に1度「ミス・ケイリン」と題した女子選手のみでの開催が行われていたことがあり、オール女子選手による開催でも売り上げはそれ以外の普通開催にも劣らなかったことから、その企画が賞賛されたこともあった。
畑田美千代が田中和子に取って代わって優勝した1956年の第11回全国争覇競輪あたりまでが女子競輪の人気のピークであったが、次第にその人気は下火となり、多くの競輪場が女子競輪の開催に及び腰となっていった[50]。結果的に女子競輪の人気は長続きせず、1964年9月8日に開催された名古屋競輪場でのレースが最後となり、女子競輪の歴史は幕を閉じた[48]。
女子競輪においても特別競輪(現在で言うGIレースに相当)は開催された。上記の全国争覇競輪の他にも高松宮妃賜杯競輪、全国都道府県選抜競輪、競輪祭にて女子の部が開催されていたが、1957年の第12回全国争覇競輪の女子の部が直前になって突如中止されて以降は高松宮妃賜杯・全国都道府県選抜のみとなった(競輪祭も1958年の第4回大会以降では実施されず)[48]。
最盛期の1952年には669名もの女性選手が在籍したが、体力の限界や結婚などで引退する者が相次ぎ、1959年には394人、1961年には294人にまでその数を減らしていった。また、デビュー当時18 - 19歳だった彼女らも徐々に高齢化し、晩年には「ミセス・ケイリン」とまで揶揄される有様であった。そして1964年8月、末期まで残った230人の女子選手全員の登録消除が決定し、10月31日付けで選手登録消除となり、全員が引退した[48]。
その後、1965年6月8日に行われた第16回高松宮杯最終日にて、かつて高松宮妃賜杯に参加した元女子選手13名[52]が招待され、近江神宮にて参拝後に座談会、閉会式では高松宮殿下を囲んでの歓談と記念撮影が行われた[53]。
なお、女子選手が男子選手と結婚[54]し、その子供も競輪選手になったという例としては、中野浩一、佐々木和徳・昭彦・浩三の三兄弟、近藤幸徳などがあげられる。共に競輪選手である福田明・恵津子は4人の息子、陽生・祐治・匡史・篤司が競輪選手になり、さらに篤司の息子拓也、祐治の娘礼佳も競輪選手になった[55][56]。これは、祖母と孫娘が競輪選手という現在まで唯一の例である。近藤幸徳の息子、良太(故人[57])・龍徳もともに競輪選手となり、特に龍徳はヤンググランプリを制覇するなどトップレーサーに登り詰めている。
女子競輪衰退の理由
昭和期の女子競輪が衰退していった理由としては
- 男子と比べれば選手の数が少ない上に、元々選手間での力の差があり過ぎてレースが堅く収まってしまうことが多く[58]、ファンから見てギャンブルとしての魅力が乏しかったこと[48]。
- 女子の強豪選手は上記の田中や畑田のように西日本に多かった一方で、比較的女子競輪の人気が高かったのは南関東など東日本であり、施行者側も人気強豪選手を呼ぶには多額の交通費を支払うことになるため、経費面がネックになっていったこと。特定の地区に選手が偏っていたこともあり、斡旋する側も番組編成に困難をきたしていた。
- 「家庭の都合」などを理由に競走不参加を続ける不真面目な選手も多く見られ、施行者側としても選手確保に頭を悩まされたこと。中には競走参加の意思表示をしながら前検日に競輪場に現れず"ドタキャン"する選手もいた。
- 元々男子と比べて賞金体系が低く設定されていたことや、女子競輪の開催自体が減少したため、収入に結びつかない選手が増えたことで競輪選手に対する魅力が薄れ、新たに競輪選手を目指そうとする女性が減少し新陳代謝が進まなかったこと。晩年では選手1人あたり一ヶ月間で1回斡旋あるかないかという状況に陥っていた。
- 圧倒的な強さを誇ったスター選手の田中和子らの引退と、それに代わる新しいスター選手を育てられなかったこと。
- 男子は競輪が開始される以前より、新聞社等の主催による自転車競技大会が盛んに行われるなど、「アマチュア選手」としてそれなりの下地を積んだ選手が少なからず入ってきたが、女子は当時、自転車競技そのものに取り組む選手が皆無同然だったため、ごく一部の選手を除いて最初から選手の質の維持に問題があったこと。
- 女子プロスポーツ選手が本格的に注目されるようになったのは、ゴルフの樋口久子や、ボウリングの中山律子、須田開代子、プロレスのマッハ文朱が出現した昭和40年代以降。女子競輪が存在した頃はまだ、日本女子スポーツ界は、オリンピックを頂点としたアマチュアスポーツ全盛時代であり、一定の年代が訪れると、概ね結婚のため現役を退いた時代でもあった。したがって現在のように、アマチュアスポーツからプロスポーツへの転身がほとんど考えられていなかった時代であり、高い能力を有する選手の流入に限界があったこと。
などが挙げられている。
脚注
- ↑ 月刊競輪(月刊誌の発行期間は1976年~2012年)の毎年2月号に掲載される年間記録集を見ると、1980年代までは、女子の特別競輪優勝者の掲載が全くなかった。1990年代に入ると掲載されるようになった。
- ↑ 【あの時・ガールズケイリン誕生】(1)青天の霹靂だった小泉首相の鶴の一声 - スポーツ報知、2017年4月25日
- ↑ 【あの時・ガールズケイリン誕生】(2)08年にエキシビションレース開催 - スポーツ報知、2017年4月26日
- ↑ 【あの時・ガールズケイリン誕生】(3)発表しちゃえば何とかなる - スポーツ報知、2017年4月27日
- ↑ 【あの時・ガールズケイリン誕生】(4)競輪学校女子1期生たちの挑戦 - スポーツ報知、2017年4月28日
- ↑ 【あの時・ガールズケイリン誕生】(5)売り上げ予想の2・5倍!大盛況のスタート - スポーツ報知、2017年4月29日
- ↑ 女子競輪復活!12年7月に48年ぶりレース開催へ(スポニチアネックス 2010年9月30日付)
- ↑ 8.0 8.1 ガールズケイリンにおける登録審査制度(代謝制度)の概要
- ↑ 9.0 9.1 ガールズケイリンにおける登録審査制度(代謝制度)の流れ
- ↑ 但し、妊娠・育児で長期欠場している選手もいるため、実働はそれより少ない。
- ↑ スペースエンジェルズ新メンバー募集! - KAFS 小倉アスリートファンサイト、2015年11月13日
- ↑ 女子競輪47年ぶり復活! - スポーツ報知 2009年10月2日
- ↑ ガールズケイリン過去の成績
- ↑ GIRL'S KEIRIN 〜VENUS SERIES〜 season4の実施について - KEIRIN.JP 2010年10月22日配信
- ↑ 女子競輪復活の発表後、ケイリン女子が2012年のロンドンオリンピックから正式種目として採用された。
ロンドン五輪のトラック種目は男子2減、女子2増 - ↑ 女子競輪、半世紀ぶりに復活へ! - デイリースポーツ 2009年10月2日
- ↑ 女子ケイリン等に関する検討状況について KEIRIN.JP
- ↑ 記者発表会(女子ケイリン)の実施について - KEIRIN.JP 2010年10月1日配信
- ↑ 雑記帳:来年7月復活の女子競輪 愛称はガールズケイリン - 毎日新聞 2011年2月25日
- ↑ オールガールズシリーズ実施方法について - ガールズケイリン、2014/10/08
- ↑ 平成27年度下期ガールズケイリン開催日程について - ガールズケイリン、2015/08/08
- ↑ 11月4日からガールズドリームトーナメントが開催! - ガールズケイリン、2016/11/04
- ↑ 【京王閣競輪】オッズパーク杯ガールズドリームトーナメント(FII) 11月4日(金)よりナイター競輪開催! - オッズパーク
- ↑ “4月26日(木)~29日(火)開催の函館競輪G3ナイターはガールズケイリンが同時開催! ガールズケイリンが1日3個レース組み込まれます!”. keirin.jp (2018年4月17日). . 2018閲覧.
- ↑ 25.0 25.1 ガールズケイリンとは
- ↑ “小林優香 無敗の新女王 ガールズケイリンデビューから20連勝”. 西日本新聞社 (2014年8月26日). . 2017閲覧.
- ↑ 27.0 27.1 27.2 27.3 ガールズケイリン ルールブック
- ↑ 「KEIRIN EVOLUTION(ケイリン エボリューション)」の実施について(オリンピックルール準拠レースの実施) - KEIRIN.JP 2013年12月24日(なお、「オリンピックルール準拠」とあるが、実際は先頭固定競走(インターナショナル)ルールにより実施される)
- ↑ ガールズケイリン記者発表会の実施結果について - KEIRIN.JP・2012年4月25日(ルールや賞金についての別紙あり)
- ↑ 30.0 30.1 JKA・ガールズケイリンの制度概要 (PDF)
- ↑ JKA・競走車安全基準 (2)構成および部品
- ↑ ガールズケイリン・使用機材の紹介
- ↑ 目的はひとつなら - 東スポWeb・2014年10月7日
- ↑ ガールズケイリンで使用している前輪の変更について - KEIRIN.JP・2016年7月1日
- ↑ ガールズケイリンのイベントジャージが湾岸サイクルフェスティバル2015でデビュー! - WAVE ONE BLOG
- ↑ WAVE ONE製ガールズケイリン新ユニフォームが12月にデビュー☆ - WAVE ONE BLOG
- ↑ 【競輪】ガールズケイリンが新ユニホームを発表/ - デイリースポーツ、2016年11月17日
- ↑ ガールズケイリンの平成29年度の取組みについて - ガールズケイリン情報配信サイト、2017年3月24日配信
- ↑ 直近4カ月平均競走得点順位表(28.11.24) (PDF) - ガールズケイリン情報配信サイト,2016年11月25日
- ↑ ガールズケイリンコレクション(FⅡ)【共通】競走得点 (PDF) - ガールズケイリン情報配信サイト,2017年1月23日
- ↑ 広報KEIRIN、第100号 (PDF) - 5ページ目参照
- ↑ 広報KEIRIN、第106号 (PDF) - 4ページ目参照
- ↑ 広報KEIRIN、第112号 (PDF) - 4ページ目参照
- ↑ 2017年級班別賞金総額及び平均取得額 (PDF) - keirin.jp,2018年1月12日
- ↑ 2016 年級班別賞金総額及び平均取得額 (PDF) - keirin.jp,2017年1月11日
- ↑ “【競輪】かつては多かった“職場婚””. デイリースポーツ(デイリーONLINE) (神戸新聞社). (2015年5月15日) . 2017閲覧.
- ↑ 47.0 47.1 “【競輪】人気上昇!「ガールズケイリンカフェ」女子レーサーがおもてなし”. デイリースポーツ(デイリーONLINE) (神戸新聞社). (2017年2月25日) . 2017閲覧.
- ↑ 48.0 48.1 48.2 48.3 48.4 門司競輪の歴史
- ↑ マディソン突撃レポート! 04 昔の競輪事情を知りたい! - cycleweb
- ↑ それでも西宮競輪場や甲子園競輪場などのように、晩年でも積極的に女子競輪を開催した競輪場もあった。
- ↑ 正しくは、1963年9月30日に行われた会津競輪場でのレース中における頭蓋底骨折による事故死(競輪二十年史p.546)。
- ↑ 当日の招待者は、石村美千代、川崎喜登美(以上山口)、松川光子(香川)、庄司絹子(京都)、森耐子、奥野真弓、西村喜代香(以上大阪)、田中和子(家庭の都合で欠席)、松下五月、中西美和、東口節子(以上兵庫)、渋谷小夜子(神奈川)、加古政子(群馬)。この他、第12回優勝者の中村金子(熊本)は1964年に事故死したことが語られている[51]。
- ↑ 近畿競輪二十年史p211-217、近畿競輪運営協議会、1968年12月1日発行
- ↑ 田中和子は高橋恒と、畑田美千代は石村正利と結婚した他、多くの例がある。
- ↑ 競輪オフィシャルサイト 選手プロフィール 福田拓也
- ↑ 競輪オフィシャルサイト 選手プロフィール 福田礼佳
- ↑ 近藤良太さん 急性心不全のため死去 競輪ステーション 2016年9月30日
- ↑ 『競輪50年史』などによると、大概は100円台の配当だったという。逆に本命選手が敗れれば大穴が出る、といった状況で、ファンとしては車券が買いづらかった。特に女性選手の場合、生理などで体調管理が難しい面もあり、当時は予想屋が懇意の客に「今日●●(選手名)は生理だから来ない(連に絡まない)よ」と囁くことも多かったという。