カン (バンド)
Can | |
---|---|
出身地 | ドイツ ケルン |
ジャンル |
クラウト・ロック ジャズ・ロック フリー・ジャズ サイケデリック・ロック ローファイ ファンク エレクトロニック・ミュージック プログレッシブ・ロック 民族音楽(自称"Ethnological Forgery") 現代音楽 実験音楽 |
活動期間 | 1968年-1979年、1986年、1991年 |
レーベル |
ドイツ・ユナイテッド・アーティスツ ヴァージン・レコード ミュート・レコード |
カン(Can)は、1968年に西ドイツで結成されたロック・バンド。のちのパンク、ニュー・ウェイヴ、オルタナティヴ・ロック、エレクトロニック・ミュージック、ポスト・ロックなどに大きな影響を与えた。
今日的な音楽性を先取・開拓した非常に独創的な音楽集団としての評価が高いが、実は非英語圏のロック(ことにプログレッシヴ・アヴァンギャルドな)バンドとしては最初期にオーヴァーグラウンドでの成功を得たバンドでもある。イエジー・スコリモウスキ監督の映画『Deep End:早春」[1]の音楽を担当したことでも知られている。
Contents
概要
1968年、イルミン・シュミット(en:Irmin Schmidt)、ホルガー・シューカイ、ヤキ・リーベツァイト、ミヒャエル・カローリのドイツ人と、アメリカ人の実験音楽家デイヴィッド・ジョンソン(en:David C. Johnson)によってケルンで結成された。最初期は「インナー・スペース」の名で活動していた。
イルミン・シュミット(キーボード他)は、ホルガー、デヴィッドと同様、大学のシュトックハウゼン教室の生徒で、アカデミックな音楽教育を充分受けていた。ほかにもリゲティ・ジェルジやルチアーノ・ベリオについてピアノや指揮を学んだほか、ジョン・ケージと交流し(ケージの作品をドイツ国内で最も早い時期に演奏したという)、1960年代中盤に渡米してスティーヴ・ライヒ、ラ・モンテ・ヤング、テリー・ライリーと共演するなど、当時有望な若手現代音楽家と目されていた。
ホルガー・シューカイ(ベース)はシュトックハウゼンの影響で電子音楽的アプローチを研鑽するかたわら、ジャズ・バンドでもプレイした。家電工場を手伝うなどの経験により、電子機器のエンジニアリングにも長けていた。スイスの高校に音楽教師として赴任した際、そこの生徒だったミヒャエルと出会う。カン解散後のソロ活動は、メンバーのうちで最もよく知られている。
ヤキ・リーベツァイト(ドラムス)はチェット・ベイカー、テテ・モントリューなどのビッグ・ネームと競演した他、本国ドイツの前衛トランペッターであるマンフレッド・ショーフ(en:Manfred Schoof)のバンドにも参加、フリー・ジャズ・シーンでキャリアを積んでいた。
ミヒャエル・カローリ(ギター)はスイスの高校時代にホルガーと知り合った。「そこでホルガーから直接教えを受け、逆にホルガーにフランク・ザッパ、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド、ビートルズなどを教えた」という話が広く伝わっているが[2]、ミヒャエル自身は「学校では直接彼から音楽を教わっていないんだ。(中略)それとロックではなく、むしろソウルのほうが好きで、ジェイムス・ブラウンのようなのが好きだったんだよ」と語っている[3]。
イルミン、ホルガー、ヤキは雅楽に関心があり[4]、ミヒャエルはアフリカ音楽を愛好するなど[5]、メンバーたちは民族音楽に対して親近感を持っていた。彼らはバンドを結成し、知り合いの貴族に貸してもらったネルフェニッヒ城館をインナー・スペース・スタジオと名付け、そこでセッションを始めた。録音機材は2トラックのテープレコーダーという質素なものだったが、バンドはこの機材を1974年まで使い続ける[6]。
デイヴィッド・ジョンソンは1968年中に離脱。ほぼ同じころ、マルコム・ムーニー(en:Malcolm Mooney)がボーカリストとして参加した[7]。マルコムの独特なボーカルが、メンバーたちに「ロックバンド」への志向を目覚めさせたという。マルコムは1st、2ndに参加したのち脱退。後任のボーカリストとして、ミュンヘンの路上でパフォーマンスをしていた若い日本人ヒッピーのダモ鈴木がホルガーとヤキによってスカウトされた。彼の個性的なキャラクターはバンドの音楽とうまく合致し、カンの全盛時代を象徴するような存在となった。
バンド名の由来は、英語の可能を意味する助動詞「Can」、「Communism」(共産主義)・「Anarchism」(無政府主義)・「Nihilism」(虚無主義)の頭文字を並べたもの、メンバーがあらゆるアイデアを放り込むカン(缶)、日本語の「感」や「勘」に由来するなどと説明されているが、実質的なリーダーであったイルミンは「ある朝、ヤキとマルコムがやってきて「CANはどうだい?」と言うんだ。「CANか、いいじゃないか!」というわけで名前が決まった[8]」、ヤキも「もしかしたら(提案したのは)マルコムと私だったかもしれない[9]」とそれぞれ述べている。両者とも明確な由来には答えていない。
来歴
初期(1968–1970)
1969年、ファースト・アルバム『モンスター・ムーヴィー Monster Movie』を自主レーベルからリリース(その後ドイツ・ユナイテッド・アーティスツと契約して再リリースする)[10]。2チャンネル録音のローファイ的な荒々しい音像で、ファンキーかつサイケデリックなジャムがミニマル・ミュージック的なハンマー・ビートに乗って延々と繰り広げられるという、当時としてはきわめて鮮烈な作品であった。とくに20分の大作「ユー・ドゥー・ライト Yoo Doo Right」はカンの代表曲となり、のちにThe Geraldine Fibbers、Thin White Rope、馬頭將噐らが短縮形でカバーした。「Father Cannot Yell」、「Outside My Door」はパンク・ロックの先駆けとも評される[11]。マルコムはこの作品でリズミックかつ鬼気迫るヴォーカルを聴かせているが、神経衰弱を病み脱退してしまう。代わりのヴォーカリストとして、ホルガーとヤキがミュンヘンの街角でダモ鈴木を発見、その日のうちにダモはカンのライブに登場した[12]。
中期(1971–1973)
1970年、イルミンのコネクションでかねてから製作していた映画音楽作品を集めた『サウンドトラックス Soundtracks』を発表。マルコムとダモの参加作品が混在するなど、レコード会社の催促によるやや不本意な発表ではあったが、14分30秒の「マザー・スカイ Mother Sky」は、西ベルリンでディスコ・ヒットを記録した。このころからの数年間がカンの(一般的に言われる)全盛期といえる。
1971年の『タゴ・マゴ Tago Mago』は一枚物という当初の予定をイルミン夫人のヒルデガルトの発案で変更し[13]、一枚目は当時のオーソドックスなロックに歩み寄ったはっきりと起承転結のある楽曲、二枚目はより実験的でプリミティヴなジャム、という対照的なマテリアルを組み合わせた二枚組として発売された。現代音楽・フリー・ジャズ・民族音楽のごった煮という、カンの特徴がよく表れたアルバムとなった。ちなみにアルバムタイトルのTagomagoとはスペイン・バレアレス諸島の小島の名前である(イビサ島の東岸に位置する)。
『タゴ・マゴ』発表後、インナー・スペース・スタジオはネルフェニッヒ城館からケルン郊外の映画館跡地に移転する[14]。
1972年に『エーゲ・バミヤージ Ege Bamyasi』を発表。以前よりもポピュラー音楽的に展開のはっきり整えられた楽曲が並び、前衛性と軽やかさが同居したアルバムとなった。収録曲の「スプーン」(サスペンステレビドラマ『ナイフ Das Messer』の主題歌として作られた)のシングルは20万枚を売り、ドイツのシングル・チャートで最高6位というヒット曲となった[15]。ジャケットの写真にはトルコにある「カン」というメーカーのオクラの缶詰が使われた[16](アルバムタイトルはトルコ語で「エーゲ海のオクラ」)。
1973年のアルバム『フューチャー・デイズ Future Days』は、批評家から高く評価された。ドラムスは軽く細やかなアフリカン・パーカッションを奏で、ダモのボーカルも気だるく、より環境音楽に接近した。しかし、このアルバムを最後にダモ鈴木が離脱。以降はマルコムの復帰も検討されたが果たせず[17]、ミヒャエルとイルミンが主にボーカルを担当し、時には他のメンバーも担当する形になった。また、これまでのような実験性をやや抑えて、プロフェッショナルに様々なポピュラー音楽をなぞって構築しながら、自身のひねりを加えていく、ウェルメイドなサウンドに転換していく。
後期(1974–1979)
1974年の『スーン・オーヴァー・ババルーマ Soon Over Babaluma』は似非ラテン音楽がコンセプトである。ミヒャエルがヴァイオリンとヴォーカルを兼任し、イルミンがシンセサイザー(スイス製のAlpha 77)を多用することでブライアン・イーノなどにも近い静寂の音響を追求すると同時に、これまでの「似非民族音楽」(楽曲のタイトルで言うところのEthnological Forgery)を突きつめて漂白したアルバム。「Chain Reaction」はラテンの熱を感じさせない機械的狂騒サンバである。
1975年、ヴァージン・レコードに移籍する(ドイツの発売権はEMI/ハーヴェスト)。この機会にバンドは16トラックのテープレコーダーを導入[18]。移籍後初作品となる『ランデッド Landed』は遊び心に溢れたアルバムで、似非ハードロックがコンセプトである。
1976年の『フロー・モーション Flow Motion』はレゲエやディスコにも接近した、ダンサブルでポップなリズムに重点を置いた作品。「I Want More」はUKでディスコ・ヒットとなった。
1977年の『ソー・ディライト Saw Delight』からは、元トラフィックのロスコ・ゲー(ベーシスト)とリーバップ・クワク・バー(パーカッショニスト)が参加し、よりプロフェッショナルなアフリカ風ミュージックを演奏している。このころから、ホルガーは演奏することよりもラジオなどをステージに持ち込んで操作することに熱中するなどして[19](偶然性を重視したという)他メンバーとの姿勢と大きく乖離しはじめ、バンド内で孤立しはじめる。
1978年の『アウト・オブ・リーチ Out of Reach』は、ヤキのドラム以上にリーバップのパーカッションが前面に押し出され、ミヒャエルのこれまで以上にロック的なギターがフィーチュアされ、ホルガーがエレクトロニクス・サンプル以外で楽曲制作・演奏に関与していない、様々な意味での異色作である。のちにバンドから公式作品の地位を抹消された。
1979年の『カン Can』を最後に、ホルガーの離脱によってバンドは解散する。お別れパーティーのような明るさと寂しさの漂うアルバムである。このあと、メンバーはそれぞれのプロジェクトに散っていく。ホルガー・シューカイはソロとして「ページャン・ラブ」などの曲やアルバムを発表した。
再結成から現在
1989年にマルコム、イルミン、ミヒャエル、ホルガー、ヤキの布陣で再結成アルバム『ライト・タイム Rite Time』が発売された。この再結成は一時的なものだったが、1991年にも再びメンバーが集まり、映画("Bis ans Ende der Welt")に曲を提供した。
2001年11月17日、ミヒャエルが癌のため死去。
2017年1月22日、ヤキが肺炎のため死去。同年9月5日、ホルガーが自宅(バンドがかつて使用していたスタジオ)にて死亡しているのが発見された。
メンバー
中心メンバー
- ホルガー・シューカイ – ベース、エンジニア (1968–1977, 1986–1991)
- ミヒャエル・カローリ – ギター、ボーカル、ヴァイオリン (1968–1979, 1986–1991)
- ヤキ・リーベツァイト – ドラムス、パーカッション (1968–1979, 1986–1991)
- イルミン・シュミット – キーボード、ボーカル (1968–1979, 1986–1991)
他のメンバー
- マルコム・ムーニー – ボーカル (1968–1969, 1986, 1991)
- ダモ鈴木 – ボーカル (1970–1973)
- ロスコ・ジー – ベース、ボーカル (1977–1979)
- リーボップ・クワク・バー – パーカッション、ボーカル (1977–1979)
ディスコグラフィー
スタジオアルバム
日本盤があるものは邦題を先に示す。
- 1969年 モンスター・ムーヴィー(Monster Movie)
- 1970年 サウンドトラックス(Soundtracks)
- 1971年 タゴ・マゴ(Tago Mago)
- 1972年 エーゲ・バミヤージ(Ege Bamyasi・旧邦題『エゲ・バミヤーヂ』)
- 1973年 フューチャー・デイズ(Future Days)
- 1974年 スーン・オーヴァー・ババルーマ(Soon Over Babaluma)
- 1975年 ランデッド(Landed・旧邦題『闇の舞踏会』)
- 1976年 フロウ・モーション(Flow Motion)
- 1977年 ソウ・ディライト(Saw Delight)
- 1978年 Out of Reach*
- 1979年 カン(Can)
- 1989年 ライト・タイム(Rite Time)
* バンドの公式ディスコグラフィーからは抹消されている。
映画音楽/サウンドトラック
- 1971年 ディープ・エンド:早春 - 主演:ジョン・モルダー・ブラウン、ジェーン・アッシャー、監督:イエジー・スコリモウスキ(Soundtrack)
未発表曲集など
- 1974年 Limited Edition
- 1976年 Unlimited Edition(上記アルバムの増補改訂版)
- 1981年 Delay 1968(「モンスター・ムーヴィー」発表前のアウトテイク集。"Thief"は後にレディオヘッドがカヴァーしている)
- 1995年 The Peel Sessions(1973~76年のアウトテイク集)
- 1997年 Sacrilege(テクノやエレクトロニカ、ヒップホップのアーティストたちによるリミックスアルバム)
- 1999年 Can Live Music (Live 1971–1977)(1972~77年のライヴテイク)
- 2012年 The Lost Tapes(1968~77年のアウトテイク集)
- この他にもベストアルバムが5枚存在する。
参考図書
- 『ジャーマン・ロック集成』(マーキー・インコーポレイティド、1997年)
- 明石政紀 『ドイツのロック音楽(新装版)』 (水声社、2003年) ISBN 4891764864
- 『Remix』 2005年9月号 特集「カン伝説」(文芸社)
- 『ディスク・セレクション・シリーズ プログレッシヴ・ロック』(ミュージックマガジン社、2010年)
- 立川芳雄『プログレッシヴ・ロックの名盤100』 (リットーミュージック、2010年)
- 『レコードコレクターズ増刊 サイケデリック&エクスペリメンタル』(ミュージックマガジン社 2011年)
関連項目
脚注/注釈
- ↑ http://dangerousminds.net/.../cans_mother_sky_as_it_was_used_in_t...
- ↑ 『ディスク・セレクション・シリーズ』54ページ、『ドイツのロック音楽』49ページ。
- ↑ 『サイケデリック&エクスペリメンタル』252ページ。
- ↑ 『Remix』23ページ、103ページ、108ページ。特にイルミンは大学時代に雅楽の研究を行ったことを明かしている。
- ↑ 『Saw Delight』所収の『Sunshine Day And Night』は、カローリがケニアを訪れた際、現地の音楽に触発されて作った曲である(『サイケデリック&エクスペリメンタル』262ページ)。
- ↑ 『ドイツのロック音楽』50ページ。
- ↑ 徴兵忌避のためパリにいたアフリカ系アメリカ人の彫刻家・詩人で、美術界にもコネクションがあったイルミンの誘いでリハーサルを見学していたところ、突然乱入し歌い始めたと言う。それがきっかけで、それまで人前で歌ったことなどなかったマルコムがメンバーに迎えられた(『Remix』24ページ、30ページ、『サイケデリック&エクスペリメンタル』253ページ。ただしイルミンとマルコムが出会った場所については、前者は「美術館」、後者は「(イルミンの証言によると)画家の家」となっている)。
- ↑ 『Remix』108ページ。
- ↑ 『サイケデリック&エクスペリメンタル』253ページ。
- ↑ このときのバンド名表記は「THE CAN」であった(新旧双方のアルバムジャケットにも記載されている『サイケデリック&エクスペリメンタル』258ページ)。
- ↑ 『ドイツのロック音楽』52ページ、『Remix』34ページなど。
- ↑ 『Remix』26ページ。
- ↑ 『ドイツのロック音楽』62ページなど。
- ↑ 『ドイツのロック音楽』68ページ、『Remix』30ページ。
- ↑ charts.de - 2014年6月22日閲覧
- ↑ 『ドイツのロック音楽』69ページ。
- ↑ 『ジャーマン・ロック集成』50ページ。
- ↑ 『ドイツのロック音楽』80ページ、『ジャーマン・ロック集成』52ページなど。
- ↑ 『ディスク・セレクション・シリーズ』61ページ。