オウム真理教事件
オウム真理教事件(オウムしんりきょうじけん)とは、1980年代末期から1990年代中期にかけてオウム真理教が起こした一連の事件の総称である。
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概要
オウム真理教の教祖である麻原彰晃(松本智津夫)が救済の名の下に日本を支配して、自らその王になることを空想し、それを現実化する過程で、世界各国での軍事訓練や軍事ヘリの調達、自動小銃の密造や化学兵器の生産を行い武装化し、教団と敵対する人物の殺害や無差別テロを実行した。
一連の事件で29人が死亡し(殺人26名、逮捕監禁致死1名、殺人未遂2名[1][2])負傷者は6000人を超えた。教団内でも判明しているだけでも5名が殺害され、死者・行方不明者は30名を超える[3]。被害者の数や社会に与えた影響や裁判での複数の教団幹部への厳罰判決などから、「日本犯罪史において最悪の凶悪事件」とされている。
特に注目される事件として、教団と対立する弁護士とその家族を殺害した1989年11月の坂本堤弁護士一家殺害事件、教団松本支部立ち退きを求める訴訟を担当する判事の殺害を目的としてサリンを散布し計7人の死者と数百人の負傷者を出した1994年6月27日の松本サリン事件、教団への捜査の攪乱と首都圏の混乱を目的に5両の地下鉄車両にサリンを散布して計12人[4]の死者と数千人の負傷者を出した1995年3月20日の地下鉄サリン事件が挙げられる。複数人の死者を出したこれら3つの事件に対して、毎日新聞では「オウム3大事件」[5]と表現している。
2011年12月、それまでに起訴された全ての刑事裁判が終結し、189人[6]が起訴され、13人の死刑判決と5人の無期懲役判決が確定した[7]。2011年12月31日には16年以上にわたり逃亡を続けてきた平田信が警視庁に出頭し、翌2012年1月1日に逮捕され、平田を匿って逃亡に協力していた元女性出家信者も同年1月10日に逮捕、両者とも起訴された。同年6月3日には同じく逃亡していた菊地直子が潜伏先で逮捕され、同月15日には同じく逃亡を続けていた高橋克也が、東京都大田区西蒲田の漫画喫茶で身柄を確保され、同日逮捕された。これで警察庁からオウム真理教事件に関する特別指名手配を受けていた3人は、すべて逮捕・起訴された(平田信は2016年1月13日に懲役9年[8]、菊地直子は2017年12月27日に無罪が確定[9])。
最後のオウム事件被告である高橋克也は、最高裁まで争い2018年1月18日付で無期懲役が事実上確定。1月25日付で異議申立てが棄却、これをもってオウム事件裁判は完全に終結。[10][11]。7月6日に麻原と弟子の計7名の死刑が執行され、7月26日には他の6名の死刑が執行された。
事件一覧
発生年月日 | 事件名 | 死者 (人) |
負傷者 (人) |
動機 |
---|---|---|---|---|
1988年 | 9月22日在家信者死亡事件(立件なし) | 1 | 0 | 信者の事故死の隠蔽 |
1989年 | 2月10日男性信者殺害事件 | 1 | 0 | 脱会を希望した信者の口封じと殺害 |
1989年11月 | 4日坂本堤弁護士一家殺害事件 | 3 | 0 | 教団と敵対する弁護士の襲撃・殺害 |
1990年 | 国土法違反事件 | 土地売買の隠蔽 | ||
1991年 | 女性信者殺害事件(立件なし) | 1 | 0 | スパイと疑った信者の殺害 |
1992年 | 9月14日オカムラ鉄工乗っ取り事件(立件なし) | 企業乗っ取りと教団の武装化 | ||
1993年 | 6月 6日逆さ吊り死亡事件 | 1 | 0 | 信者の事故死とその隠蔽 |
1993年 | 6月28日第一次亀戸異臭事件(立件なし) | 0 | 0 | 細菌兵器培養と無差別テロ |
1993年 | 7月 2日第二次亀戸異臭事件(立件なし) | 0 | 0 | 細菌兵器培養と無差別テロ |
1993年11月 | 第一次池田大作サリン襲撃未遂事件(立件なし) | 0 | 0 | 創価学会指導者の暗殺 |
1993年11月~ | サリンプラント建設事件 | 大量殺人を目的とした化学兵器の生成 | ||
1993年12月18日 | 第二次池田大作サリン襲撃未遂事件(立件なし) | 0 | [注 1] |
数名創価学会指導者の暗殺 |
1994年 | 1月30日薬剤師リンチ殺人事件 | 1 | 0 | 教団から脱退させようとした人物の殺害 |
1994年 | 2月~自動小銃密造事件 | 教団の武装化 | ||
1994年 | 3月27日宮崎県資産家拉致事件 | 0 | 1 | 資産の強奪 |
1994年 | 5月 9日滝本太郎弁護士サリン襲撃事件 | 0 | 1 | 教団と敵対する弁護士の暗殺 |
1994年 | 5月~LSD密造事件 | イニシエーション用の違法薬物製造 | ||
1994年 | 6月27日松本サリン事件 | [注 2] |
7[注 3] |
600教団支部立ち退き裁判を担当する判事の殺害、サリンの実験 |
1994年 | 7月~覚醒剤密造事件 | イニシエーション用の違法薬物製造 | ||
1994年 | 7月10日男性現役信者リンチ殺人事件 | 1 | 0 | スパイと疑った信者の殺害 |
1994年 | 7月15日元仙台支部長死亡事件(立件なし) | 1 | 0 | 信者に懲罰として修行を強要、死亡させる |
1994年 | 7月28日元看護婦拉致監禁事件 | 0 | 1 | 教団から脱会しようとした人物の監禁 |
1994年 | 9月20日江川紹子ホスゲン襲撃事件(立件なし) | 0 | 1 | 教団と敵対する人物の殺害 |
1994年 | 9月~チオペンタールナトリウム密造事件 | イニシエーション用の違法薬物製造 | ||
1994年11月20日 | 鹿島とも子長女拉致監禁事件 | 0 | 1 | 教団の要求を拒否した人物の監禁 |
1994年12月 | 2日駐車場経営者VX襲撃事件 | 0 | 1 | 教団を脱走した信者を匿った人物の殺害 |
1994年12月 | 9日大阪における拉致監禁事件[13] | 0 | 1 | 教団から脱退しようとした人物の監禁 |
1994年12月10日 | ピアニスト監禁事件 | 0 | 1 | 出家を拒否した人物の監禁 |
1994年12月12日 | 会社員VX殺害事件 | 1 | 0 | スパイと疑った人物の殺害 |
1994年12月28日 | 三菱重工広島研究所侵入事件[14] | レーザー兵器開発などのためのデータ収集 | ||
1994年12月~ | メスカリン密造事件 | イニシエーション用の違法薬物製造 | ||
1995年 | 1月 4日被害者の会会長VX襲撃事件 | 0 | 1 | 教団を批判している人物の殺害 |
1995年 | 1月自動車免許証偽造事件[13] | 犯罪目的で偽造免許証を製作 | ||
1995年 | 2月28日公証人役場事務長逮捕監禁致死事件 | 1 | 0 | 多額の布施を見込める信者の奪還 |
1995年 | 3月15日霞ケ関駅アタッシュケース事件(立件なし) | 0 | 0 | 教団への捜査の攪乱と首都圏の混乱 |
1995年 | 3月19日島田裕巳宅爆弾事件 | 0 | 0 | 偽旗作戦 |
1995年 | 3月19日東京総本部火炎瓶投擲事件 | 0 | 0 | 偽旗作戦、自作自演テロ |
1995年 | 3月20日地下鉄サリン事件 | 12 [注 4] |
[注 5] |
6,300教団への捜査の攪乱と首都圏の混乱 |
1995年 | 3月20日名古屋における老女拉致事件[13] | 0 | 1 | 資産の強奪 |
1995年 | 3月22日第6サティアン礼拝堂信者監禁事件[13][16] | 0 | 6 | 教団からの脱会阻止 |
1995年 | 4月-5月新宿駅青酸ガス事件 | 0 | 0 | 教団への捜査の攪乱と首都圏の混乱 |
1995年 | 5月16日東京都庁小包爆弾事件 | 0 | 1 | 教団の解散権を持つ都知事への妨害と捜査の攪乱 |
※ 太字は死者が出た事件。
※ 死者は刑事裁判で認定された死者数。
その他関連事件・問題
- 村井秀夫刺殺事件
- 警察庁長官狙撃事件
- シガチョフ事件
- TBSビデオ問題
- 農水省オウムソング事件
- 観念崩壊セミナー
- オウム真理教ソフト開発業務受注問題
- 宗教法人オウム真理教解散命令事件
- オウム真理教の国家転覆計画
逮捕者
一連の事件に関与して逮捕された信者は403名(1996年1月18日時点)[17]、起訴192名[18]。
事件名の下に●が付いている事件は死亡事件。
地下鉄サリン事件以降の流れ
強制捜査と教団幹部逮捕
1995年3月20日の地下鉄サリン事件発生から2日後の3月22日、オウムの活動拠点である山梨県西八代郡上九一色村(現・南都留郡富士河口湖町)など25の施設へ公証人役場事務長逮捕監禁致死事件実行犯の逮捕などを目的に強制捜査が開始された。
その後、越川真一(4月6日逮捕)、岐部哲也(4月8日逮捕)、林郁夫(4月8日逮捕)、石川公一(4月8日逮捕)、新実智光(4月12日逮捕)、早川紀代秀(4月20日逮捕)、遠藤誠一(4月26日逮捕)、土谷正実(4月26日逮捕)、青山吉伸(5月4日逮捕)、井上嘉浩(5月15日逮捕)と教団幹部が続々と逮捕され、取り調べにより事件が解明されていった。
麻原教祖を逮捕
5月16日には教団教祖であり事件の首謀者とされた麻原彰晃を逮捕するための第6サティアン一帯の強制捜査が行われた。この際に指揮を執ったのは警視庁の井上幸彦警視総監と寺尾正大捜査一課長であり、現場前線での指揮は山田正治理事官が執った。陸上自衛隊から貸し出しを受けた迷彩仕様の化学防護服に身を包み、完全武装した数百名に及ぶ警視庁捜査員、山梨県警察捜査員、また警察の中に化学防護服の扱いに慣れている者が少なかったため、応援としてかけつけた自衛官が一斉に上九一色村に入り、即座に付近一帯を全面封鎖。付近住民を避難させ、カナリアを入れた鳥かごを持つ捜査員を先頭にサティアン内の捜索を開始。
事前の警察への匿名による密告情報では、「麻原はサティアン内の中二階に引き篭もっている」ということだったので、サティアン内へ捜査員を潜入させ、内部の重点捜索を行った。捜索から数時間後、事前の密告情報による中二階は存在しないことが判明し、捜査撹乱を狙った密告であったと判断した山田に焦りの色が見え始め、一斉捜索打ち切りの時刻が迫っていた。
機動捜査隊回報〔H7.5.18 NO10-5.16Xデ-におけるオウム真理教代表者麻原彰晃の逮捕-〕によると、早朝から始まった捜索から既に4時間が経過、「第六サティアンの中には麻原はいないのではないか」と担当捜索隊員も諦めかけていたとき、別働隊として参加していたA班長指揮の当隊員C捜索班[36]が、「よし、我々の手でもう一度探してみよう」と自発的に第六サティアン内に入って麻原教祖の捜索に当たった。
その結果、隊員の一人が所持していたスチールパイプ柄のハンマーで中二階の側壁を叩き割ったところ、紅紫の法衣を身に纏い、仰向け状態で瞑想している麻原を発見。その際、隊員が「麻原だな!何をしている。出てこい!」と呼びかけると「瞑想している。わかりました」と答えたため、さらに付近のラスボードを破壊し、麻原を引きずり出した。
麻原の発見報告を受けた山田が確認したところ、麻原は髭は伸び放題で着衣も薄汚れ、目は虚ろで極度のアルコール中毒患者か廃人のようであったという。当時の麻原は尿失禁もしていた。捜査員が踏み込んだ際は逃亡する気配すら無く横たわったままほとんど身動きしなかったので重度の身体障害があるのかとも思われたが、現場へ赴いた山田が「麻原か?」と尋ねると「はい…」と弱々しく答えて自認したため、その場から別室へ移動し、この部屋で警察嘱託の医師によって身体の異常の有無を診察された後、「特に異常無し」との医師の所見であったことから、同室で山田から逮捕状の執行を下命された前述の機動捜査隊副隊長Bが東京地方裁判所の裁判官から発布された逮捕状〔甲〕記載の別紙「被疑事実の要旨」を麻原に読み聞かせ又は示して、9時45分、麻原を地下鉄サリン事件の被疑者として殺人及び殺人未遂の罪で通常逮捕した。
捜査第一課管理官ら複数の捜査員による監視移動の中、第六サティアンの別室から施設外に出された麻原はそのまま待機していた警察警備車両に逮捕捜査員と共に乗車させられた。連行途中での麻原の奪還や不測の事態に備えるため麻原を乗せたワゴン車とカムフラージュ用ワゴン車両がそれぞれ周到に準備され、その前後を4、5台のパトカーに先導護衛され又麻原を乗せたワゴン車の両サイドを機動捜査隊の捜査車両が厳重警護しながら、警視庁捜査第一課へ護送連行された[37]。
警視庁・山梨県警察
当時の上九一色村の第6サティアンは、毒ガステロを引き起こした犯罪組織の本拠地ということで、サリン等の毒ガス使用も懸念された。そのため、強制捜査にあたる捜査員全員に化学防護服の着用が命令され、銃撃戦の恐れもあるとして捜査員全員が拳銃携帯にてサティアン捜索に臨んだ。日本の警察による犯罪捜査において捜査員全員が拳銃携帯で犯罪者の確保にあたることは実に稀なことで、いつも大半の捜査員は拳銃を持たずに捜査を行っているのだが、捜査員の生命の安全を考え全員武装での捜査となった。通常、拳銃を携帯しても予備の弾薬まで携行することはないのだが、本件では予備の弾薬を携行して行った捜査員もいる。
当時の上九一色村は山梨県内にあるので本来は山梨県警察の管轄事件だが、今回のケースは警視庁管内で発生した事件と同一犯であったこと[38]に加え、事件の規模があまりにも大きかったため、警視庁主導での合同捜査が展開された。山梨県警察からも大量の捜査員が派遣され、警視庁捜査員と合流し隊列を組んで上九一色村へ向かった。これら大多数の捜査員の後を追って多数のマスコミ取材班も現場へ派遣されている。
機動隊
テロ事件ということで警視庁刑事部の他に警備部も動員され、警視庁管轄下の機動隊員(警視庁および山梨県警察を含む関東管区警察局管内の機動隊員ら)が大多数動員され山梨県上九一色村のオウム真理教第6サティアンへ派遣された。
警視庁刑事部捜査一課と山梨県警察から動員された数百名の捜査員に加わり、現場での捜索活動及び後方支援を展開。信者からの銃撃が想定されたため、機動隊員もガスマスクと拳銃を装備し厳重警戒態勢にて現地入りした。
防衛庁・自衛隊
防衛庁(現・防衛省)は、オウム真理教が海外で軍事訓練なども行っている武装集団であり、強制捜査時に於ける組織的な武力抵抗により、警察力での対処が困難な場合の治安出動の可能性を考慮し、陸上自衛隊東部方面隊に対し第三種非常勤務態勢を発令していた。また第一空挺団の普通科群1個中隊が富士駐屯地に訓練名目で移動して待機していたとされる[39]。
オウム裁判
その後も、中川智正(5月17日逮捕)、松本知子(6月26日逮捕)、岡崎一明(9月6日逮捕、後に宮前に改姓)、上祐史浩(10月7日逮捕)など教団幹部の逮捕は続いた。地下鉄サリン事件以降484人の信者が逮捕され、1998年までに189人が起訴された。
裁判に際して弁護側は麻原について「全て弟子の責任」として無罪を主張し、麻原以外の教団幹部について「麻原にマインドコントロールされていた」として減刑を主張した。また、麻原公判など一部の刑事公判では弁護士解任による公判延期や弁護士側の並行審理拒否や審理のボイコット、検察側が提出した申請証拠の不同意と法廷での直接尋問などの要求、被告人に訴訟能力はないとして控訴趣意書の提出を拒否したことなどは一部からは裁判の遅延行為と非難された。そのため、検察が松本・地下鉄両サリン事件の重軽症者を大幅に減らす訴因変更や被害者がいない事件の起訴を取り下げたりと、異例の裁判となった。
2011年11月21日に最後の上告審判決が言い渡され、同年12月12日にこれに対する判決訂正の申立てが却下されたことから、13人への死刑判決・5人への無期懲役判決が確定し、逃亡犯を除く全ての裁判が一旦終結した。
またオウム裁判の傍聴希望者は、麻原彰晃第1審初公判(1万2292人)、麻原彰晃第1審2回公判(5856人)、麻原彰晃第1審判決公判(4658人)、中川智正第1審初公判(4158人)、青山吉伸第1審初公判(3076人)と多く、世間の関心の高さを物語った。
オウム逃亡犯
重大事件に関与しつつも逃亡したオウム信者もいる。警察庁は重大事件に関与したオウム信者19人をオウム真理教関係特別手配被疑者として全国指名手配にした。1996年1月時点で7人のオウム真理教関係特別手配被疑者がいたが、1996年11月14日には北村浩一と八木澤善次が逮捕され、同月24日に松下悟史が逮捕され、12月3日には林泰男(後に小池に改姓)が逮捕された。また特別手配ではないが教団初期の殺人事件に関与しながらも国外にいた大内利裕が日本に強制送還され、1998年に逮捕された。1998年までに逮捕された一連のオウム事件の逃亡犯については2011年までに裁判で刑が確定した。
1996年12月4日以降から約16年の長期にわたって平田信、高橋克也、菊地直子が逃亡中であったが、2012年1月1日に平田が、6月3日には菊地が、同月15日には最後のオウム逃亡犯であった高橋が逮捕された。なお菊池は起訴されたが2017年12月27日に無罪が確定した。
刑事訴訟法第254条2項により、オウム逃亡犯は共犯者の公判中は公訴時効の進行が停止し、また2010年4月27日をもって刑法と刑事訴訟法の改正(即日公布、施行)によって高橋と菊地の指名手配容疑であった地下鉄サリン事件については殺人罪の公訴時効が廃止となり(殺人未遂罪の公訴時効は15年のまま)、平田の指名手配容疑であった公証人役場事務長逮捕監禁致死事件については逮捕監禁致死罪の公訴時効が20年に延長となり、公訴時効が停止・廃止・延長となっていた。また、2010年以降は捜査特別報奨金制度の対象事件にも指定されていた。
13人の死刑執行
死刑が確定した13人は全員が東京拘置所に収監されている状態が続いていた[40][41][42][43]。通常、3人以上の共犯死刑囚が存在する場合は同日に死刑執行されるのが原則であるが、同日に同じ刑場で3人以上の死刑を執行するのは困難であるため、1つの施設あたり2人以下になるよう全国7か所の刑場のある拘置所・拘置支所へ死刑囚の分散が図られる[44]。オウム事件の13人についても2011年秋の遠藤誠一の死刑確定によりそれまでに逮捕・起訴されていた被告人の裁判が全て終結したため、2012年の春に刑場のある7施設への分散の予定があったが、前述の2011年末以降の逃亡していた平田らの逮捕・起訴により裁判が再開されたため、移送が立ち消えになった旨の報道があった[45]。
平田ら3人の裁判員裁判には、2013年から2015年にかけて、井上嘉浩、中川智正、新實智光、林泰男、広瀬健一の5名が出廷している。この出廷に関しては、検察側は死刑囚の心情の安定の問題、死刑囚に危害が加えられる可能性など、移送に伴う混乱は必至であるとし、「裁判所に呼ぶのはリスクしかない」と反対した[46]。これは、死刑囚13名を全国7箇所の拘置所・拘置支所へ分散しようと計画していたこととは大きな矛盾であった。一方で、拘置所で行なった死刑囚の出廷の予行演習の情報は外部へ漏れ、テレビで放映された。実際の死刑囚の出廷は厳戒態勢のもと行われ、事なきを得た。
2018年1月、高橋克也の無期懲役確定により、オウム事件の刑事裁判は終結[40][43]。裁判終結に伴い、同年3月14日、麻原を除く死刑囚12人のうち、7人について、死刑執行設備を持つほかの5拘置所(宮城刑務所仙台拘置支所・名古屋拘置所・大阪拘置所・広島拘置所・福岡拘置所)への移送が行われた[40][41][42][43][47]。札幌拘置支所が除外されたのは、東京拘置所からの自動車移送が困難なためとみられる[48]。
法務省は、7人を移送した事実を公表したのみで、死刑囚の氏名・それぞれの具体的な移送先については明らかにしていないが[47]、支援者などの調査によれば、移送先は、以下の通りである[49]。
- 小池(林)泰男 - 宮城刑務所仙台拘置支所[47][49]
- 宮前(岡崎)一明・横山真人 - 名古屋拘置所[47][49]
- 井上嘉浩・新實智光 - 大阪拘置所[47][49]
- 中川智正 - 広島拘置所[47][49]
- 早川紀代秀 - 福岡拘置所[47][49]
なお、この移送について、産経新聞・中日新聞・TBSテレビなど、複数の報道機関は、「法務省は死刑執行の時期を慎重に検討しており、その準備の一環とみられる」と報道しているが[48][50][51]、法務省は、「心身の状態などを考慮して、7人を移送対象に選んだ」と発表した上で、この移送について、「共犯者を分離するためで、執行とは関係ない」という見解を示した[49]。
2018年7月6日、松本智津夫・早川紀代秀・井上嘉浩・新實智光・土谷正実・中川智正・遠藤誠一の計7名の死刑が執行された[52]。なお、上述のとおり、同日に同じ刑場で3人以上の死刑を執行するのは困難であると見られていたが、実際には、麻原・土谷・遠藤の3名は東京拘置所で死刑執行された。
20日後の7月26日、残っていた小池(林)泰男・豊田亨・端本悟・広瀬健一・宮前(岡崎)一明・横山真人の計6名の死刑が執行され、オウム真理教事件の死刑確定者全員の死刑執行が完了した[53]。
宮前一明、端本悟、土谷正実の3名を除く10名が再審請求中であった[54]。
事件とその後
マスコミ関連
1995年3月20日の地下鉄サリン事件以降、「オウム特番」等連日連夜繰り広げられた報道は社会現象となり、マスコミは「オウム特需」に沸き、1998年の和歌山毒物カレー事件と合わせて報道のワイドショー化やメディアスクラムが一層進んだと指摘される[55][56]。さらにオウム側も上祐史浩、村井秀夫、青山吉伸ら上層部の人物をテレビに出演させるプロパガンダ戦略をおこない便乗した。特に1995年5月16日の麻原逮捕までは毎晩どこかの局で2時間程度(日によって異なるが場合によっては3~4時間の場合も)のオウム真理教に関する報道特別番組が組まれていた。その影響で1995年4月~6月クールの連続ドラマの視聴率が低下した(21時から特番を組んだ事もあり、その影響で休止になったり繰り下げとなることも多かったためである)。また、オウム報道が集中していた1995年3月から5月にかけて、世界ではオクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件(4月19日)、31年ぶり2人目の日本人メジャーリーガー野茂英雄のメジャーリーグデビュー(5月2日)、台湾出身の歌手テレサ・テン死去(5月8日)などのニュースがあったが、日本における報道の扱いは小さかった。
「オウム真理教を扱った番組は簡単に視聴率が取れる」として、『オウムの法則』(オームの法則と掛けたパロディとも思われる)なる用語まで登場した[57]。実際、1995年の年間視聴率(ビデオリサーチ調べ)の上位50本の中に、オウム真理教関連の番組は関東地区で16本、関西地区では10本登場している。ちなみに、この年発生した阪神・淡路大震災関連の番組は関東地区で2本、関西地区でも7本だった[58]。20年経過した2015年にも特番が製作されており、コンテンツとしてでの人気は根強い。
TBS『ブロードキャスター』のコーナー「お父さんのためのワイドショー講座」によると、1995年の1年間にワイドショーがオウム真理教関連の話題を報じた時間数は延べ1272時間19分5秒。2位の阪神・淡路大震災の126時間8分53秒に約10倍の差をつけての首位だった[59]。
1995年に週刊新潮が発表した「今年を代表する男」の読者アンケートで、麻原彰晃が野茂英雄に次いで2位を獲得。また上位10人には麻原以外にも坂本堤・村井秀夫・上祐史浩とオウム事件の関係者が4人ランクインした。
評価・影響
- 田原総一朗は麻原の3女松本麗華との対談の中で「日本は空気の国だ。空気を乱すことが一番悪い。大手銀行が暴力団に融資していた事件があったが、誰一人として行内でやめましょうと言えなかった。大東亜戦争でも日本が負けるに決まっているのにやめようとはだれも言えなかった。オウム真理教事件と大東亜戦争は似ている。昭和天皇が独白録であのとき戦争をやめようと言ったなら、自分が殺されるか幽閉され周囲が殺されそれでも日本は戦争へと突き進んだろう、と証言している」とし、「太平洋戦争をだれも止められなかったのと同じ力学がオウム事件でも働いている」と述べた。なぜオウム真理教内で事件が止められなかったかについて、松本麗華は「教団内では確認をするということがなかった。何となく知った気になって皆が動く。皆の動きと違う動きができない」雰囲気があったためと証言した[60]。
- また田原は、既成宗教が力を失っていたのに対し「オウム真理教は人を殺させてしまうほど、宗教としては本物だった」と語る[61]。
- 「業界」に与えた影響は大きく、宗教家はオウムは宗教ではないとすることで逃げを打ち、新宗教研究者はスピリチュアリティ研究に活路を求め、テレビ局も一時期オカルト番組を急減させた[62]。特に巨額の寄付・献金を要求したり、信者の離脱を許さなかったりなど、信者を抑圧しているとされる団体に対しては、情報の公開を求める動きが広がった。白装束で話題になったパナウェーブ問題への対応などにも影響を与えている。島薗進は、事件以降、「宗教嫌い」の傾向が強まる社会的影響が見られたことについて、実際の宗教知識を踏まえたものではなく、作られたイメージを鵜呑みにした結果であるとしている[63]。
- オウム信者に人権は無いという排斥運動が広まり、地方公共団体も信者の転入届を拒否して住民票の登録をさせないことが問題となった[64]。森達也は『ご臨終メディア-質問しないマスコミと一人で考えない日本人』で、報道機関が視聴者・読者から教団を擁護していると非難されることを恐れるあまり、教団を排斥する運動の不当性や、別件逮捕や微罪逮捕による信者の不当逮捕を報道することすらタブーになっていると指摘している。森は、事件後に成立した「組織犯罪対策法」等の中に、社会の治安維持上の必要がある場合に個人の私権を制限したりプライバシーを侵害する事を認めるような条項が盛り込まれたことについて、報道機関の運動に乗せられた結果の行き過ぎではないかと主張している。
- あまりにも前代未聞な事件だったこと、オウム報道によって犯罪報道の比重が高まったために、犯罪が特に増えているわけでもなかったものの、体感治安では治安の悪化を感じる国民が増加し、厳罰化など以後の刑事政策に影響を与えた。犯罪被害者の救済制度が主張され、2008年12月には通院1日以上の健康被害を受けた人に給付金が支払われる「オウム真理教犯罪被害者救済法」が施行された。
- フランスにも影響を与え、セクト(カルト)団体対策の推進の理由のひとつとなり(他にスイスにおける集団自殺、フランス国内でのセクト被害報告の増加もある)、各省庁が連携してのセクト対策が立てられ、フランスはセクト団体対策の先進例の1つとなった。1995年、1999年にフランスは、国内で活動中で犯罪の多い団体のリストを作成した。当然フランスに於いてもオウムは特に危険な団体として取り扱われたが、オウムはフランスに支部を持っていなかったのでセクトのリストからは漏れている。
- 2000年に、上祐史浩が広島刑務所を出所し後継教団「アレフ」(現Aleph)の教団代表についたが、上祐代表を中心とする「代表派」(少数派)と、麻原回帰を強める非代表派(多数派)が分裂した。代表派によれば、代表派と非代表派の会計規模は1:5とされ、2007年5月に上祐らは独立して新団体ひかりの輪を結成した。
不明点
オウム真理教に絡むとされる事件において、複数の事件で不明点が残っている。
- 松本サリン事件後に流通した怪文書「松本サリン事件に関する一考察」の作者。
- 地下鉄サリン事件のサリン原料となったメチルホスホン酸ジフロライドの保管者は中川智正か井上嘉浩か。
- オーストラリアでのサリン実験はあったのかについて。
- 国松警察庁長官銃撃事件のオウム犯行説について。
- 村井秀夫刺殺事件は単独犯か否かについて。
関連項目
- オウム真理教の国家転覆計画
- 内乱罪
- 警察庁広域重要指定事件
- オウム20年目の真実〜暴走の原点と幻の核武装計画〜 - (テレビ朝日 2015年2月21日放送)
- 未解決事件 (NHKスペシャル) - (NHK 2012年5月26日、27日放送分)
- 地下鉄サリン事件 15年目の闘い〜あの日、霞ヶ関で何が起こったのか〜
- 日本テレビ長官狙撃自白報道
- TBSビデオ問題
- 井の頭公園バラバラ殺人事件 ※直接関係はないが担当していた警視庁捜査1課の捜査員が本事件に招集され捜査本部も解散してしまいそのまま未解決になってしまうという不遇を受ける。
脚注
- ↑ 地下鉄サリン事件発生直後に入浴し溺死した人物
- ↑ 松本サリン事件で負傷した河野義行の妻
- ↑ 『生きている不思議 死んでいく不思議』-某弁護士日記「死刑執行回避署名のお願い」
- ↑ 刑事訴訟としては12人。オウム被害者救済法としては13人。
- ↑ オウム全公判終結(2011年11月) 毎日新聞
- ↑ アレフ発足以後の逮捕者を除く
- ↑ あれから16年余 オウム裁判終結 遠藤誠一被告の死刑確定へ スポーツニッポン
- ↑ “オウム平田被告の上告棄却 懲役9年確定”. 日刊スポーツ. (2016年1月15日) . 2016閲覧.
- ↑ オウム真理教 元信者の菊地直子さん 無罪確定へ 最高裁
- ↑ オウム裁判、完全に終結=高橋被告の異議棄却-最高裁 時事通信 2018年1月26日
- ↑ オウム事件全裁判が終結 死刑13人、執行の検討本格化 東京新聞 2018年1月19日
- ↑ 12.0 12.1 降幡賢一『オウム法廷6』 p.27
- ↑ 13.0 13.1 13.2 13.3 平成8年警察白書 警察庁
- ↑ 東京キララ社編集部『オウム真理教大辞典』 p.128
- ↑ 15.0 15.1 “地下鉄サリン死傷者6300人に 救済法の認定作業で調査”. 47NEWS/共同通信. (2010年3月11日) . 2012閲覧.
- ↑ 「五人は回復に向かう オウム教施設から救出された信徒の容体」 朝日新聞 1995年3月30日朝刊
- ↑ 破防法弁明●証拠の要旨の告知(2) オウム真理教公式サイト(Internet Archive)
- ↑ [1]
- ↑ オウム真理教の代表的事件である1995年3月20日の地下鉄サリン事件以降の身柄拘束日について記載。1995年3月20日以前の国土利用計画法違反事件での身柄拘束については記載しない。
- ↑ 逮捕時のもの
- ↑ 2018年7月6日東京拘置所にて執行
- ↑ 一審は無期懲役判決。2018年7月6日大阪拘置所にて執行
- ↑ 2018年7月6日東京拘置所にて執行
- ↑ 2018年7月26日名古屋拘置所にて執行
- ↑ 2018年7月6日東京拘置所にて執行
- ↑ 2018年7月26日東京拘置所にて執行
- ↑ 2018年7月6日広島拘置所にて執行
- ↑ 2018年7月6日大阪拘置所にて執行
- ↑ 2018年7月26日東京拘置所にて執行
- ↑ 2018年7月6日福岡拘置所にて執行
- ↑ 2018年7月26日宮城刑務所にて執行
- ↑ 2018年7月26日東京拘置所にて執行
- ↑ 2018年7月26日名古屋拘置所にて執行
- ↑ 検察側の求刑は死刑
- ↑ 一審は懲役5年判決
- ↑ 捜索班の一員だった牛島寛昭巡査(警視庁本田警察署所属)の証言では、牛島巡査が以前、信者が以前2階と3階の間の外壁の空気穴をカバーで隠していたことを思い出し、牛島巡査以下数名の機動捜査隊員が自発的に第六サティアン内に入って麻原教祖の捜索に当たることになった。一方機動捜査隊回報には、4分駐所の名前の他に功労者として8名の氏名が記載されているが、この中には牛島氏の氏名は見当たらない。
- ↑ 当初、護送は警視庁が保有していたV-107大型輸送ヘリコプターで行われる予定だったが、当日悪天候の為ヘリコプターが飛べず、警察車両での護送に変更されたとの噂があるが、これについては、確かに当日、降雨で天候がよくなかったが、確証情報は得られていない
- ↑ このように別の都道府県警察が合同で捜査を行う場合は警察庁広域重要指定事件に指定される場合が多いが、これらの事件は指定されていない。ただし指定の明確な定義は無い。
- ↑ 作家麻生幾著書「極秘捜査――警察・自衛隊の「対オウム事件ファイル」(文藝春秋、1997年 / 文春文庫、2000年)」
- ↑ 40.0 40.1 40.2 “【オウム死刑囚】中川智正らオウム死刑囚7人を移送 執行施設ある5拘置所に分散か(1/2ページ)”. 産経新聞 (産業経済新聞社). (2018年3月14日). オリジナルの2018年3月15日時点によるアーカイブ。 . 2018閲覧.
- ↑ 41.0 41.1 “【オウム死刑囚】中川智正らオウム死刑囚7人を移送 執行施設ある5拘置所に分散か(2/2ページ)”. 産経新聞 (産業経済新聞社). (2018年3月14日). オリジナルの2018年3月15日時点によるアーカイブ。 . 2018閲覧.
- ↑ 42.0 42.1 “【オウム死刑囚】移送7人は新実智光、林泰男、早川紀代秀、井上嘉浩、岡崎一明、横山真人、中川智正の各死刑囚(1/2ページ)”. 産経新聞 (産業経済新聞社). (2018年3月14日). オリジナルの2018年3月15日時点によるアーカイブ。 . 2018閲覧.
- ↑ 43.0 43.1 43.2 “【オウム死刑囚】移送7人は新実智光、林泰男、早川紀代秀、井上嘉浩、岡崎一明、横山真人、中川智正の各死刑囚(2/2ページ)”. 産経新聞 (産業経済新聞社). (2018年3月14日). オリジナルの2018年3月15日時点によるアーカイブ。 . 2018閲覧.
- ↑ 『死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90』 vol.147 p8
- ↑ 「オウム死刑囚13人、分散収容を検討、法務省、昨年末に。」『日本経済新聞』2012年10月07日付朝刊
- ↑ 「オウム3死刑囚の証人採用心情への影響、警備の混乱…懸念多く」 『産経新聞』2013年3月30日
- ↑ 47.0 47.1 47.2 47.3 47.4 47.5 47.6 “オウム死刑囚7人の移送完了 法務省「共犯分離が目的」”. 共同通信 (共同通信社). (2018年3月15日). オリジナルの2018年3月15日時点によるアーカイブ。 . 2018閲覧.
- ↑ 48.0 48.1 “【オウム死刑囚】死刑執行施設は全国に7カ所 札幌は車移動困難で除外か”. 産経新聞 (産業経済新聞社). (2018年3月14日). オリジナルの2018年3月15日時点によるアーカイブ。 . 2018閲覧.
- ↑ 49.0 49.1 49.2 49.3 49.4 49.5 49.6 “「移送は執行と関係ない」と法務省 オウム死刑囚の移送完了”. 産経新聞 (産業経済新聞社). (2018年3月15日). オリジナルの2018年3月15日時点によるアーカイブ。 . 2018閲覧.
- ↑ “オウム死刑囚7人移送 名古屋拘置所などへ、執行へ準備か”. 中日新聞 (中日新聞社). (2018年3月14日). オリジナルの2018年3月15日時点によるアーカイブ。 . 2018閲覧.
- ↑ “オウム真理教死刑囚7人を移送、いつ執行か 焦点に”. TBS NEWS (東京放送テレビ). (2018年3月14日). オリジナルの2018年3月15日時点によるアーカイブ。 . 2018閲覧.
- ↑ オウム真理教・松本智津夫死刑囚ら7人の死刑執行 日本経済新聞 2018/07/06-10:26
- ↑ 【オウム死刑執行】岡崎死刑囚ら残る6人も刑執行 四半世紀経て事件終結 - 産経ニュース 2018年7月26日
- ↑ 「再審請求中は執行回避」傾向は変わるのか 13人中10人が請求 「引き延ばし」批判も 産経ニュース 2018.7.28 21:16
- ↑ 真実と偽りが二極化する危うさ - 森達也 WEBRONZA - 朝日新聞社
- ↑ 山際永三「論評/安田さんへの弾圧とオウム問題」 オウム裁判対策協議会
- ↑ 『朝日年鑑 1996』 朝日新聞社 1996年 219頁 ISBN 4-02-220096-0
- ↑ 引田惣弥 『全記録 テレビ視聴率50年戦争―そのとき一億人が感動した』 講談社 2004年 199頁 ISBN 978-4-06-212222-1
- ↑ 特に1995年5月第3週は4位以下が測定不能という状態になった
- ↑ 【地下鉄サリン事件から20年】麻原彰晃の三女・アーチャリーが語る 聞き手:田原総一朗
- ↑ ジャーナリスト 田原総一朗さん(80)(2/2ページ)中外日報 2014年6月25日付
- ↑ 井上順孝『情報時代のオウム真理教』 p.3-9
- ↑ 島薗進 2001, p. 18.
- ↑ オウム裁判対策協議会/集会予定および結果記録/1999年 オウム裁判対策協議会
外部リンク
- オウム真理教 反社会的な本質とその実態 - 警察庁
- オウム問題(記事更新終了) - 読売新聞